kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2009年12月24日

【訃報】大アヤトラ、フセイン・アリ・モンタゼリ師(イラン)&また激しいことになってるかも

大アヤトラ、フセイン・アリ・モンタゼリ師が亡くなったときのBBC Newsトップページのキャプチャ(キャプチャだけとってあった)。



モンタゼリ師は1979年革命で指導的な役割を果たした宗教指導者のひとりで、ホメイニ師のあとを継ぐと思われていたけれども、ホメイニ師が亡くなる直前に反体制派虐殺をめぐって意見したことで仲違いし、最高指導者には今のハメネイ師が選ばれた。しかしながら、宗教家としてはモンタゼリ師(大アヤトラ)のほうがハメネイ師(アヤトラ)より上。「イスラム共和国」というスタンス的には、普通に考えれば、モンタゼリ師は最大限に敬ってしかるべきなのだが、師が亡くなったことはイラン国営では、当初ごく短く、「大アヤトラ」という位に言及せずに伝えただけだという話だ。(一応複数ソースで確認しているが、相変わらず英語圏を含む外国のメディアの取材活動が厳しく制限されているので、ぼやーんとしている。)

モンタゼリ師の葬儀は月曜日に聖地ゴム (Qum) でいとなまれ、大勢の人々が最後の別れに訪れたとのことだが、例によって国営は「集まったのは5000人」などと大嘘を書いているそうだ(実際にはどう見ても数万人単位だったらしい)。ムサヴィ、カルヴィの両氏(大統領候補)も弔問に訪れたとのこと(ラフサンジャニ、ハタミの名前は私は見ていないが、記事を見た数が少ないので見落としかもしれない)。

そして水曜日、全国各地での追悼の集まりで衝突、という記事がBBCに出ていたのだが、これがいつの間にか、BBC News全体のサイトのトップニュースになっている。キャプチャ。



これまで見てきた経験上、BBCがイランの反体制デモ関連のニュースをこういうふうに大きく(BBC News全体のトップニュースにするほどに)扱っているときは、その衝突の中身がかなり大規模であるか、弾圧がかなり深刻であるか、といった事情があることが多いので、非常に気になる。

気になる人はここをチェック。live blogで英語。
http://enduringamerica.com/2009/12/23/the-latest-from-iran-23-december-this-time-no-pause/

今年はアシュラの日が12月27日なのね。
http://en.wikipedia.org/wiki/Day_of_Ashura


※この記事は

2009年12月24日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 01:40 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼















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