「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2009年09月26日

【都内お散歩】阿佐ヶ谷住宅(写真多)

東京大栄ビルで「前川國男」の名前が出てきたこともあって、9月の連休に、杉並区の阿佐ヶ谷住宅を訪れた。

この3月に杉並区都市計画審議会で再開発計画が可決され、2009年9月から解体工事の着工という予定になっていたので、ひょっとしたらもうばりばりと取り壊しが始まっているかもしれないと思っていたが、私が訪れたときには、お住まいの方が既に退去されて封鎖された建物が大半だったものの、重機の姿はまだなく、解体工事着工の気配も感じられなかった。

41, 42, 43 ...
※ほぼ同じ場所からのGoogle Street Viewの写真

ウィキペディア「阿佐ヶ谷住宅」の項より(太字は引用者による):
阿佐ヶ谷住宅は、東京都杉並区成田東にある全戸数350世帯の日本住宅公団によって造成された分譲型集合住宅地。

1958年(昭和33年)竣工。地上3〜4階建て鉄筋コンクリート造の118戸と、地上2階建てテラスハウスタイプ232戸(陸屋根タイプと傾斜屋根タイプの2種がある)で構成される。設計は、当時発足したばかりの日本住宅公団の設計課がおこなった部分と、前川國男建築設計事務所が担当した傾斜屋根型テラスハウスの174戸とが共存するユニークな形式。豊富な緑地を確保した配置計画は「個人のものでもない、かといってパブリックな場所でもない、得体の知れない緑地のようなもの(=コモン)を、市民たちがどのようなかたちで団地の中に共有することになるのか」(津端修一)をテーマに、公団の設計課が整備した。……

津端修一さんの上記の言葉がすべてを言い表していると思う。

藤崎圭一郎さんのブログ、「ココカラハジマル」の2005年6月のエントリから:
「明日の住宅」がまだ残っていました──。
公団阿佐ヶ谷住宅を見てきました。1958年(昭和33年)に建てられたもので、総350戸のうちテラスハウスが232戸、その中の174戸を前川國男が設計しています。全体計画を手がけたのは日本住宅公団です。前川國男の「阿佐ヶ谷テラスハウス」だけが傑出しているのでなく、公団と前川のコラボレーションが見事。よくぞこんなものがまだ東京に残っていると感激しました。


このエントリから4年以上経過してもまだ、藤崎さんが書いておられる空間がほぼそのまま体験できるのは、とても幸運なことだし、ありがたいことだ。

「幸運」とか「ありがたい」というのは、既に多くの住民の方が退去された後で、あちこちが封鎖された状態だったからかもしれないが、実際に足を運んでみて、この住宅は寿命を迎えようとしているんじゃないかということが見えたような気がするからだ。元々(例えば)100年以上の耐久性を有した建築物として建てられたものには見えないあれらの建物に、この先も住宅として現役でいてくれということはできない、と。

「とたんギャラリー」の実行委員会代表で建築家のおおかわさちえさんが管理・運営しておられる「阿佐ヶ谷住宅日記」のサイトに、再開発についてまとめられたページがある。ここに、「阿佐ヶ谷住宅婦人有志の会」の名義で団地内に掲示されている文書が画像で掲載されている(一部テクストあり)。
http://www.geocities.jp/asagaya_jyutaku/page/saikaihatu/index.htm

抜粋:
私達の阿佐ヶ谷住宅の敷地は全て私有地です(現在の区道も、私有地を区に寄付したものです)。建物が建っている専有地よりも広い面積の共有地(中央広場他)も、そこにある砂場、遊具、木々草花も、全て私達が税金を払い、管理費を集めて維持しております。

いわば私達の共有財産は、近隣の皆様にも利用されてきました。三浦展著『大人のための東京散歩案内』の中に「不思議な空間、緑地・・・」とあるように、皆様に貢献してきた実績も評価して頂きたく思います。

私達の多くは、この住まいを唯一の資産とする年金生活者です。共有地を含めた私達の住まいを売却して建替えるので、一部6階案でないと、住み替えが不可能です。この案で私達は、広域非難場所、公開空地の設置と税負担、鎌倉街道の拡幅、提供公園、東西道路土地の提供、整備をいたします。これは、次世代への大きな橋渡しになり、地域の活性化にも役立つと思います。

これ以上遅れることは、私達がこの建物と一緒に朽ち果てることを意味します。これが最後です。今、この計画を進めなければ、もう建替えはできないかもしれません。

どうか、どうか、ここに暮らしております私達の現状をご理解いただき、建替えについても、皆様方のご理解を賜りますよう、心より心よりお願い申し上げます。


今から20年前のバブルのころや、建物が本格的に傷んできて建て替えが検討されるようになったころには、「杉並区でこんなに土地が遊んでいてもったいない、もっとぎっちぎちに家を建てよう」という考えもあったかもしれない。地権者がそれぞれ土地を細かく売れたらいいのにという声すらもあったかもしれない。でも、住民の方々はそういうことにはしなかった。そのことに敬意と感謝の念を捧げつつ、私の知らない時代に設計され建設された「明日の住宅」がこうして寿命を迎えるのを、ほんの少しだけ、一緒に見させていただきたいと思う。

そして、この住宅に息づく、誕生間もない住宅公団の建築家たちや前川國男の「明日の住宅」という精神が、これからもずっとここで生き続けることを祈りたい。この土地が、びっちりぎっちりのワンルーム・マンション銀座にも、金持ちセレブ専用億ション街にもなることなく、これまでここを守ってきた人たちが同じように生き続けられる住宅街であり続けてくれるように。



阿佐ヶ谷住宅は、敷地内をぐるっと回るだけなら5分か10分という規模だ。住宅の敷地内に何枚か、全体の見取り図が掲示されている。

案内図 feat. 誰かの落書き
※画像クリックで、地図が読める大きさで表示。Google Mapの航空写真も参照。

敷地の中央に公園(上記写真では落書きのぐにゅぐにゅっとした部分が重なっている)があり、その周囲(33号棟のあるブロック)は、自分でも子供のころから見慣れている「公団の団地」と同じようなタイプの、3階建てか4階建ての集合住宅。(私が子供のころの「鉄筋コンクリート」のイメージそのまま。)

その外周をかろうじて二車線の道路が囲んでいて(そこを杉並区のミニバスが通る)、その道路の外側のエリアに、2階建てのテラスハウス(棟続きの長屋建築)が並ぶ。これらのテラスハウスのうち、傾斜屋根のものが前川國男設計事務所の仕事で、平屋根のテラスハウスや3階建てか4階建ての集合住宅棟は日本住宅公団の設計課の仕事だそうだ。(詳細は「阿佐ヶ谷住宅日記」さんのMAPのページで。)

前川國男設計事務所の傾斜屋根テラスハウス:
42@都内某所

42@都内某所、日を浴びて

もう、誰も住んでいない。No, there's nobody in here.

※前川事務所以外の設計による平屋根テラスハウス、中層集合住宅の写真はあとで。

さて、上記の阿佐ヶ谷住宅案内図の写真をflickrにアップしておいたら、アメリカのアート系の人から「これ何? おもしろいね」というコメントをもらった。実際、おもしろい。何かの微生物か、細胞の顕微鏡写真のようにも見える。すぐ南に川が流れているとはいえ(善福寺川)、この住宅の区画はさほどの傾斜地でもない(阿佐ヶ谷の駅からここに来るまではかなりの傾斜地もあるし、「昔は水路だったのだろう」という道もある)。区画全体を直線的に、あるいは格子状に近く設計することもできただろうに、いろいろとぐにゃんとしてくねくねしている。地図を見ても、この敷地が周囲に比べてうねうね度が高いのが見て取れるだろう。

この、ゆるやかなカーブをベースとし、今の基準で見ると低層の建物がたっぷりとした空間的なゆとりを取りながら並んだ緑豊かな敷地は、本当に不思議な空間に感じられる。

道路が大きくカーブするあたりで360度を撮影した20秒のクリップ。(つくつくぼうしが賑やかです。)


ここで感じられる「不思議さ」の原因として大きいのは、各戸が「庭付き」である2階建てのテラスハウスのエリアが、感覚としては「(団地ではなく)普通の住宅街」のようでありながら、塀というものがないことではないか、と歩きながら私は思った(3階建てや4階建ての集合住宅の団地で「塀」がないのなら、当たり前だが)。

阿佐ヶ谷住宅の敷地とその外を隔てるところはコンクリートブロック塀だが、敷地内にある人工物の「囲い」は、学校の周囲とかにありそうな緑色のフェンスや、アルミの柵だ。庭の側であっても、「自分の土地」を囲い込み、通行人の視線を跳ね返す「塀」というものがない。人が住んでいたときには、その境界線に沿って背の高い草木が植えられていたり、フェンスに朝顔や糸瓜のようなものが這っていたりして、目隠しの役割をしていたのかもしれないが、恒常的に視線をばしっと遮る塀らしい塀はない。ブロック塀もないし、板塀もない。生垣の役割をする木が植えられている場合もあるが、私が見慣れた生垣のように、下の方にがっつりした石(またはコンクリ)の土台があるわけではない。

こういう長屋式のテラスハウスを私は初めて見るわけではない。阿佐ヶ谷の傾斜屋根のテラスハウスは、2000年に取り壊されるまではうちの近所(都内)にあった、いわゆる「文化住宅」(公団による、核家族向けの平屋の集合住宅のこと。大阪方面では「文化住宅」っていうと「木造アパート」を指すが、それではない)に似ている。

「文化住宅」も、1960年代当時どう受け取られていたかは別かもしれないが、私にとっては独特の開放感を有する空間で、古臭くはあったけれど(別段「懐かしく」はない)、東京の街づくりがぎっちりぎっちりを基調としていない時期があったということを語ってくれる存在だった。ただ、文化住宅の庭は阿佐ヶ谷住宅ほど曖昧な境界線は持っていなかったと思う。(それに、何より全体的な緑の量が違うのだけど。)

藤崎圭一郎さんのブログ、「ココカラハジマル」の2005年6月のエントリから、再度:
「太陽、緑、空間」と謳った、前川の師匠ル・コルビュジエの都市計画の理想が、豊かな緑とゆったりした敷地の中で今も輝きを放ち続けています。家を塀で囲わず、公と私の境界が不明瞭で、どこまで他人が足を踏み入れていいのか分かりません。路地や井戸端といった昔ながらの共有地を近代建築の方法で計画的に再現しているとも言えます。

共有スペースで建物を囲むというのは、高層集合住宅や商業施設や公共施設ならよくあります。しかし、防犯などの理由から、戸建ての住宅や低層の集合住宅の塀を取り払って、庭を開放的な共有スペースにすることは難しくなっています。……こうした開放的な敷地の計画は、まさしく戦後の、まだ純度の高かった頃の民主主義を標榜した人たちならでは発想だと思います。


本体の部分は住民の方が引っ越す時に持っていったのか、それとも誰かに盗まれたのかわからないけれど、アルミの柵の残骸。ajariさんのお写真(CCL)を拝借:
阿佐ヶ谷住宅 asagaya jyutaku_08, by ajari on flickr


この庭は学校にあるようなフェンスで囲まれている。画面下の方、左右中央の少し左寄りにサフラン(だと思う)が咲いている(紫色の花びら)。家の主がまだこの部屋で暮らしていたときに、ここで育てておられたのだろうか。
42号棟、個人の庭(だったもの)

これも住民の方が去って主を失った庭。この棟の各戸の庭はフェンスで囲まれている。撮影している私が立っている場所は、隣の棟の住居の玄関口から4歩くらいのところだ。
無人の庭

このお宅の庭の境目には、生垣の役割をする樹木が植えられていた。写真中央の刈り込まれているのは種類の確認を忘れたが、ソテツとか、南天とか、みかんみたいなのとか、椿または山茶花と思われる樹木とか、とにかく種類豊富。私がこの住宅に住む小学生だったら、この家の木の葉っぱだけで夏休みの自由研究やってたと思う。
45号棟

ある棟の前にはどんぐりの木(クヌギ?)。この住宅にある植物の種類の多さたるや、頭がくらくらするほど(アオイにフヨウにコスモスに……と少し数えていたのだけど、すぐに諦めた)。
どんぐり@都内某所 / Acorns, Tokyo, Japan

以下、淡々と写真貼るだけで。それぞれ画像をクリックするとFlickrのページに飛びます。

コモン(共有地)。ブランコはもう乗れない:
ぶらんこ(だったもの)An ex-swing

緑の小径:
緑の小径@42号棟のあたり 緑の小径@10号棟のあたり(たぶん)

微妙に高原っぽい:
42@都内某所、裏手 無人

コモン(共有地)、錆び付いた遊具と草ぼうぼう状態(コスモス花盛り):
オレンジのコスモスと27号棟

人の手が入っている通路:
12号棟から、見る。 43 44 夾竹桃

封鎖された扉:
42@都内某所、封鎖された扉

メーターカバー:
42@都内某所、どーもくん状(?)のメーターカバー

メーターボックスのセミヌード Semi-nude - where's the gas meters?

建物の壁(塀ではなく)、換気のための通風孔:
42@都内某所、換気のため
※建物の壁がコンクリート・ブロックで作られている。

扉のいろいろ:
42@都内某所、もう開くことのない扉のペア

45@都内某所、もう開くことのない扉のペア

The Door

12号棟のドアは事務所のドアのようだった。The door (metal).

紫陽花、安全第一

この紫陽花は完全に枯れてカリカリになって、この玄関ドアの前をふさいでいる(住民がいたら剪定されていただろう)。そしてカリカリの紫陽花の横に、夏みかんか何か柑橘類が実っている。住宅は寿命を迎えつつある。でも植物は容赦なく、実りの秋を満喫する。
「安全第一」と言っている君がコケそうだ。 かつて住民がいたときにはなかった光景。

容赦なく、秋の実り

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2009年9月23日時点では、前川國男の傾斜屋根テラスハウスは、全体の3分の2から4分の3ほど(あるいはそれ以上)が空家でした。42号棟(無人)はこの写真の通り、増築の出っ張り部分がはがれかけていました。

42@都内某所、はがれかけている

阿佐ヶ谷住宅の住民のみなさまがた、どうもお邪魔いたしました。見学させてくださってありがとうございます。



このエントリの写真は、特に記載がない限りは、すべて私 (nofrills) の撮影によります。またこれらの私の写真はすべて、クリエイティヴ・コモンズのライセンス(BY-NC 表示・非営利)で公開していますので、非商用での再利用はご自由にどうぞ。
http://creativecommons.org/licenses/by-nc/2.0/deed.en

※この記事は

2009年09月26日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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