kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2009年10月04日

【エッセイ from イラン】サルマンと俺

テヘラン・ビューローに掲載されていたエッセイです。

Me and My Basij Friend
by Special Correspondent in Tehran
29 Sep 2009 04:08
http://www.pbs.org/wgbh/pages/frontline/tehranbureau/2009/09/me-and-my-basij-friend.html

2009年7月4日のことだった。抗議行動はもう全然下火になっていたが、10年前の学生の抗議行動の記念日である18th of Tir (7月9日) を前に、最後にもういっちょでっかいのをやろうということで腹を決めていた。

俺のいるところから20メートルしか離れてない場所に、幼馴染のサルマンが立っていた。怒りと敵意に満ちた奴の顔――まるで、解き放たれるのを待っている怪物のようだった。俺が最後に奴と会ってから6年が経っていた。奴は年齢よりずっと上に見えた。戦闘服のせいかもしれない。あるいはひげのせいか。それとも奴がその手に握り締めている警棒のせいだろうか。

俺は奴の目を見た。すぐに奴だとわかった。あっちも俺が誰かわかったに違いない。そういう顔をしていた。奴だとわかったからって俺の意思は揺らがなかった。あっちも同じで、一歩もひく気配はなかった。奴にせよ俺にせよ、ここでなんかしようと思ったからって個人の力でどうにかなる状況でもない。俺も奴も、真正面から対決しているふたつのうねりの一員なのだ。全面対決は避けられなかった。


ここに来る前、俺は町の南の方での抗議行動に加わっていた。しかし機動隊にやられた。しばらくは粘ってはいたが、数分後には催涙ガスが耐えられないくらいになり、少人数に分かれて路地やわき道に走りこんで、何ブロックか北のこの場所で再集合したのだ。こっちの人数は200人くらいだ。

こっちの一団は「イマーム・フセイン、ミル・ホセイン、俺の一票戻しておくれ。嘘つき野郎はあぶりだせ」と声をあげながら、南に向かって行進を始めた。

最初の交差点を通過するころには、連中の姿があった――バシジの民兵が300人くらい。数人の警察官も混ざっている。

警官のひとりが拡声器で俺らに呼びかけた。「解散しなさい。これが最後の警告です。」

連中の姿を見たら膝がガクガクしてきた。しかし、波はひくことなく、俺も流れに乗っていった。もはや声は挙げてなかった。連中にどんな口実も与えてはならないからだ。奴らの立ち位置から数メートルのところまで足を進めていった。俺らは黙って、Vサインを掲げて立っていた。含みのある沈黙。連中はじりじりと。落ち着かない様子を見せ始めた。こっちもそうだった。

その様子がまるで映画の名場面のプレイバックのように感じられるが、バシジの列の中にサルマンの見慣れた顔を見つけたときに俺の脳裏に浮かんだ思い出も、映画の一場面を見返しているみたいだった。サルマンと俺の通ってた高校は、テヘランで一番宗教色の濃いモフィド校というところだった。2年生の時に隣の席になった。互いに問題児で、すぐに意気投合し、隣どうしの席に座ってから1時間もしないうちに、そこの二人、ちょっと来なさいということになっていた。そう、友情を結んでから1時間で、俺らふたりは教室からつまみ出され、校長室に呼び出されて、学生部長の説教をくらっていた。学生部長は、人をしかるときは必ずクルアーンの章句や革命のスローガンを口にするようなガチの強硬派だった。

俺とサルマンの友情は、高校を卒業するまで続いた。この学校では、学生は常に政府のプロパガンダ・マシーンの吐き出す言葉にさらされていた。イランの宗教学校はたいがいそうだが、強硬派をリクルートする場所として機能している。彼らは若くて優秀な人材を必要としている。将来のための人材面の備えをするのは早ければ早いほうがよい。モフィド校のような学校は、洗脳キャンプとして利用されていた。卒業後は大学に行って、その後は政府内のキャリア官僚となる、という道があった。

しかし実際には常に誰もがそういう道に進んだわけではない。こういう学校の学生は2タイプに分かれるものだ。一方では、言われたことをそのまま心に刻み込み、学生バシジに加わる者。もう一方には、俺と似たようなタイプで、この宗教と国家のプレッシャーに対して反抗する者。この学校での俺の友達は、ものすごいガチガチのイスラム主義者になったか、あるいは左派、無政府主義者、リベラルになったかのどちらかなのだ。

サルマンは強硬派になったひとりだ。彼はアミール・カビール大学に入学を許可された。俺はテヘラン大学芸術学科に進んだ。卒業後1年目には何度か電話でやりとりはしたが、その後は没交渉になっていた。

それから6年。かたやバシジの隊列の中で、かたや選挙に対する抗議デモに加わって、こうやって通りでにらみあっている。俺は実はほっとした。サルマンは大学のバシジではリーダー格になっているはずだ。なら、俺らの目の前にいるバシジの連中をある程度統制してくれるんじゃないかと思った。ひょっとしたら、ものすごい土産話を手にここから脱出できるかもしれない、とさえ思った。まあ、実際に今書いているような土産話ができたのだが。

重たい沈黙は突然壊れた。バシジの掛け声が沸きあがった。警棒を振りかざして俺らの方に走ってくる。一帯はパニック状態になり、俺は地面に倒されて、数秒もしないうちに何人かのバシジに組み伏せられていた。連中は、オオカミの群れが獲物を見るように、俺を見下ろしていた。俺の恐怖を楽しんでいるかのように、にやにやしていた。しかしながら、そのひとり、サルマンはにやついていなかった。奴は無表情だった。それでも、俺は助かったと思っていた。だって親友だったじゃんか、俺ら。

俺は、自分が映画撮影中の俳優であるかのように感じていた。誰かがここで「カット! お疲れさん」と声をかけてくれるんじゃないかと。

そうはならず、バシジの連中は、サルマンも含めて、俺のことを警棒で殴り始めた。俺は気を失った。意識を取り戻したときには、すし詰め状態でヴァンに乗せられていた。暑くて、顔からはだらだら血が流れてた。ショック状態の俺は痛みは一切感じなかった。実は頭蓋骨に4箇所、ひびが入っていた。


「俺」を乗せたヴァンは、この後、政治犯の収容と拷問・虐待で知られるエヴィン刑務所に行きます。「俺」が家族に居場所を伝えることができたのは、エヴィン到着から1週間後のことでした。それからさらに20日後、判事や役所に届出をするなどしたあとにようやく、「俺」は刑務所から出ることができ、現在は両親の家で軟禁状態(外出禁止の状態)。あの日の「対決」以来、学校で親友だったサルマンと「俺」の映画の中に囚われたような感覚のままだそうです。



このエッセイが実話なのか創作なのかなどはわかりません。私がみたときには英語になっていましたが、元はペルシャ語かもしれません。

18th of Tirの前というと、「治安当局の中には抗議行動側に共感している勢力もある」という説がTwitter上にもあったころだと記憶しています。また、抗議行動参加者に暴行を加えている治安当局者が「アラビア語を話す外国人」であるとの説も(具体的には、ヒズボラだとかハマスだとかいう説があった)。それらの真偽の程はわかりません。わかりませんが、このエッセイを読んで、ああいうカオティックな「説」のいろいろに、ひとつの背景が与えられたような気がします。



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※この記事は

2009年10月04日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 00:00 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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