「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2010年03月08日

The Undertones@高田馬場AREA (7 March 2010)

The Undertones, AREA, Takadanobaba, Tokyo (7 March 2010)

The Undertonesのライヴに行ってきた(7日、高田馬場AREA)。

まさか日本で見ることができるとは思っていなかった彼らのライヴはあまりにすばらしくて泣けたけれど、ライヴそのものについて特に何か文字にしておきたいことがあるというわけではない。アティテュードだの何だのと肩肘はらずにシンプルなことをシンプルにやるということと、その中にコアとしてある「魂」みたいなのをがっつり見せてもらった、というか。あと、オニール兄弟の「パンク・バンドのギター小僧」っぷりがかっこよすぎた。

2006年のベルファストでのライヴ映像。
the undertones live in belfast 3 dec 2006 "SHES A RUNAROUND" and "MALE MODEL"


4月にアイルランドでライヴがあるとのことで、サンデー・トリビューンにベースのマイケル・ブラッドレーのインタビューが出ている。(ただし詰めが甘いので、2枚ある写真のキャプションが逆である。)
Getting their middle-aged kicks as rock icons
http://www.tribune.ie/arts/article/2010/mar/07/getting-their-middle-aged-kicks-as-rock-icons/

The Undertonesについては、2000年か2001年にBBC Radio 1のDJ、ジョン・ピールが作ったドキュメンタリーがすごい。DVDも出ている。

B000244THEストーリー・オブ・アンダートーンズ [DVD]
BMG JAPAN 2004-07-21

by G-Tools

……と思ったら、このDVDは発売元のBGM Japanが既に消滅しているせいか、amazonでは「お取り扱いできません」となっている。もったいない。マーケットプレイスに出品はされているだろうが、輸入盤(下記)のほうが確実に入手できそうな感じ。字幕なしでデリー訛りはハードル高いのだが(でもベルファストとかコークほど高くはないと思う)。

B0007TKHKWTeenage Kicks [DVD] [Import]
Sanctuary 2005-02-15

by G-Tools


このドキュメンタリーを見るまでは彼らのやってきたことは「すばらしく曲のいいポップな青春パンク」に過ぎないかもしれないが、ここでメンバー(特にギターのオニール兄弟とベースのマイケル・ブラッドレー←曲を書いてるのはほとんど全部この人たち。特にオニール兄弟の兄のジョンとベースのブラッドレーのコンビの曲が多い)が説明しているように、1970年代後半にバンドとして活動を始めた彼らは1972年1月30日に13人が英軍に撃ち殺されるという経験をしたデリーのボグサイドの子たちで、ボグサイドといえばものすごいがちがちのリパブリカニズム(武装闘争主義)が基本という場所で、そういう場所でおそらく同年代の少年たちが何人も、武装組織に入って銃を取っているなかで、ギターを手にして「かわいいあの子がボクの彼女になってくれたらなあ」とかいうほのぼのとした青春ソングを書いてることそのものが政治的でないことによって逆にある意味で政治的なことになっていたとか(「もっと怒りを表す曲を書け」みたいなことを言われたりしていたらしい。日本語だと「この非常事態に何をチャラチャラした音楽をやっているのだ」という感じが一番ぴったり来ると思うけど)。

んで、ドキュメンタリーにはデリー名物(←表現失礼)超早口のエイモン・マッカン(1972年1月30日、ブラディ・サンデー事件のデモ主催者のひとりでもあるが、IRAではない)も出てきて、例によってものすごい早口で「The Undertonesがいかに『違って』いたか」を語っている。記憶に頼って書くと、「あの音、暴力の気配も感じさせない優しい音が衝撃だった」とか「メンバーの性格が出ている音だった」とか(=ボグサイドで支配的だったIRAとは別の空気を彼らが作っていた)。

それと、78年のTeenage Kicksで一躍「時代の寵児」的な存在になった「デリー・ボーイズ」が、BBCなど「英国」のメディアでもてはやされたことで、故郷のボグサイドでは嫌われ者になったとか、特に当時のヴォーカルのフィアガル・シャーキーは「元からの目立ちたがり屋」だったこともあって、町ではひどい扱いを受けていたとか(それに関連して、メンバーたちが「再結成に加わらない彼」について本音トークを展開するところは、見てて悲しくなる)、「体制によって差別され冷遇されているカトリック系住民のコミュニティ」の保守性というか閉鎖性というか、そういうものにうんざりさせられる部分もある。

で、81年のハンストを受けて、オニール兄弟とブラッドレーが "It's Going To Happen" を書いたこと(The Undertonesとしては初めて、あからさまに政治に言及した曲……でも当時のイングランドのパンク・バンドによるいくつかの曲のほうがもっとずっと直接的であからさまだけど)。DVDを見直さないとはっきりとはわからないのだが、ハンストというエモーショナルな出来事に触発されたことは、ハンストをしている武装勢力(IRAとINLA)を支持するかどうかとは別だといったコメント。

ジョージ・ブッシュ政権とトニー・ブレア政権がいろいろと理屈をつけて実施し、グローバル・スタンダード的なものになってしまった「テロとの戦い」のコンテクストにあったならば、1981年の「IRAのハンスト」(時の英国の与党、保守党は「あれは自殺志願者が勝手に餓死しているだけ」と位置付けていたのだが)に「触発」されて、「あなたがたが考え方を変えない限りは、あれは何度も起きるだろう」という歌をレコーディングしてリリースしたら、即座に「テロを支援するのか」と非難されているだろう。私は当時のUKのことを直接的には知らないし、間接的に知っていることもごくごく限られているからわからないだけかもしれないが、それでも、The Undertonesは "It's Going to Happen" でテレビの歌番組に出ている(その映像がドキュメンタリーに収録されている)。そしてThe Undertonesからフィアガル・シャーキーが去ってバンドが解散したあと、オニール兄弟らはThat Petrol Emotionでより「政治的」な(でも基本はポップでダンサブルでファンキーな)音楽を作るようになる。

……とまあ、私もたいがいごちゃごちゃうるさいのだが、ライヴではそんなことはまったく考えず、「20歳そこそこのギター小僧」の雰囲気をここまで維持しているのはある意味由美かおるだとか(特にデミアン・オニール)、ベースの人は仕事っぷりがプロフェッショナルだとか、ヴォーカルの人(いきなり坊主だったのでびっくりした)はステージングがちょっとモリッシーみたいだとかいうどうでもいいことを思いつつ、ひたすらタテノリ、というかpogoダンス。ただし後ろの方で。前の方はモッシュ状態になってたかも。

小さなハコ(見た感じ、フロアはキャパ250〜300人くらいか)だったけど、フロアは全部は埋まってなくて後ろの方はかなり余裕が。客層は35歳以上がかなり多かったんじゃないだろうか。んでも若い人もいたと思う(でも仮にとても若い人でも、いかにも「パンク」という服装・髪型にハーケンクロイツの腕章を合わせるのは恥ずかしいです。「1977年のロンドン」のコスプレでもない限りは)。

曲目は、ヒットパレードっていう感じ。最初はいきなりYou've Got My Numberで、あとはHere Comes the Summerも早々とやったし、Get Over YouとかJump BoysとかFamily EntertainmentとかWhen Saturday Comesとか……Teenage Kicksもアンコールじゃなくて、後半すぐくらいにやったし。あと、ヴォーカルの人がかなり飲んでたのだろうか(でも歌はすごいしっかりしてた)、ベースとヴォーカルの間がときどきちょっと緊迫してるように見えたけど、基本的に二人のやり取りは事実上「漫才」みたいだった(例えば:ヴォーカル「誰か親切な人、水持ってきて そこの親切な人、そのビールをあたしにくだちゃい」→観客、ビールを渡す→ヴォーカル飲む、1曲やる→曲終わる、観客拍手する、ヴォーカル身を乗り出す→観客、頼まれてないのにビール渡す→ヴォーカル、それを受け取って「どうもっす」→3秒後、ベース「はい、ビール休憩終了、さくさく行こう」)。でもメンバー名に言及するときにヴォーカルの人(ポール・マクルーンさん)の口から「フィアガル・シャーキー」の名前が出てきたときにははらはらしちゃいました。でもステージングや曲は険悪な雰囲気ではなかったけど。そこらへんは亀の甲より年の功の域かもしれない。

アンコールは「東京最後の日にJimmy Jimmyをやらずに済ませるわけにはいかないので」って始まって、次……何だっけな、記憶が……何しろ曲がどれも2分くらいで終わってしまうので……最後はMy Perfect Cousinでした。It's Going to Happenはやらなかった。

あ、あとドラムの人が若くて、「ケヴィン」って呼ばれてたような気がするんだけど(My Perfect Cousin?)……ビリー・ドハーティじゃなくて。
http://en.wikipedia.org/wiki/The_Undertones

前座は、1つ目は3人組でネオモッズって感じで……ごめんなさい。ドラムが女性だったことは覚えてるけど……。2つ目の前座はJuniorというバンド……フロントに5人(ベース、ティン・ホイッスル、歌、アコーディオン、ギター)、奥に2人(バグパイプ、ドラム)の7人編成のアイリッシュ・パンク。いやもうcraicというか、「よくわからんかもしれんけどとにかくお祭り騒ぎしよう」っていう音ですばらしかったです。

あ、検索してみたらJuniorのティン・ホイッスルの人のブログが。
http://ameblo.jp/tin-whistle555/entry-10476725989.html
……

JUNIORライブ終わって楽屋に帰って行ったら
UNDERTONESメンバーが皆さんで「エクセレント!」やら「イエェ〜〜」ってな
ハイタッチで迎えてくれて嬉しかったぁ〜〜〜ホントに!

あの、UNDERTONESがだぜ?

いろんな話をしてくれてるんだけど、英語がしゃべれないのが歯痒かったな…

UNDERTONESマネージャーの方がイギリスであるアイリッシュフォークフェスみたいのに来い!
みたいな事を言ってくれたり(本当にそんな日が来たら最高だなぁ)

……

ステージ見ただけですが、キャラ的に、アイルランド島縦断演奏旅行のドキュメンタリーDVD作ってほしいです。デリーから入ってドニゴールに行って、南下しつつ東西ジグザグして、ゲールタハトも行って……って感じ。少なくとも司馬遼太郎の『街道を行く』のアイルランド編よりずっと中身のあることができると思う。

The Undertones:
http://www.theundertones.com/
http://www.myspace.com/theundertonesmyspace

B001DZA416An Anthology
The Undertones
Salvo 2008-09-30

by G-Tools


B000VKLZHQDig Yourself Deep
Undertones
Cooking Vinyl 2007-10-15

by G-Tools

↑The Undertonesの再結成は「懐メロバンドの金儲けツアー」ではなく、新作の制作・発表も含む。



高田馬場AREAって、ライヴハウスとしては初めて行ったのだが、大昔、あの場所=西友の地下は「パール座」という映画館だった。三鷹オスカーよりはましな椅子のある3本立て名画座だったような気がするが、早稲田松竹よりましな椅子のある2本立て名画座だったかもしれない。ともあれ、ライヴハウスとしてもステージが見やすくて(フロアに段差があるのでステージが見易いのは西新宿にあったころのロフトに似ているが、それよりもステージ幅が広く、段差を設けてあるフロア後方にも2つに分けて柵がある)、ドリンク代500円で飲める「ビール」が麒麟端麗(発泡酒)ではなくサントリーのモルツ缶であるところもよかった。でもこのハコに行くことは、来日公演でない限り、めったにないと思うのだけど(ヴィジュアル系ばかりなので)。



ジョン・オニール(兄弟の兄のほうで、The Undertonesのギタリストでコーラスを取らない方)は、ブラディ・サンデー事件の真相究明を求める家族・遺族や目撃者の動きを丹念に追ったマーゴ・ハーキン監督の『デリー・ダイアリー』というドキュメンタリーの音楽を担当してもいる。
http://nofrills.seesaa.net/article/83761873.html

『デリー・ダイアリー』は、サヴィル・インクワイアリの報告書が出たらエピローグが加わるかもという話だったのだが、その時は確実に近づいていると思われる。


Bloody Sunday report due at end of March
Families of 14 shot dead by British soldiers in Derry concerned government will see Saville report before them
Henry McDonald, Ireland correspondent
guardian.co.uk, Friday 5 March 2010 09.32 GMT
http://www.guardian.co.uk/uk/2010/mar/05/bloody-sunday-report-end-march

※この記事は

2010年03月08日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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