「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2009年10月12日

ブライトン爆弾からぴったり25年。

1984年10月12日、保守党党大会が開かれていたブライトンでサッチャー首相をはじめ保守党の閣僚・議員らが宿泊していたホテルで爆弾が爆発し、議員やその家族など5人を殺し、30余人に怪我をさせた。サッチャーは人ではなく鉄だったので無傷だった。爆弾を仕掛けたのはProvisional IRAのメンバーで、Patrick Mageeという人物だった。

当時の報道が、BBCのOn This Dayにアーカイヴされている(12 October, 1984: Tory Cabinet in Brighton bomb blast)。

それからぴったり25年(「25年」=四半世紀は、英国では大きな節目である)の2009年10月12日、BBCが特集を出している。

Audio slideshow: The Brighton bomb
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/8297216.stm

事件現場の写真と、事件当日のジョン・シンプソンのレポートの音声などから構成されたオーディオ・スライドショー(2分33秒)。瓦礫に埋まった人々を救出する作業が行なわれているときのサッチャーのコメントの音声も入っているが、さすがに疲れた声をしている。瓦礫の下から救出されたノーマン・テビット(閣僚)が担架で運ばれるところの映像――テビット夫人はこの爆発で重傷を負い、身体が麻痺したままだ。テビットは今もなお、アイリッシュ・リパブリカニズム(というよりアイリッシュ・ナショナリズム)に対し、非常に敵対的である。

ページ内に、下記の番組案内。ラジオだからUK外でも聞ける。
"Brighton: The Bomb that Changed Politics" can be heard on BBC Radio 4, at 2002 BST on Monday 12 October 2009. The programme will be available for 7 days on the BBC iPlayer.


当時、保守党の党大会の取材のためブライトンにいたBBC記者の回想:
The night bombed Grand cast eerie sight
By Robert Orchard
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/8302170.stm

記事:
Brighton Tory bombing remembered
Page last updated at 23:29 GMT, Sunday, 11 October 2009 00:29 UK
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/8301851.stm
A memorial service is to be held to mark the 25th anniversary of the IRA bomb attack on Brighton's Grand Hotel.

... The service will be at St Paul's Parish Church in Brighton on Monday.

Bomber Patrick Magee was given eight life sentences in 1986 for the attack.

His sentence, handed down at the Old Bailey, also came with a recommendation to serve a minimum of 35 years.

Mr Justice Boreham described him as "a man of exceptional cruelty and inhumanity".

Magee has since been released from prison under the terms of the Good Friday Agreement. ...


パット・マッギーは国会に行って話をするそうだ。ブライトンでは追悼集会が行なわれる。それらについては13日以降に見たり聞いたり書いたりすることになるだろう。

さて、今から5年前、2004年10月12日、事件から20年という区切りでのBBCの記事について、私は次のようなことを書いている。


2004年10月13日 ブライトン爆弾からぴったり20年。
http://ch00917.kitaguni.tv/e85608.html
この爆弾で「怪我をした」人たちの中には,当時保守党の議員で通商産業大臣だったノーマン・テビット(現在は「ロード」のタイトルを有する)の妻のマーガレット・テビットもいる。

マーガレット・テビットはこの爆弾で大怪我をして,全身が麻痺したまま,20年を過ごした。

BBC記事から,ノーマン・テビットのコメント(日本語はかなりバイアス強めにかけています):
「(爆弾を仕掛けた)パトリック・マッギーについては,つい先日ケン・ビグリーさんを殺害した連中や,ちょうど2年前にバリで大勢の人々を殺害した連中と同じ部類の人間だと私は思う。つまり,サイコパスの殺人者,機会あらば再度殺人を行なう殺人者だ」とノーマン・テビットは述べた。

ロード・テビットは,マッギーは自身の為したことについて後悔などしておらず,また,自身の犯した犯罪を贖うために充分な刑に服してもいない,と述べた。【北アイルランド和平についての合意(グッドフライデー合意)により,パトリック・マッギーは刑期途中で恩赦となっている。】

「おそらく,ビグリーさんを殺害した連中と交渉し,彼らがマッギーと同じ扱いを受けることを望む人々もいるだろう。が,それは許しがたいし,何の解決にもならない」と彼は言う。

ロード・テビットは,私の妻は一生車椅子に縛り付けられている,これは猶予されることのない終身刑だ,と述べた。

また,ロード・テビットは,和平プロセスにシン・フェインが関わっていることにも賛成できないし,IRAが和平に取り組むということも疑問視している。

「シン・フェイン/IRAは,不満を鬱積させれば,また暴力で解決を図るようになるに決まっている」と,彼はBBC北アイルランドに語った。

「だからこそ,彼らは銃や爆弾を放棄することを拒んでいるのだ。だからこそ,彼らは民主的な政党とされるもののかたわらに,私兵組織を維持しているのだ。」

「それは,北アイルランドの人々【←保守党がこう言う場合は「北アイルランドの多数派であるプロテスタント系の住民」と同義】を威圧し続けるため,そしてもちろん,ブレア首相を脅し続けるためだ。ブレア首相はすべての場所で対テロ戦争を展開しているが,この国ではそうしていない。」>

私はロード・テビットの言ってることには,一応,うなづくことができる――「北アイルランド紛争」の暴力は,IRAからのみの一方的なものだったのかどうかを問わない限りは。英国の砲弾が,銃弾が,車椅子にしばりつけた人間がいないのだとすれば。

いや,実際は問題は,こんな「数」だとか「バランス」だとかのことではないにしても,IRAを「一方的」と非難することは,英国にはできないはずなのだ。(そしてそれをしてきたのが英国なのだが。)

ロード・テビットは,ケン・ビグリーを殺した「テロリスト」たちへの憎悪を語る。

だが,ひとりのケン・ビグリーの向こう側に,何千というイラク人がいることは,この記事にある限りでは,ロード・テビットはまったく語っていない。

マスコミの常套句に「暴力の連鎖/憎悪の連鎖」というのがある。

だがこれは「連鎖」ではなく「増幅」だ。憎悪の増幅。憎悪の拡大再生産。

一方でBBC記事にもガーディアンの記事にも書かれているのだが,この爆弾で死亡した保守党の議員,サー・アントニー・ベリーの娘のジョー・ベリーさんという人は,99年に自由の身になった爆弾犯とともに,Causewayという組織を立ち上げている――北アイルランド紛争の犠牲者・被害者を,どちらの立場であるかに関わりなく,支援する組織を。

妻を一生車椅子の身にされたロード・テビットは「テロリストと交渉することはcounter-productiveである」と言う。父親を殺されたジョー・ベリーは「対話をしなければ」と言う。

どちらに希望の光が見えるか。


2009年10月の今、2004年10月の今ごろのブログを見返すと、ケン・ビグリーさんが殺され、ジャック・デリダが亡くなり、イラク戦争の根拠として用いられた英国政府作成の「イラクの大量破壊兵器は45分で」説が正式に撤回されている。その1ヵ月後は、2度目のファルージャ包囲戦のさなか、10月は本格的包囲戦の前の段階の攻撃が行なわれていた時期だ。

リアルタイムでそんなことがありつつ、2004年10月、私は1984年のことをたどり直す爆弾犯と被害者家族についての英メディアの記事を読んでいる。

2004年10月13日 「テロリスト」と,「対話」〜IRAの事例より
http://ch00917.kitaguni.tv/e85611.html
さっきのエントリにちょこっと出てきたジョー・ベリーさん(IRAの爆弾で殺された保守党議員の娘)と,パット・マッギーさん(ベリー議員を殺した爆弾を仕掛けたIRA闘士)との「対話」についての記事2件。

……
the Forgiveness Project - Jo Berry & Pat Magee
http://www.theforgivenessproject.com/stories/?id=22
http://theforgivenessproject.com/stories/jo-berry-pat-magee-england/

1984年,保守党党大会の会期中のIRAによるブライトン爆弾事件で,サー・アントニー・ベリー議員が殺されたとき,議員の娘のジョーはそれまでほとんど知らなかった紛争の只中に放りこまれた。それ以来,彼女は何度もアイルランドを訪れ,いずれの側であるかを問わず,犠牲者たちや,かつて武装して戦っていた人たちと協力している。2000年11月,彼女は父親の死に責任のある人物,パット・マッギーに出会った。

パット・マッギーはベルファスト生まれでIRAの活動家だった。彼はブライトン爆弾事件で数度分の終身刑を言い渡された。1999年,グッドフライデー合意のもとで釈放されて以来,彼は平和活動に積極的に関わってきた。2003年にはジョーの支援を得てCausewayを設立,「トラブルズ*1」によって引き起こされた,解決されていない痛みを個々の人間が表に出すことを助ける,ヒーリング・プロジェクトを進めている。

Jo Berry
敵の語ることを聞くためには,内的なシフトが必要となります。私にとっての問題は,常に,非難しなければならないという私の感情をどこかにやってしまうことができるかどうか,パットの語ることを聞き,彼の動機を理解するために充分なくらいに自分の心を開けるかどうか,ということです。実際には,そうできるときもあればできないときもあります。これは旅でありこれは選択であり,つまり,整理されて箱にしまわれているわけではないのです。

あの爆弾事件で,私の一部が死んだような気がしました。自分ではどうすることもできませんでした。しかし私は,このトラウマから何かポジティヴなものが出てくるという小さな希望につかまりました。だからアイルランドに行き,暴力の中に囚われた多くのすばらしい勇気ある人々の話に耳を傾けました。私の痛みが伝わっていると感じたのは,初めてのことでした。


最初の何年かは,私は「赦し」という語をあまりにも無頓着に使っていたと思います――「赦し」というものを本当の意味ではわかっていなかったのです。その語をテレビで使ったとき,お前はお父さんと国の両方を裏切ったのだと言うある男性から,殺してやるという脅迫状が送られてきて,私はショックを受けました。

私はもう「赦し」について語りません。「私はあなたを赦します」と言うことは,相手を下に見るような感じがします――それによって「私たちと彼ら」というシナリオ,私は正しくあなたは間違っているというシナリオに,閉じ込められてしまうことになります。そのような態度は何も変えません。しかし私は共感することができる。そしてその瞬間には一切の判断はない。パットと会うと時々,彼の人生について非常にはっきりと理解することができ,そうなれば何も赦すものなどなくなります。

パットとは敵と向かい合うように会い,そして彼を本当の人間として見たいと思っています。初めて会ったとき,私はおそろしかった。けれども,私が彼に会うためにどれだけの勇気が必要だったかを知らせたかった。尋常ではない激しさで,私たちは話をしました。私は父のことをたくさん話して聞かせ,パットは彼のことについて私に語りました。

この2年半の間,段々とパットのことを知るようになり,そして私は,爆弾が炸裂した時に私が失った人間性の一部を回復しつつあるように思っています。パットもまた,自身の人間性を回復する旅の途中です。自身のテロ行為により自分が殺した人物の娘のことを気にかけているのだとわかっていて日々を送ることは,彼にとってはつらいときもあるでしょう。

おそらく何よりも私がはっきり悟ったのは,紛争のどちら側にいようとも,もしも私たちがもう一方の人たちの生活を送っていたら,彼らのやったことを,私たち誰もがしたのではないか,ということです。つまり,もしも私がリパブリカンの環境の出身であれば,私はパットがしたのと同じ選択をしていたのではないか,ということです。

Pat Magee

いつか私は自分のことが赦せるかもしれない。今でもまだ自分のやったことは間違ってなかったと思うけれども,私が他の人間たちを傷つけたという重荷は,私はずっと背負っていくだろう。しかし私は赦しは求めない。私のような人物が武装闘争に関わるようになった理由をジョーが理解してくれさえすれば,それだけで何かが達成されたことになる。肝心なのは,ジョーはそういう強い気持ちを抱いて始めた,ということだ――彼女は理由を知りたがっていた。

私がジョーと会うことにしたのは,個人的な負い目を別とすれば,私はリパブリカンのひとりとして,私のような人物があの行為に参加した理由を説明しなければならないと思ったからだった。私は彼女に,小さなナショナリスト【=「リパブリカン」とほぼ同義】のコミュニティが英国によっていかにひどい扱いを受けているかをこの目で知り,19歳で武装闘争に加わったのだと言った。これらの人々は反応しなければならなかった。28年の間,私はリパブリカン運動で活動していた。投獄されていても,私はまだ義勇兵だった。

ジョーと私の間の大きな問題は,暴力を使うことについてだ。私は暴力的な人間ではないし,暴力には反対だと述べているが,私が暴力を放棄したとは言えない。和平プロセスは100%支持しているが,私は平和主義者ではないし,世界のどの場所であろうと,抑圧されていると感じた将来の世代に対し「それはそれとして諦めろ,横になって,ただ受容しろ」とは言えない。

私とジョーが会って話をした後で,ジョーのお嬢さんが「じゃあトニーおじいちゃんは戻ってこられるの?」と言ったのだと,あるときジョーが私に言った。これはこたえた。根本的なところでは何も変わっていないのだから。おそろしい出来事の後で,2人の人間が会って,何を達成しようとも,失われたものは戻ってこないし,赦しはその失われたものと同等にはなりえない。しかし,私たちは続けたいと思っているという事実に,希望がある。対話は続いてきたのだ。

ジョーほどに慈悲に満ち,心の開けた人に会うことはめったにない。彼女は長い道のりを経て,理解するということにたどり着いた。彼女は私に会うために,中間地点よりこちら側に来てくれた。こんな経験をすれば,自然と謙虚な態度になる。



私がなぜ父を殺した人物と友人になったか
Why I befriended my dad's killer
Sunday October 10, 2004
The Observer
http://observer.guardian.co.uk/uk_news/story/0,6903,1323902,00.html

「パパが死んだ,パパが死んだ」何度も何度もこう繰り返しながら,ジョー・ベリーはめまいを覚えながら通りをふらふらと歩いていた。ひとりの作業員が彼女の取り乱した表情を見て,こんなことを言った。「元気出しなって,そんな顔しなきゃならないことなんかないって。」ベリーは作業員に言った。「あるわ。私のパパが吹き飛ばされたんだから。」

保守党の党大会の会期中にIRAの爆弾がブライトンのグランド・ホテルを破壊し,5人が死亡し34人が負傷した。国会議員のサー・アントニー・ベリーは死亡した5人の1人だった。IRAの爆弾はメインのターゲットのマーガレット・サッチャー(首相:当時)は逃した。


その時計仕掛けの爆弾を風呂場のパネルの下に仕掛けたのはパトリック・マッギー。彼には(少なくとも)35年の服役という判決が下されたが,グッドフライデー合意のもと,13年で釈放された。

今週火曜日はIRAの最も大胆な攻撃から20周年にあたる。この日,マッギーとベリーはブライトンを再訪し,私的なイベントで同じプラットホームに立つ。両者とも,どんなことになるかを恐れてはいない。この4年間,ベリーは爆弾犯と何度も会っているばかりでなく,彼と友人になり,そして「パット」【パトリックの愛称】に彼女の父親を殺させた動機を理解しようとしている。

因習に反抗してきた人生においても,この関係は特異なまでに標準から外れている。ジョー・ベリーのいとこはプリンセス・ダイアナだったし,父親は英国王室会計局長官だった。ジョーは女子パブリックスクールに学んだが,自身の特権的な教育を拒絶し,ヒマラヤの山小屋にこもっていることを理由にダイアナの結婚式への招待を断った。彼女は2年間ヒマラヤで暮らし,電気も水道もなく,瞑想をしていた。ジョーは現在,生活保護で暮らすシングルマザーで,3人の娘を学校にやらないことを選択し,北ウェールズのPorthmadogの近くにある,豪勢とはとても言いがたい借家で,娘たちに自分で教えながら,暮らしている。

47歳のベリーは,今年執り行われたおばのFrances Shand Kydd【プリンセス・ダイアナのお母さん】の葬儀で,ウィリアム王子,ハリー王子と暖かな会話を交わした。しかし彼女は王子たちよりもずっとよくマッギーを知っている。マッギーとは常に電話やメールで話をしているのだ。

こういったことのために,彼女のことを血と肉を裏切っていると非難する人たちもいる。だが彼女はこれに対しては慎重に反駁する。父親への愛情や,父親を失ったときの悲しみは,他の人たちと比べて浅いわけではない。「父が死ぬ前の月に,いくつかとても重要な会話をしました」と彼女は回想する。

「私はかなり外れた,こうあるべきということにこだわらない生き方をしていました。私は保守党には投票しなかったし,政治を信じてすらいなかった。けれども父はそんなことは気にしていませんでした。そんなことよりも父は,対話やコミュニケーションを大事にしていたのです。」

「父が私のやっていることを,私が平和を信じているからのことだと理解してくれたときの会話はずっと忘れないでしょう。父は政治を通じた平和を信じていました。私は当時,瞑想を通じた平和を信じていました。父と私は,父親と娘というより,友人同士のようになりました。ですから,私はこの先もっと発展していけたものを奪われたように思ったのです。」

1984年10月12日の午前2時54分に爆発が起きる数時間前,ベリーは当時59歳だった父親と電話で話をした。「さようなら,と私は言いました。1年間アフリカに行く予定だったからです。翌朝早くに姉のアントニアが私を起こし,テレビでグランド・ホテルで爆弾が爆発したと言ってたんだけど,と言いました。私たちは兄のピーターに電話をかけました。ピーターはちょうど(グランド・ホテルの)すぐ近くにいたのです。電話の後で,彼は様子を見に行きました。」

「ピーターは,父と私の継母のセアラが宿泊していた部屋は,跡形もなくなっている,と言いました。それから彼は誰か父とセアラを見なかったかどうかを確認しようとしました。」

「セアラは病院にいると教えてくれた人がいて,ピーターはその病院に行って彼女を見つけました。午後になり,遺体が見つかったのだが,確認してくれないかと彼に依頼がありました。彼は遺体の確認をしたくなかった。前の晩に夕食の席で見たままの父親を記憶しておきたかったのです。そこで彼は印章のついた指輪を渡しました。その指輪は父が身につけていたものと同じで,そうして遺体が確認されました。」

「ただもうショックでした。狭いところにいるのが耐えられなくなり,どうしてもフラットの外に出なくては,開けたところに,自分で出なくては,と思いました。そしてノッティング・ヒル・ゲイトの通りを歩いて,起きたことを受け入れようとしました。信じることのできない悪夢のようでした。私は腕を上に下にと動かし,何度も何度も繰り返し言いました,『パパが死んだ』と。それを感じ,わかろうとしていたんですね。きっとひどく取り乱した様子だったのでしょう,ある家で作業をしていた作業員の人が『元気出しなって,そんな顔しなきゃならないことなんかないって』と言ったのを覚えています。私はその人の方を向いて,『あるわ。私のパパが吹き飛ばされたんだから』と言いました。作業員の人はぎょっとした表情をしていました。」

2日後,ベリーはロンドンのピカディリーの聖ジェイムズ・チャーチでの日曜礼拝に参列し,ひとつの誓いを立てた。それが彼女の20年に及ぶ精神的旅路の始まりとなった。


「私は極めて個人的な祈りをしました。起きたことから何かポジティヴなことを見つけられますように,あのようなことをした者を理解するに十分,広いこころを持てますように,と。」

マッギーが1999年に釈放されたころには――彼は裁判官には「稀に見る残虐性と非人間性を持った人物である」と言われていたが――ベリーはたびたび北アイルランドを訪れ,紛争のあらゆる側の犠牲者たちと会っていた。

「ある朝,電話があったんです。友人が『今夜なら(マッギーに)会えるよ』と言いました。最初は,今日はダメ,あんまりアップな気分じゃないからと思ったのですが,とにもかくにも行きました。でも,話を始めたら,だいたい3時間くらいノンストップでしゃべってましたね。」

「パトリックは心を開いて,本当の人間になりました。彼の闘い,彼がどう感じたか,暴力という手段を取ることで彼が失ったものを,理解しました。彼は私の父がどういう人間だったのかを知りたがりました。7歳だった私の娘が,どうしておじいちゃんを殺したのかを訊いて,と私に言いました。彼は震えました。私たちは本当の対話を行ないました。それはとても重要なことだと感じられました。」

マッギーは自分の為したことを否定しないと公に述べている。しかしベリーはこう言う。「私的には,彼は私に謝罪しています。彼の立場は,当時は彼ら〔リパブリカン〕には暴力を行使する以外に選択肢がなかったのだというものです。彼らには政治的に声を上げる方法もなかった。彼は間違っていたとまでは言わないでしょう――私は間違っていたと言いますが。ですから,私たちの間には緊張はありますよ。でも,私たちは,人には選択肢が必要なんだということでは,意見が一致しています。」



「“赦し”という表現にはちょっと抵抗があります。キリスト教的な理想のように感じられるからです。キリスト教的理想というのは,ひとたび赦されれば,それでおしまい,怒りはかき消えて,平安が訪れる,というものです。私は,怒りの気持ちを感じることができることを望んでいます。もし私が赦すと言い,次の日にはあまり赦す気分じゃないとすれば,それは嘘ということになりませんか? ですから私は,(赦すではなく)理解すると言いたいのです。」

マッギーは53歳になったが,服役中にPhDを取得し,先週の雑誌"She"で次のように述べている。「ジョーのように慈悲にあふれた人に会うことはめったにありません。彼女は長い道のりを経て,理解するということにたどり着いた。彼女は私に会うために,中間地点よりこちら側に来てくれた。こんな経験をすれば,自然と謙虚な態度になります。」

「人間の命がいかに貴重なものであるかを私は知りました。そして,暴力という選択肢を選ぶ前に,他にまったく選択肢がないということを確信しなければならないということを。」

離婚手続きの完了を間近に控えたベリーは,ボーイフレンドに支えられ,平和と和解の組織での仕事にフルタイムで専念したいと考えている。彼女はBuilding Bridges for Peaceという組織を運営し,昨年はマッギーがCausewayという組織を立ち上げるのを助けた。この組織は,「トラブルズ*1」の犠牲者を助ける組織である。

彼女の父親が生きていたらこれを認めただろうか?「父は理解してくれるんじゃないでしょうか。ある面ではびっくりはしないでしょうね。というのは,何をするにおいても,私は少し違ったルートを取ることばかりでしたから。私がパトリックと対話をしているのは,暴力と報復の輪を断ち切ることのできる途を見つけたいと思っているからです。私が何かを裏切っているとすれば,それは『私たちと彼ら』という考えですね。私はもっと深いところに行きたいのです。私は子供たちのために平和を求めているのです。」


*ブライトンでの私的な会合のほかに,ジョー・ベリーとパトリック・マッギーはロンドンでの公開のイベントへの参加も予定している。これは火曜日【12日】の午後7時半から,ピカディリーの聖ジェームズ・チャーチで行なわれる。詳細はwww.buildingbridgesforpeace.orgを参照されたい。

*1
1970年ごろから1980年代にかけての北アイルランド紛争を特にthe Troublesと言う。(1922年の自由国成立前の独立戦争を言う場合にも用いられる。)


2004年10月16日 「人間」であること。
http://ch00917.kitaguni.tv/e86319.html
1984年のブライトン爆弾事件で殺された人物の娘であるジョー・ベリーさん(JB)と,爆弾を設置した当人であるパット・マッギー(PM)さんのインタビュー。ガーディアンより。

Twenty years after the Brighton bomb
http://www.guardian.co.uk/g2/story/0,,1325824,00.html
(テロの被害者の娘とテロリストとの対話は難しかったのではないか,という問いに対して)
JB:簡単なものではないですよ,私たちのどちらにとっても。私もパットも会うための勇気を持っていたのだと思うし,その勇気がずっと続いてきたんだと思います。パットにとっては私はやりやすい相手ではないですよね。パットがアイルランドでの状況,あるいは世界各地の状況のことを話すと,私には,なぜ人々が暴力を解決手段とするのかが理解できてきます。そうすることで私の感情は強まり,他の選択肢を見つける。私たちがしてきたのはそういうことなんです。何をしてみたところで私の父は帰ってこない。パットと心のつながりを持つことで,私の人間性のいくらかを取り戻すことが,容易になっているのです。

PM:大きな教訓があります。人々のことを人間として見れば,とてもじゃないが傷つけることなどできなくなるということです。次に,そういうシンプルな関係が発生するのを疎外するもののことを考える――政治的障壁,社会的障壁,経済的な障壁。人は周縁に追いやられたり,あるいは疎外されたりすると,ただ怒りを抱えたままになるだけです。だから,障害を取り除くためには何でもすること,人々が互いに人間らしくあるようにすること,それが必要です。そういうことを,私はジョーと会うことで,学びました。

パット・マッギーさんはIRAの闘士で,ブライトン爆弾はIRAの「武装闘争」におけるひとつの行為でした。そのことについてマッギーさんは,このインタビューの中で,It was an IRA action, but whatever the political justification for it, I was part of it and I killed your father. (あれはIRAの行動だった。だが,どんなふうに政治的な正当化をしようとも,私はその一部であり,私はあなたのお父さんを殺した)と述べています。そして,ジョー・ベリーさんに会うことは,今でも,「自分がこの人のお父さんを殺したのだという事実を突きつけられること」である,と。

このふたりは,ブライトン爆弾から20周年を迎える日に,ブライトンの教会で60人の招待客を前にサイモン・ファンショーのインタビューを受けました。ふたりはスタンディング・オベイションを受けたとのことです。
http://www.theargus.co.uk/the_argus/archive/2004/10/13/NEWS10ZM.html


今年の東京国際映画祭では、カトリックの男性をまだ幼い弟の目の前で射殺したロイヤリスト武装組織UVFのメンバーと、兄を目の前で殺されたカトリックの男性の「30年後」を、実際の事件に基づき、その事件の当事者に丁寧に話を聞きながらフィクションとしてドラマ化した映画、Five Minutes of Heaven(→過去記事参照)が上映される。この件についてはまた改めて書くが、今年この映画(テレビ用)が英国でオンエアされたときに私が思い出していたのは、上記のジョー・ベリーとパトリック・マッギーの対話のことだった。

※この記事は

2009年10月12日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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BBC Worldのラジオの番組、Outlookで「紛争・暴力と和解」を当事者が語っている。
Excerpt: BBC WorldのOutlookという番組の12月29日放送分で、北アイルランド紛争などの当事者が、「和解と赦し」をテーマに話をしている。ブライトン爆弾事件のジョー・ベリーさんとパット・マッギー
Weblog: tnfuk [today's news from uk+]
Tracked: 2009-12-31 02:46

ドキュメンタリー『ダライ・ラマのヒーロー』(明日までストリームあり)
Excerpt: 【22日午後】全体にわたって少し書き足しました。 ダライ・ラマ14世が「私のヒーロー」と讃えた北アイルランドの男性についてのドキュメンタリーが、UTVのサイトで期限付きで公開されている。現時点で「あ..
Weblog: tnfuk [today's news from uk+]
Tracked: 2010-11-22 16:57

【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼