「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2010年06月15日

How long must we sing this song? Tonight, we can be as one, tonight ... ブラディ・サンデー事件の真相究明報告書、公表の日

読んでない人は、最初にこれ読んでほしい。長いけど。

2008年02月12日 マーゴ・ハーキン、『デリー・ダイアリー』(NI映画祭)を見て、当時の報道を見る
http://nofrills.seesaa.net/article/83761873.html

それと、これも。

2007年01月30日 ちょうど35年―― 1972年1月30日、デリー。
http://nofrills.seesaa.net/article/32437581.html

2008年01月30日 1972年1月30日、デリー。そして1971年8月、ベルファスト
http://nofrills.seesaa.net/article/81515258.html

2009年01月31日 Free DerryがFree Gazaになり、あのハンカチがMuseum of Free Derryに
http://nofrills.seesaa.net/article/113444195.html





今日のBBCから:
「弟は3歳の時にウイルスにやられて3週間も生死の境をさまよいましてね、それで母はすっかり過保護になってしまって。弟は学校を出てベルファストで工場づとめをするようになって、週末にこっちに戻ってきては、日曜の夜にバスでベルファストに戻るという生活だったんですが、そのたびにほらあんた、持って行きなさいってチョコレートをね。」

「弟は殺された時、17歳でした。17になっても、ねえお母さん、今日デモに行ってもいいかなと、ね。17歳ですからね、行こうと思えば勝手に行けるんですよ。それでも一応母さんに聞いてから、ってね。だから僕らがみんなで、ねえ母さんいいだろう、マイケルも一緒に行っても、と説得したんです。」

「行進が始まる前に弟に言ったんです、『もしも何かあったら、うろちょろしてたらだめだからな』と。それが弟への最後の言葉になりました。」

Mars Bar holds massacre memories
Page last updated at 08:40 GMT, Monday, 14 June 2010 09:40 UK
http://news.bbc.co.uk/2/hi/northern_ireland/foyle_and_west/10204384.stm

上記はBBCの記事にあるジョン・ケリーさんの言葉の抄訳(&超訳)である。マイケルさんは事件を記録するフリー・デリー博物館のスタッフで、事件の真相究明を求めて初期から運動してきた人たちのひとりである。

ジョン・ケリーさんの弟のマイケル・ケリーさんは、1972年1月30日、デリーのボグサイドで、英軍パラシュート部隊の兵士Fによって撃ち殺された。(「兵士F」が撃ったということは、弾丸を調べて判明している。)

マイケルさんが撃たれたとき、お母さんは銃撃が行なわれた場所が見える家の中にいて、兵士がいるのに気づき、マイケルさんに声をかけたという。しかしマイケルさんはそれに気づかず、バリケードに向かって駆け出し、そして撃たれた。お母さんの目の前で。

「マイケルが殺されたあとの5年間のことを、母は何も覚えていません。母もまた、ブラッディ・サンデー事件の犠牲者のひとりだと私は考えています。」

「私は母を生かしておこうとした、弟のために真実を明らかにしようとした。サヴィル・インクワイアリが始まったとき、母はインクワイアリの場にいました。けれども2003年に体調を崩し、2004年6月に他界しました。母が死ぬ数週間前、私は嘘をつきました。『やったよ、母さん、マイケルは兵士を襲ったり武装したりしてはいなかったと認められたよ』と告げたのです。そう聞かされていた母は満足して旅立ったと思います。」

お母さんの遺言で、マイケルさんの遺品はすべて、お母さんの棺に納められて埋葬された。撃たれた時に着ていたスーツ(日曜日、教会のお祈りが終わったあとのデモなので、参加者はサンデー・ベストを着ていた)、教科書やノート、そして食べかけのチョコレート・バー。

そして兄のジョンさんは、マイケルさんがお母さんから渡されたまま開封していないチョコバーを、今も持っているという。38年が経過した今も。



この事件がとりわけ「異常」なのは、バーナデット・デヴリンやアイヴァン・クーパーやエイモン・マッカンらの公民権運動のデモを取材に訪れていた英国のマスコミの目の前で、兵士が展開し、銃撃を開始したことだ。

どういう判断があったのか、どういう文脈があったのかなど、38年間も語られてこなかったことが、今日ようやく、明らかになろうとしている。

そしてそれより重要なことだが、これまで公式の記録では「武装していた」などと書かれていた非武装の民間人13人について、「非武装だった、まったくイノセントだった」ということが認められ、そして「英軍兵士の発砲は不法なものだった」と認められること。

先週、ガーディアンのヘンリー・マクドナルドとリチャード・ノートン・テイラーがこのサヴィル報告書の内容をすっぱ抜いた形になって以降の数日間、英軍と英国政府側からのバックラッシュはかなりすごいことになっていたが(特にタイムズ、デイリー・メイル)、どうやらそれらは負け犬の遠吠えだったようだ。ガーディアンの「リーク」の内容を、ディスクレジットしようとする動きはうざいほどあるが、否定する方向の文章は、私が見ている限りでは出ていない。

当時首相だったテッド・ヒースは2005年に89歳で死亡した。サヴィル・インクワイアリの証言聞き取りは2004年に終わっているので、ヒースは報告書を見ることはなかったにせよ、だいたいどのようなことになったかはある程度は把握していただろう。

今日のメディア:

BBC NI:

サヴィル報告書が英国政府のNI大臣に渡されたというニュースが上のほうにあり、下の方の「特集」のところに記事が2件ある。右側のBloody Sundayの文字のあるバナーは、2010年版のブラッディ・サンデー事件特集ページへのリンクだ。(過去の同事件の特集ページとは別。)

Bloody Sunday
http://news.bbc.co.uk/2/hi/in_depth/northern_ireland/2010/bloody_sunday/default.stm


デリー・ジャーナル(デリーの町のナショナリスト・コミュニティの新聞。ユニオニスト側には「ロンドンデリー・センティネル」という新聞がある)は、主要ニュースはすべてサヴィル報告書だ:


ベルファスト・テレグラフはどんどん先を行っている。この内容については、実際に報告書が公表されてから触れることにしたい:


今日のtweetから:
TR @EamonnMallie: http://twitter.com/EamonnMallie/status/16171427249 UPRG(UDA政治部門)のフランキー・ギャラガーが「ブラディ・サンデー事件で殺されたのは無辜の人々だったことを私は認める」とテレビで述べた。
http://twitter.com/nofrills/status/16183211332

TR @EamonnMallie: http://twitter.com/EamonnMallie/status/16177335455 あの日のデモの主催者の1人、エイモン・マッカンの言葉。「事件の被害者は真実を自分たちに告げてほしいのではない。真実が語られることを欲している」
http://twitter.com/nofrills/status/16183387197

http://www.flickr.com/photos/jameswhorriskey/4699703435/ ←デリーのギルドホールは、こんなふうに準備されている。ここで英国会での首相のスピーチのパブリックビューイングが行なわれ、事件被害者・犠牲者のご家族のスピーチもここで。
http://twitter.com/nofrills/status/16183735711

詳細はデリー・ジャーナル http://www.derryjournal.com/journal/TOGETHER-IN-HOPE.6359830.jp
http://twitter.com/nofrills/status/16183756454

首相のスピーチは午後3時半(英国時間。日本時間では夜11時半)から。事件の犠牲者家族らはそのかなり前に報告書の内容を知らされる。その数時間後、報道機関に内容が知らされる。首相のスピーチで内容の報道が解禁となる。首相スピーチ後にデリーでは事件の被害を受けた人々のスピーチが行われる。
http://twitter.com/nofrills/status/16184342879


それと、この報告書の公表日が確定してからこれまでの主なニュースとEamon Mallieのtweetのまとめ:
http://togetter.com/li/29346

このエントリの最後に。

2008年01月30日 「ブラディ・サンデー」事件についての映像作品と音楽
http://nofrills.seesaa.net/article/81519664.html


タグ:Bloody Sunday

※この記事は

2010年06月15日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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