「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2009年10月18日

Five Minutes of Heaven、10月19日と22日に東京で上映(付:「北アイルランド紛争」という神話)

今年の春、BBCで放映されたテレビ映画、Five Minutes of Heaven (FMOH) が、『5分間の天国』の邦題で、東京国際映画祭のWorld Cinemaの部門で上映される。昨年の『Hunger』に続いて2年連続で北アイルランドもの。このまま毎年、北アイルランド枠を確保してくれるんだろうか。わくわく。

会場はTOHOシネマズ 六本木ヒルズ、上映日時は10/19の17:00-18:28と、10/22の11:40-13:08の二度。チケットなど詳細については映画祭のサイトを参照。

この作品については、映画の主人公のひとりである「UVFのメンバー」、アリスター・リトルさんの言葉を中心に、以前書いているのでそれをご参照願いたい。

2009年04月05日 「しかし、私は北アイルランドのラーガンに生まれたのだ」――ドラマFive Minutes of Heavenの「UVFのメンバー」の言葉
http://nofrills.seesaa.net/article/116865122.html

それから、この映画について、必読のダブリンのナオコガイドさんのブログから:
2009/03/15(日)  アリスターの映画『ファイブ・ミニッツ・オブ・ヘブン』
http://naokoguide.blog33.fc2.com/blog-entry-851.html

FMOHは重厚な、台詞と人間の表情によって綿密に構成されたドラマで、台詞は北アイルランド訛りだから(当然)、字幕つきで見られる機会は貴重です。ぜひ。

トレイラー:
http://www.youtube.com/watch?v=uZOE7HgvI3c


それと、この映画を見る前に――「北アイルランド紛争」っていうと「IRA」としか思い浮かばない人は、お茶でも飲みながら「北アイルランド紛争FAQ」、特に、「北アイルランド紛争の基本的な構図」についてをご一読いただきたいと思う。そのへんの背景知識があまりに薄いと、この映画は基本的な構図もつかめないかもしれないので。

さて、この作品について、他にも書いている人がいるだろうかと検索をしてみたら、「クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)」さんというブログで、この8月に、米国の映画館で公開されたときのNYTの記事を参照しながら書いておられるものが見つかった。
http://blog.livedoor.jp/yosoys/archives/51290132.html

丁寧に書かれた記事なのだが、とても引っかかるところがある。映画でジェイムズ・ネスビットが演じるジョー・グリフィンの人物像について、実際に対面して話をしたネスビットが生き生きと語っている部分の引用に続く部分で、ブログの筆者のかたの地の文だ。細かいところに難癖をつけるように見えてしまうかもしれないが、重要なところなのでご容赦いただきたい。

……政治経済軍事あらゆる面で圧倒的に不利な立場にありながら、プロテスタント勢力と英軍を向こうにまわして、互角といっていい戦いを30年にわたって続けたカトリック側組織 IRA を支えたのは、こうした[引用者補:ジョー・グリフィンのような]人びとであったのでしょう。……


「カトリック側」の人たちが「IRAを支えた」ということだろうか。そんなことをあっさりと書いてほしくない。なぜなら、それは事実に反するから。断言するが、それは「IRAのプロパガンダ」だ。「IRAを支えたのはカトリック側だった」は事実だが、それを裏返した「カトリック側はIRAを支えた」は事実ではない。(ただし「カトリック側はUDAではなくIRAを支えた」と書けばそれは事実になる。)

「IRAはカトリックのナショナリストの住民たちのために戦っている」というのがプロパガンダであるということを示す例はいくらでもあるが、ひとつ、明らかな例を示しておこう。

まず、ナショナリスト側(カトリック側)の主義主張には、武装主義(リパブリカン)と非武装主義(ナショナリスト)がある。長年、「カトリック側」の人たちが自身の代表者として選んできたのは非武装主義の政党であって、武装主義のシン・フェインではなかった。(後述)

非武装主義のナショナリストの政治家、ジェリー・フィットの家(かつて、イースター蜂起の指導者ジェイムズ・コノリーが住んでいた家)は、たびたび焼き討ちされた。フィットはベルファストのフォールズ・ロード地区選出の議員で、焼き討ちをやったのはIRAだ。つまり、ナショナリズムを掲げる連中が、ナショナリストの人々が投票で選んで議会に送ったナショナリストの政治家の家(しかも、ナショナリズムにとって象徴として非常に重要な意味を持つ家)に火炎瓶を投げ込んでいたのだ。

最後にはフィットは北アイルランドにいられなくなってしまい、引っ越した先のイングランドで亡くなった。

これが現実で、こういうことは北アイルランドの外ではほとんど語られてこなかった。(私も初めて知った時には相当びっくりした。「カトリックはプロテスタントと英国人から弾圧されていた」というのは、事実の半分でしかない。)

ちなみに、2003年までは、北アイルランドのナショナリスト側の第一党は、IRAの政治ウィングであるシン・フェインではなく、ジェリー・フィットらのSDLP(社会民主労働党)だった。「北アイルランドといえばIRAとシン・フェイン」というのは思いこみにすぎない。80年代にシン・フェインのジェリー・アダムズに議席を取られるまでは、フォールズ・ロードの議員はフィットだった。SDLPは1960年代後半のカトリックの公民権運動を担った人々が中心となってつくった政党で、1920年代以来のIRAとシン・フェインの武装闘争主義を否定した。それゆえに、IRAの暴力の標的となったのである。

北アイルランド紛争においては、IRA(やINLA)という武装組織は、英軍や「プロテスタント側」の武装組織を攻撃対象としただけではなく、自身を生んだ「カトリック側」のコミュニティをもぼろぼろにした。当初は「プロテスタントの暴れ者の襲撃からコミュニティを守る」という自警団的な役割を有していたことは事実だが、「紛争」の激化でどんどん変容していった。「組織」を維持するためにどのようなことが行なわれうるか、そしてそれが武装組織の場合は……。ジーン・マコンヴィルという女性のことなどを参照。彼女は完全にイノセントではなかったかもしれないけれど、幼い子供たちを置き去りにしたまま拉致されて殺されて誰も見つけられないようなところに遺棄されるほどのおこないをしたのだろうか。

マコンヴィルさんの息子さんなど、紛争を生きることを余儀なくされた「カトリック側」の人たちのことばは、今はネットで簡単に読むことができる(少し検索すれば見つかる)。これらにに真剣に向き合ったら――元IRA闘士の言葉であれ、武装闘争に反対し続けたSDLPの政治家の言葉であれ、武装闘争というものについてのイデオローグ的な役割を果たしたシン・フェインの能弁家たちの言葉であれ、ほんとに単に「たまたまこんなところに生まれてしまったのでそれを経験するはめになった」という人たちの言葉であれ――グッドフライデー合意から11年経過し、英軍の北アイルランド治安維持作戦(オペレーション・バナー)が正式に終了して2年が経過した今も、そういう「ことば」があるということを受け止めたら、「カトリックの側の人々がIRAを支えた」などということは、言えないし書けないはずだ。

2009年の現在、IRAで戦っていた人々自身(例えばマーティン・マクギネス)が、過去の自分たちの言葉のコピーのようなReal IRAやContinuity IRAといった人々の言葉を前に、なんとかして辻褄を合わせようと苦闘している。同時に、「過去の傷」という問題の「解決」も課題となっている。そしてそういう「傷」については、今もまだどうしたらいいのか、北アイルランドはわからずにいる。「和平」において重要な役割を果たした双方のコミュニティの重要人物、Eames and Bradleyの最近の活動を参照。
http://en.wikipedia.org/wiki/The_Troubles#Consultative_Group_on_the_Past

そしてそれが、北アイルランドというあの小さな地域の外側では、その只中にいる人たちが感じているほどには、大きなことではない(だから報じられない)。

そうして、「北アイルランド紛争」というものが、何かロマンチックなものとして描かれがちななかで、Five Minutes of Heavenのような作品が上映される機会があることは、感謝すべきことだ。



もう少し書いておきたい。

ボーダーの南の人だが、U2のBonoは、エニスキレン爆弾事件のあった日に北米でのコンサートでSunday Bloody Sundayを歌う前に、IRAを金銭的に支えてきた在米の支援者・支援組織に対し、「行ったこともない『祖国』について、勝手なロマンティシズムで語って浸ってんじゃねぇ、革命とか、都合いいことほざいてんじゃねぇよ。アイルランドに暮らす俺らは誰も、あんなことは望んでない」と言った。これは、ドキュメンタリー作品 "Rattle and Hum" に入っている。

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武装闘争至上主義の、武装闘争でしか「祖国統一」は達成されえないという信念、ユナイテッド・アイルランドは血を流し爆弾と銃弾で達成すべきものであるというある種典型的な「ナショナリズム」の思想信条(あるいはただの思い込み、狂信)にとらわれたIRA(やINLA)は、「敵」を――「外国から来た支配者」たる「英国人 Brits」と、自分たちを抑圧し富と権利をを独占する「プロテスタント」を――攻撃するのみならず、主に自らの組織の存続のために、表向きは「軍規」ということになっている私的懲罰体系を、法の埒外に有していた。(彼らの理屈としては、その「法」は「連中の法」であって自分たちの法ではない、ということがあったが、ではなぜその「法」による制裁が、身内に向くのか。)上で少し述べたジーン・マコンヴィルのように「スパイ」と断じられた人たちは、その「法」で裁かれ処刑された。

処刑よりも軽い罰として広く行なわれていたのが punishment shooting である。映画『父の祈りを』の冒頭のベルファストのシーンで、主人公の、かなり素行不良ではあるが武装組織に入っているわけではない「カトリック側」の青年ジェリー・コンロンが「武装組織ににらまれている」ということを描く部分にそれが出てくる。これは今も非主流派リパブリカン (dissident republicans) と呼ばれる人たちが行なっている。「麻薬密売人」だといっては膝を撃ち抜くなどしている。

そういえば『父の祈りを』でベルファストにいられなくなった主人公が、「英国人 Brits」の土地であるロンドンに行くことに感情的抵抗を持っていなかったのはなぜか。(そうして渡ったイングランドで、彼は英国史上最悪の冤罪事件の被害者になってしまうのだが。)それを考えずにあの映画を見ても、「北アイルランド紛争」のことなどほんの少ししかわかるまい。当時の英国の司法のひどさ(そのベースは「アイルランド人」に対する社会一般の偏見と、官僚主義)はわかるかもしれないが。

そういうことを考えると、、「クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)」さんのエントリの最初の方にある次のくだりにも、大きな違和感をおぼえる。
[NYTの]記事にある通り、聖金曜日合意から10年を経て、ようやくこういう映画が作られるようになった、それだけノーザン・アイルランドの社会に余裕が出てきた。


ほんとに「余裕」などあるのなら、映画など作ってるヒマにUDAもUVFも、IRA系諸組織もとっくに武装解除していただろうし、peace lineはGFA後に減っていただろう(実際には増えている)。

このエントリで参照されているNYT記事には、記事を書いた記者の地の文として、Before Good Friday 1998 it was nearly impossible to make a truly impartial film about Northern Ireland, a movie that didn't take sides. (1998年のグッドフライデー合意前は、北アイルランドについて真の意味で不偏不党の映画をつくること、どちらの側につくというのではない映画を作ることは不可能だった) とある。それを受けたのが上記の記述のようだが、NYTの記事の後続の部分(延々と「NIについての」映画について語っている部分)には「GFA後10年を経てようやく」云々ということは書かれていない。それまでに作られていたのは、「IRAは悪者だ」とか「Britsはやることが汚い」とかいったことを言ってるような単純な映画だった、ということが書かれている(実はこれはNYTの事実誤認か過剰な単純化だが。書いた人がハリウッド映画に出てくる北アイルランドしか知らないのだろう。少なくとも『キャル』とかは見てないね)。

なお、「北アイルランド紛争」をテーマとした映画については、CAINにも一覧がある。(『死に行く者への祈り』など、「紛争」が背景になってはいても実際の「テーマ」は主人公の内面、というものも入っているけれど。)

で、NYTは、FMOHの一番の特徴を「紛争を両サイドから描き、ドンパチ以外の側面に光を当てた (to see the conflict from different, less politically charged perspectives 紛争を異なった、政治性の低い観点から見たもの)」ことだととらえているようで 、それはそれでひとつの見方なのだが、事実として、1998年のGFAから10年などという時間を経ていなくても、「紛争を両サイドから」という映画は作られていた。例えばマイク・リー『7月、ある4日間』は見事に「両サイド」の同時進行のドラマだ(プロテスタントの祭りの週に出産を控えたプロテスタントの夫婦とカトリックの夫婦の、特にストーリーらしいストーリーのないドラマ)。

一方的な「悪」とか「主人公の陰」として描かれることがほとんどの「テロ組織 IRA」というものについて、「人間たち」として描いた映画も実は案外ある。単純さが売りのハリウッド映画にすらある――ブラピとハリソン・フォード主演の『デビル The Devil's Own』とか。(この映画はNYTの記事にも名前が出ているが。ちなみにこの映画、基本的に「二時間サスペンス」で、金出して見るような映画じゃないけど、テレビでやってたら見ておくといいです。)

マイク・リーの映画は1984年、ブラピの『デビル』は1997年、いずれもGFA前だ。

といっても両者は「北アイルランドの外」の人たちが「北アイルランド」を解釈して作った映画だ。一方で「北アイルランドの中」ではどうか。これもGFAの前からある。

2001年には、北アイルランドのロイヤリストのコミュニティの中の人が書いた「ロイヤリストたち」についての戯曲が『眠れる野獣』としてBBC NIによってテレビドラマ化されている。(作品が原因で、作者はロイヤリストから脅されたそうだ。だからこういう作品が作られたことが「余裕」が存在することを表すというわけではない。)これは「ロイヤリズム」の「イズム」そのものを描いた作品ではなく、その中で育った人間を描いた作品で、「紛争」もののなかで一番重いんじゃないだろうか、というほど重い(リンク先をご参照ください。私は今もまだこの映画を見たときの衝撃が忘れられない)。

まあ、いずれにせよ、「北アイルランド紛争時、カトリックのコミュニティは、虐げられた弱き者たちのコミュニティで、圧倒的強者である英国に果敢にも抵抗していた」という物語はそろそろ修正して、封印すべきだ。NYTの記事にも、"But the Troubles were never a simple story of an oppressed people taking up arms against their colonial masters." とあるほどだが、そもそもIRAが「敵」とした英軍は、最初に来たときは「敵」として扱われるどころか、カトリックのコミュニティから大歓迎を受けているのだ。そのこともほとんど語られていない。

1970年代前半までは「カトリックに対する抑圧」という状況があったとしても(なかったとは言わない。でもプロテスタントの側の貧民街も相当ひどかったことも事実だ)、1970年代半ば以降、IRAの「闘争」が「爆弾闘争」になってからは、「抵抗」はコミュニティの人々を酔わす『物語』でしかなくなった。ロイヤリストの側の「伝統と文化」がそうであったのと同じように。

そろそろ、北アイルランド紛争という神話 (myths) を脱構築すべきだ。ほんとに。



北アイルランドの映画について、当ブログのタグで:
2008年の「北アイルランド映画祭」で上映された作品について
2008年の東京国際映画祭で上映された『Hunger』について

※この記事は

2009年10月18日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 01:17 | Comment(0) | TrackBack(0) | todays news from uk/northern ireland | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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