「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=


2010年06月11日

ブラッディ・サンデー事件に関するサヴィル報告書、内容リーク

"Unlawful" 以外には考えられなかったのだが、それでも実際にその文字列が現れると、どきどきするし感情も昂ぶる。その行為には法的正当性などなかった。それがようやく、公の文言となった。



1972年1月30日に北アイルランドのデリーで起きた英軍の非武装民間人に対する銃撃事件(13人死亡、後日さらに銃撃の際に負傷した1人死亡)、いわゆる「ブラディ・サンデー事件(血の日曜日事件)」の真相究明のためのインクワイアリー(サヴィル・インクワイアリ)が、証言の聞き取りを終了して5年もかけてまとめた報告書(サヴィル報告書)が、来週火曜日、つまり15日に一般に公開されることになっているが、この報告書の概略が10日付でガーディアンにリークされた。



記事:
Bloody Sunday killings to be ruled unlawful
Henry McDonald and Richard Norton-Taylor
guardian.co.uk, Thursday 10 June 2010 21.30 BST
http://www.guardian.co.uk/uk/2010/jun/10/bloody-sunday-inquiry-northern-ireland

この、"unlawful" という文字列を、公式のものとして勝ち取るまでに要した時間が、38年だ。

報告書の正式な発表まであと数日あるが、「38年」という数字がさらに増えることはない。


他のメディア。ベルテレさん。



ガーディアン、アップデートされてBloody Sundayがトップニュースに。


※ブラディ・サンデーの写真の右の空白は、「イランの体制側にほころび」という調査報道の映像。

ほんで、ガーディアンの記事は事前リークなので、今はざっと目を通すだけにしておく。「事前リークなので」というより、ガーディアンが蹴ったボールが飛んでいった先が検察(PPS)で、どうもそれは、何というか、という感じがすることのほうが大きいのだが。

ま、BBCがこんな記事出してて、NIOが火消しに躍起になってるふうだと伝えられている以上は、ガーディアンの報道内容は正しいのだろう。
Guardian Bloody Sunday inquiry story 'speculation'
http://news.bbc.co.uk/2/hi/northern_ireland/10290359.stm



※この記事は

2010年06月11日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 13:12 | TrackBack(0) | todays news from uk/northern ireland | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

この記事へのトラックバック

【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

……全文を読む
▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼















×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。