「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

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2010年02月06日

北アイルランド、1998年の合意から2006年の合意を経て2010年の(今回の)合意へ

DUP内がもめにもめて「何も起こらない」状態が続いた挙句、5日にようやく「ヒルズバラ合意」によって「政治的解決」の形式が整った北アイルランドの警察・司法権限移譲のことは、日本のマスメディアでも報じられている。

朝日新聞:
北アイルランドに警察・司法権限移譲へ 和平合意の節目
2010年2月6日0時10分
http://www.asahi.com/international/update/0205/TKY201002050551.html

この朝日新聞の記事は、今回の合意について報じる部分はだいたい正確だと思うが(「1998年の和平合意プロセス」じゃなくて「1998年の和平合意によるプロセス」だろうとか思いはするのだが、文字数の問題があるだろうから……)、その「1998年の和平合意」をめぐる説明の部分に、報道としては致命的といえる誤りがある。

 北アイルランド紛争問題は98年4月、当時のブレア英首相らが主導し、プロテスタント側の強硬派・民主統一党(DUP)とカトリック過激派アイルランド共和軍(IRA)の政治組織シンフェイン党が和解し、和平合意したが、長年の敵と警察や司法の権限を共有することには双方に反対論があり、権限移譲が宙に浮いたままだった。

この日本語を普通に読むと、“1998年4月にブレアらが主導した「和平合意」において、DUPとシン・フェインが和解した”と読めるはずだ。

これは事実と反する。DUPは1998年の合意にはずっと反対してきた(今もそのスタンスは公的には変わっていない)。
http://en.wikipedia.org/wiki/Democratic_Unionist_Party#Belfast_Agreement
The 1998 Belfast Agreement was opposed by the Democratic Unionist Party. The opposition was based on a number of reasons ...


「DUPとシンフェインが和解した」のは、1998年の合意でではなく、2006年10月の合意(セント・アンドリューズ合意 St Andrews Agreement)でのことだ。

(なお、この2006年の合意に基づく政治プロセスは、2006年11月の最も重要な日に「ロイヤリスト武装組織メンバーだったマイケル・ストーンが議事堂に手製爆弾を持って突撃する」というとんでもない出来事があったために、日程がすごく乱れたのだが、当初予定の2007年3月から数週間遅れの2007年5月には自治政府再起動という形で実を結んでいる。)

2006年の合意を受けて「北アイルランド自治政府のファーストミニスター」となったDUPのイアン・ペイズリー(70年代、80年代においてものすごい勢いで「カトリックに対する妥協は一切すべきではない」とアジりまくっていた人物で、当時の北アイルランド警察RUCが「最もやばい危険人物」としてマークしていた政治活動家はプロテスタントでユニオニストのイアン・ペイズリーだった。ソースはピーター・テイラーの本)は、「あれだけ反対していた1998年の合意を受け入れるのか」とつっこまれたときに、「私は1998年の合意には一度も賛成していない。2006年の合意は1998年の合意の悪いところを修正したもので、私はそれに賛成したのだ」と答えていた。

で、「1998年の合意」と「2006年の合意」を、究極的には同じものと見るか、別のものと見るかということは、実はかなり微妙な問題をはらんでいる。いずれにせよ、「DUPは1998年の和平合意でシンフェインと和解した」というのは、センター試験の世界史などの「間違った記述を選べ」という問題にでもなりそうなくらいに間違いである。

1998年4月の合意(ベルファスト合意、いわゆる「グッドフライデー合意」)は、当時のプロテスタント系(以下「オレンジ」)、カトリック系(以下「緑」)両派それぞれの第一党によって協議された。オレンジ側はUlster Unionist Party (UUP)、緑側はSocial Democratic and Labour Party (SDLP) である。「DUPとシン・フェイン」ではない。

UUPは、1921年のアイルランド南北分断(つまり「北アイルランド」の成立)以降ずっと北アイルランド政府(「自治政府」よりも権限が大きかった)を担ってきた政党である。この政党のもとでの「カトリックへの差別」は、当時の南アフリカのアパルトヘイト政策と同じ性質のものといわれ(「〜といわれ」っていうか、私もそう考えているが)、「北アイルランド紛争」の直接的原因のひとつとなった。表向きにはプロテスタント系武装勢力(UDAなど)との関係はない。(ただしUUPのメンバーがオレンジ・オーダーのメンバーで、オレンジ・オーダーには……ということは普通にある。)

SDLPは、「北アイルランド紛争」の本格化の前、1968年に最盛期を迎えた公民権運動 (Civil Rights Movement) から発した政治組織で、1970年に創設。「英国の支配」に対しては武力で抵抗するしかないというシン・フェインの武装ナショナリズムを否定し(このために、SDLPの幹部の家はIRAに襲撃されたりしている。同じ「緑」陣営なのに)、ストーモントに置かれた自治議会・政府の中から変革を目指し、1974年に数ヶ月間だけ存在した「UUPとSDLPのパワー・シェアリングによる自治政府」にも参加した。(なお、この1974年のパワー・シェアリングは、プロテスタント側のパワー・シェアリング反対派の激しい抵抗によって潰れた。プロテスタント側の激しい抵抗の理由は、「IRAの活動」と「カトリックのアイルランド共和国政府によるプロテスタントへの支配の可能性」だった。)

ちゃんと書こうと思うとものすごい長くなって時間も食うのではしょるが、1997年の英ブレア政権成立で開始された協議の結実である1998年の和平合意(グッドフライデー合意)のとき、北アイルランド自治議会(当時「自治」は停止されNIは英国政府による直轄統治だったので、正確には「自治議会」ではないのだが、説明の簡略化のためそう記す)に議席を持っていた党は、UUP (議席数30), SDLP (21), DUP (24), Sinn Fein (17), Alliance (7), UKUP (3), PUP (2), UDP (2), ... であった(英語版ウィキペディアを参照)。

※UKUPは、UUPの右派の政治家が1990年代の英メイジャー政権下での和平への動きに反発してUUPを離党して立ち上げた「ワンマン政党」で、2000年代後半に地方議会(市町村レベル)でも議席ゼロとなり、事実上消滅している。PUPは、ロイヤリスト武装組織UVFの政治部門で、政策としては左翼(社会主義)、ウォッチャー的には非常に興味深い政党だが、「北アイルランドの政治」にはあまり大きな意味を持っていない。UDPは同じくロイヤリスト武装勢力UDAの政治部門で、こちらも1998年の和平合意をめぐって、いわばSinn Feinと32 CSMのような分裂劇を経て、現在はUPRGとなっている。

これらの政党のうち、オレンジと緑両陣営の最大政党(UUPとSDLP)が「和平」に向けた協議の中心となったのだが、それだけでは70年代以降何度も失敗してきた「北アイルランド和平」の再現にしかならない。ブレア政権(中心は外務官僚だったジョナサン・パウエルと、NI担当大臣だったモー・モーラム)がすごかったのは、ここで「武装勢力(の政治部門)」を議論に参加させたことだ。

当時、リパブリカン側(緑)最大の武装勢力はProvisional IRAで、その政治部門がSinn Feinだった。シン・フェインは、1998年4月にグッドフライデー合意として結実することになるプランを支持した。(PIRAがそれを支持したことに反対して、袂をわかったのが分派のReal IRAであり、その政治部門の32 CSMである。もっと前に分派していたのがContinuity IRAで、その政治部門がRepublican Sinn Feinである。また、PIRAが大元のIRAから分派したときのもう一方からさらに分派した武装勢力がINLAで、その政治部門がIRSPである。)

Allianceは1970年の創設で、北アイルランドで唯一「普通」の、「ユニオニズムかナショナリズムか」を主眼としない政党で、彼らは当然、1998年和平合意を支持。PUP(UVFの政治部門)も支持した。

しかし、DUPは違う。DUPは80年代の "Ulster Says NO" というスローガンで有名なのだけど、1998年合意でもとにかく "NO" だった。だからイアン・ペイズリーはアンサイクロペディアでああいうことになっているし、英国政府のNI担当大臣だったモー・モーラムはFワードを使わなければならなかった(「伝説」と化しているのを参照)。1985年のデモのときの "We say never, never, never, never" を参照。(ほんとすごいわこれ。)

Ian Paisley Speech Ulster Says No Rally Belfast City Hall November 1985
http://www.youtube.com/watch?v=8zSWlAHD29M

つまり、当時北アイルランド自治議会に10以上の議席を有していたUUP, SDLP, DUP, Sinn Feinの4大政党のうち、1998年和平合意に反対していたのはDUPだけだったのだ。

で、DUPは "never, never, never" のまま、英国とアイルランド共和国両政府と、UUPとSDLPが主導した和平合意は、シン・フェインなどの支持を得て、1998年4月に成立した。

※なお、この合意により、UUPのデイヴィッド・トリンブル党首とSDLPのジョン・ヒューム党首は98年のノーベル平和賞を受けた。ヒュームは1968年のデリーでの公民権運動に対する極めて暴力的な「鎮圧」のころからの政治的指導者だったので、そういう人が「和平」に尽力するのは何と言うか「当たり前」な感じなのだが、トリンブルはUUP内では強硬派に属していた人で(事後的に「穏健派」と呼ばれることもあるが、それは違う)、和平合意成立後もシン・フェインに対しては複雑な感情を抱いていることがインタビューなどからわかる。

しかしその後、1998年8月15日には、土曜日に買い物客で賑わうオマーで、北アイルランド紛争の時代にもなかったような滅茶苦茶な爆弾テロ攻撃が行なわれ、スペインから修学旅行に来てた子供とか出産間近の妊婦を含む29人が殺され数百人が怪我。この爆弾テロを行なったのは、和平合意に賛成した「IRA (= Provisional IRA)」ではなく、それに反対して分派したReal IRAだったのだが、オレンジ陣営の和平合意反対派にしてみればオマー爆弾事件は「ほら見たことか」という要素になった。つまり、「緑陣営の連中に妥協し、甘い顔をすれば、ああいうことになるのだ」というような。(もちろんそれは正しくはない。)

そして、その後はずっと「IRA (= Provisional IRA) の武装解除」をめぐって事態が膠着するなか(そういえば最終的に、ロイヤリスト側の武装組織の武装解除をめぐっては、事態は膠着しなかったね)、2000年代に、UUPは支持を減らした(現在は、かつて北アイルランドを完全に支配していた政党だとは思えぬくらいに議席数を減らし、ブリテン島の保守党と「ゆるやかな連合」という体裁の合同をしなければならないほどだ)。UUPに代わってユニオニスト側で支持を得て第一党となったのがDUPである。

1998年の自治議会選挙(和平合意成立後、まだお祝いムードだった6月に投票)での議席数(左)と、2003年の自治議会選挙(前年10月「ストーモントのシンフェイン事務所にIRAのスパイが」という騒動で自治議会がサスペンドされた後の投票。なお「IRAのスパイ」説は後に事実ではなかったことが判明した)での議席数(右):
UUP: 28 → 27 (-1)
DUP: 20 → 30 (+10)
SDLP: 24 → 18 (-6)
Sinn Fein: 18 → 24 (+6)
Alliane: 6 → 6 (0)

こうして、2000年代に、「北アイルランド和平」は「UUPとSDLP」ではなく、「DUPとシン・フェイン」という、オレンジ側と緑側の「最も極端」な政治勢力の間で協議される話となった。そのことについては、「紛争にどのように対処するかについては、そのように最も極端な勢力を話し合いの当事者にしなければならない」ということを2003年の自治議会選挙後にブレア政権側が明言していて、それはこの2年くらいの間、「アフガニスタンのタリバンにどう対処するか」という文脈で、ジョナサン・パウエルら「北アイルランド紛争解決のアーキテクト」によって繰り返されている。

しかしそれは完全ではなく、議席という形でのパワーは持っていないけれども武力というパワーを持っている人々がそのような「協議」そのものに反対し、そのような「協議」に参加している一派を「最も重要な点で妥協した裏切り者だ」的に非難しながら、活動を継続、もしくは活発化させるということがある。それが現在のReal IRAでありContinuity IRAであり、それらの分派である。

……ここまで書いたらすげー疲れたからとりあえずこの辺で。続きはまた。

なお、朝日新聞記事の最後:
先月下旬にブラウン首相とアイルランドのカウエン首相が現地入りし、自治政府と協議。英メディアによると、新設の司法相ポストを、中立の立場を取る小政党に渡すことなどで妥協したという。

第一文のあとに、「その後ずっと事態が膠着していた」というのが抜けている(当ブログにおける「ゴド待ち」)。また、「中立の立場を取る小政党」というのは「アライアンス党」のことで(「小政党」呼ばわりは失礼。「地域政党」だ)、アライアンスに司法大臣を任せるというのは、「英メディアによると」で書くべきことではない。ヒルズバラ合意(今回の合意のこと)の文面は、合意成立直後にPDFで公開されていたのだから、そのくらい目を通してから書いてほしいと強く思う。



ところで、朝日新聞はあの「アイルランド島の東北部6州」のことを「英領・北アイルランド」と呼んでいるのだろうか。あるいは、報道用語では「自治議会、自治政府」があるから「英領」って言うのだろうか。

後者ならばブリテン島の南西部のあの辺のことは「英領・ウェールズ」って言わなきゃなんないし、ブリテン島の北半分は「英領・スコットランド」だ。特にスコットランドは自治議会の権限はものすごく大きいので(「高度な自治」と言える程度に)。

それから、これにならえば、イラクの北の方にあるあの地域は「クルド自治区」というより「イラク領・クルディスタン」だろう。同様に……という違和感が「英領・北アイルランド」という表現にはつきまとう。私は「北アイルランドは英国の一部」ということは、事実としては踏まえているのだけど……うーむ、「英領」という響きがアレなのかな。



朝日とは別に、AFP BBの記事。「ゴド待ち」の間Twitterで参照してきたEamonn Mallieによる記事の要約。


共同通信。さすがやね。でも最後がやはり「英メディアによると、治安権限の移譲は4月12日までに実施」。だから合意文書はPDFで誰でも閲覧できるんだから(しかも合意本文の一番最初に書いてある)、孫引きみたいなことをやって「報道」するのはやめれ。


日経。1998年から2007年の間が抜けてるので話がすごくスッキリしちゃってるけど、別に間違いじゃない。


※UPDATE: すみません。修正。念のため確認した記事に「歴史的」の文言があったので、下記において、取り消し線を補った。
時事が「米大統領の反応」を伝えているけれど、これ誤報だと思う(ただし私の中では、オバマがこの件についてどう発言するかなどということはプライオリティとして100番目くらいで、積極的に記事を拾って読んでいたわけではないため、「誤報だ」と断定できるほどの知識はない。また、「誤報である」ということを確認するための手間をかけようとは思わない。上の、朝日の変な解説がきっかけで書いたことだけですごい時間かかってるし)。今回の合意(2010年ヒルズバラ合意)については、「歴史的 historic」という言葉が用いられないことがニュースねたになっているし、時事通信が紹介しているオバマ大統領の言葉のなかにも「歴史的」という表現はない。記事を書いた記者の解釈で「歴史的」と評価した可能性はあるが、それならばカギカッコをこのように使うべきではない。

http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2010020600072
「歴史的合意」と称賛=北アイルランド権限移譲−米大統領

 【ワシントン時事】オバマ米大統領は5日、英領北アイルランド自治政府のプロテスタント系民主統一党(DUP)とカトリック系シン・フェイン党が英政府からの治安・司法権限移譲実施で合意したことについて、「歴史的合意」と称賛した。
 ギブズ大統領報道官が出した声明によると、……略(2010/02/06-06:53)


ちなみにBBCでは:
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/northern_ireland/8499992.stm
US President Barack Obama has hailed the Northern Ireland policing deal as "an important step".

The president will meet First Minister Peter Robinson and Deputy First Minister Martin McGuinness in Washington on St Patrick's Day.

記事は長いけどほとんどが北アイルランドの政党の反応を紹介する文で、オバマの反応については上記引用部分だけ。「スルー」といってもいいくらいに小さな扱いだ。米国ではヒラリーが何か言ってたので(米国による投資の話)そっちにオバマ発言が紹介されてるかなと思ったけど、ない。まあ、この件についてはオバマはほんとにどうでもいいです……「歓迎する」以外は何の役割も果たさないので。

でも、政治において「歴史的 historic」という語は非常に大きな意味を持つので、時事の報道が本当ならちょっと気になるけどね……。まあいいや。すごくどうでもいい。

UPDATE: リンクと該当箇所の抜粋だけ。
Obama hails Northern Ireland justice deal
http://www.belfasttelegraph.co.uk/news/local-national/obama-hails-northern-ireland-justice-deal-14670096.html
“The President appreciates the personal contributions and steadfast support of the Taoiseach and UK Prime Minister Gordon Brown in support of the historic agreement achieved by Northern Ireland leaders, which is an important step on the pathway to greater peace and prosperity for all communities on the island,” a White House statement said.


うーん、アイルランドも英国も「歴史的」という言葉は選択から外しているはずなのだが、米国はこれなのか……。ま、今回は米国の果たした役割はないから(「うまくできたら投資してあげます」的なことは事務レベルで言ってたかもしれないけど)。

ああそうか、BBCは誰の発言であれ、中立的なはずの外国の偉い人が今回の合意について「シン・フェインと同じ言葉」を使って評価しているとは書けないのかもしれない。"all communities on the island" という表現も削られているし(これは、アイルランドを「島全体でひとつ」と見なす表現で、英国政府はともかく、北アイルランドのユニオニストにとっては無茶苦茶刺激的な表現。言ってみれば、今のイスラエルと同じように「国際社会はみんな我々の敵の味方をする」という根性が染み付いているとしか言いようのない心理状態にあるユニオニストのハードコアな人々を無駄に刺激したくないのかもしれない……推測にすぎないけれども)。

ちなみに、ベルリン演説のときにオバマは「北アイルランドでも壁が崩れた」的な発言をしているのだが、それは事実と違っている、ということが北アイルランドでは話題になった(当時のSluggerなど参照)。
http://en.wikipedia.org/wiki/Peace_lines
Originally few in number, they have multiplied over the years, from 18 in the early 1990s to 40 today; in total they stretch over 13 miles (21 km). Most are located in Belfast.

※この記事は

2010年02月06日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 23:54 | TrackBack(0) | todays news from uk/northern ireland | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼