「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2010年01月30日

それについては、とても静かな1月30日@38年目

毎年のことだが1月30日である。

今からちょうど35年前の1月30日、北アイルランドのデリー(ロンドンデリー)では、非武装のデモ隊が英軍(1st Battalion of the Parachute Regiment)の発砲を受け、13人が死亡という事件が発生した(後にさらに1人が、おそらくこのときの負傷が原因で死亡)。Bloody Sunday(血の日曜日)事件である。
http://en.wikipedia.org/wiki/Bloody_Sunday_%281972%29
http://cain.ulst.ac.uk/events/bsunday/bs.htm


――以上、ちょうど3年前に書いたものの丸写しだ。
http://nofrills.seesaa.net/article/32437581.html

今年で、事件から38年になる。

……という書き出し自体が、2008年1月30日に私が書いたことのほとんど丸写しである。(毎年1月30日、31日にはこのことを書いているので、読みたい方は左のサイドバーの「過去ログ」のところからたどってください。)

「38年」は大きな節目というにはキリがよくないし、今年は、北アイルランドの政治がいろいろと激しく厳しい局面で、マスコミでも「過去を振り返る」記事は、あったとしても大きな扱いではない。私は毎日BBC NIを見ているし、NIのほかのメディアもよくチェックしているが、今年の「その日」を前に、ブラッディ・サンデー事件についての記事を見た記憶はない。時差があるにせよ、日本時間で29日の夜になれば現地のメディアに記事の1点や2点は出ていたのだが。

昨年(2009年)は、1月はイスラエル軍によるガザ攻撃に抗議するデモ行進などがナショナリスト側では何度か企画・実行されていて、デリーではFree DerryのゲーブルがFree Gazaに書き換えられたりして、それが話題になっていた。それから、1972年1月30日にボグサイドで撃たれて殺された少年の血を吸い込んだハンカチが、フリー・デリー博物館に寄贈された、というニュースもあった。
http://nofrills.seesaa.net/article/113444195.html

そして、昨年、Free Gazaに書き換えられたゲーブルの写真を見て、ハンカチの写真を見ながら、「来年の1月30日は真相究明のためのサヴィル・インクワイアリの報告書が出てしばらく経っているはずだ」と思っていたのだが、それは実現されていない。(そのことについては、そういうニュースがあったときにエントリにしていると思う。)

で、ブラディ・サンデー事件についてのサヴィル・レポートではなく、イラク戦争についてのチルコット・インクワイアリでのトニー・ブレアの証言を聞きながら、私は東京で、2010年の1月30日を迎えたわけだ。Andy Weatherall + David Holmesを聞きながら。

ともあれ、資料的なことは2007年1月30日のエントリにまとめてあるので、それをご参照いただきたい。

2007年01月30日 ちょうど35年―― 1972年1月30日、デリー。
http://nofrills.seesaa.net/article/32437581.html

※この記事は

2010年01月30日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼















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