kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2009年09月18日

【映画】The Limits of Control

The Limits of Control (Flyer)

「ジム・ジャームッシュって本当に音楽好きだよね」という映画。手垢のつきまくった表現をするなら、「圧倒的な映像美」の映画でもある(撮影監督は『恋する惑星』、『ブエノスアイレス』などのクリストファー・ドイル)。そして、イザック・ド・バンコレのガニ股。

The Limits of Control:
http://loc-movie.jp/index.html (日本語)
http://www.tokyo-art.info/cinema/2009/c172.htm (日本語)
http://www.filminfocus.com/focusfeatures/film/the_limits_of_control
http://www.imdb.com/title/tt1135092/ (IMDB)

http://www.youtube.com/watch?v=XPFRaCnkVzE


「アンビエント」なもの=「退屈」、という人には向いてない映画だと思います。(映画情報サイトなどに掲載されている作品概要やストーリー説明から想像されるより、さらにアンビエントな映画です。『ゴーストドッグ』よりさらに。)

9月19日から、シネカノン有楽町、シネマライズ、シネリーブル池袋、新宿バルト9などでロードショー。

『ストレンジャー・ザン・パラダイス Stranger Than Paradise』で「ぶんぶんぶんぶんっつっつーぶんっつっつーぶんっつっつーぶんぶんぶんぶん……」(スクリーミン・ジェイ・ホーキンス)が忘れられなくなったように、『デッドマン Deadman』で、「何も予備知識を与えられていなくても一般人の8割がニール・ヤングだと言い当てました」という結果になるのではないかというあの「泣き」が、映画館を出てからも頭をぐるぐるしていたように、『リミッツ・オヴ・コントロール』ではBORIS - FAREWELL (<ニッティング・ファクトリーでのライヴ) が。そういう映画。オープニング・クレジットの段階で既にしびれるような。

米国ではこの5月に公開されているので、事前にレビューはいくつか読んでいて、(「音楽がBorisとSunn O))) だ、すげぇ」というのは別として)映画としては「ジャームッシュのベストではない」というやや遠回しなマイナス評価を得ていることは知っていたのだけれど(そりゃ、『デッドマン』を超えるのは大変だよね)、「いい」(名作だ)とか「悪い」(駄作だ)といったのとは別の基準で「何度か繰り返して見たい」かどうかというのがあって、この映画は「何度か繰り返して見たい作品」だ。ひたすらの反復、反復、反復。そういう反復を何度も追体験するための映画というか、「Aメロ、Bメロ、サビ、Aメロ、Bメロ、サビ、サビ……」で構成される3分間のポップソングを何度も何度も繰り返し聞くように。繰り返すたびに、「ここ、こんなふうになってたんだ」というように、新たな発見があるだろう。

それからロゴス。この映画は極端に「台詞」が少ない。その少ない台詞の大半が、1つの原型の繰り返しである。それを口にする人は次々と入れ替わり(ヴァイオリンを抱えた中年の男、ギターを持った高齢の男性、透き通るようなブロンドの女性、「ボヘミアン」の雰囲気を漂わせる若い男……)、それぞれの変奏を奏でては映画の画面から退場してゆく。そして、最後に異なるテーマを奏でる男が登場し、「物語」は終わる。When the music is over, ... .



『デッドマン』はウィリアム・ブレイクだった。『リミッツ・オブ・コントロール』はアルチュール・ランボオだ(主人公がフランスからスペインに入るときの航空会社の名称!)。映画の冒頭では「酔いどれ船」の冒頭2行が引用される。(プレスシートにあるインタビューでは、ジャームッシュは「引用は撮影が終わってから思いついた」と語っているけれど、ランボーというインスピレーションは最初からあったものだろう。)

で、基本的に英語話者であるジャームッシュとは関係のないところで発生する問題なのだが、これの「翻訳」がまた、えらいこっちゃ、なんだよね、日本語の場合。

(私はBorisが国外リリースするときにアーティスティックな面で必要とされる翻訳を10年以上やってきた。で、翻訳者には、言語面で常に接する絶対的孤独というのがあるんですよ。特に母語から外国語に翻訳する場合――外国語から母語に翻訳するときは、母語のルールをあてにできるけれど、その逆は自分でauthor/話者としてコントロールできる限界がわからない。そしてその「わからない」ということが、オリジナルのauthorには必ずしも伝わらない。)

原文:
http://en.wikipedia.org/wiki/Le_bateau_ivre
Comme je descendais des Fleuves impassibles,
Je ne me sentis plus guide par les haleurs:

英訳:
http://en.wikipedia.org/wiki/Le_bateau_ivre
As I was floating down impassible Rivers
I no longer felt myself steered by the haulers:


この "impassible" をどう解釈すべきか、そして、フランス語→英語では生じない問題として、これをどういう日本語に「翻訳」すべきか、っていうのがね。「川は外部からの何かには動じない」という意味合い(しかし船はちょっとしたことで大揺れになるし、それに乗っている「私」はもっと揺れる……)ということだと私は思っている。

中原中也:
http://www.aozora.gr.jp/cards/001296/files/47296_34905.html
私は不感な河を下つて行つたのだが、
何時しか私の曳船人等は、私を離れてゐるのであつた、


大島博光:
http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/blog-entry-255.html
おれは 非情の 「大河」をくだっていたが
気がつけば 船曳きどもは はや船を曳かず


図書館に行けば、小林秀雄(文語訳)、福永武彦、粟津則雄といった方々の翻訳も読めるだろう。

フライヤーで使われている翻訳も2種類ある。
私は悠然たる河を下ってゆく
もはや船乗りたちに操られることはない……

無情な大河を下りながら――
もはや船曳きの導きを感じなくなった


これらの日本語訳のなかには、「意味」がわからないものが実はかなりたくさんある。それは「誤訳」ではないのだけれど、「意味」を伝えようとしたものではなく、「ことば」を伝えようとしたもので――「不感な河」とか――、このような蓄積を豊富に有している日本語という言語による空間では、そういう「意味をなさないことば」は、「詩的な響き」と紙1枚隔てているだけだ。でも英語では「意味をなさないことば」は、形式(押韻など)を満たしていない限りは、もはや「ことば」ですらない。「意味不明」と流してくれればまだよいほうで、元の日本語をそのまま英語にしているときに、何の根拠もなく「誤訳」と決め付けられることもある。それも、日本語の「に」の字も知らん奴から。そしてそれは、私個人にとって問題になるというより、私に「翻訳」を依頼した人にとって問題(「不利益」といってもいい)になる。

ジャームッシュは絶対に何もコントロールしていないところで発生していることだが、日本語話者である私には「翻訳」の不可能性という永遠のテーマがこの映画に重なって見えた。そして、ジャームッシュがこの作品を作るときに参照していたと語っている70年代のハードボイルド映画のことなどまったく知らん私は、「言語」の「限界 limits」を題材とした映画『バベル』を思い出す(ガエル・ガルシア・ベルナルが出ていたこともあって)。そういう、すべて主観で構築された自分の限界の中に、この映画を取り込もうとしたときには、そもそもの出発点(「酔いどれ船」)とはかなり離れたところに来ていて、「船曳きの導きを感じなく」なっている。「船曳き」はControlでね、われわれの言語(ロゴス)の世界を律するもの。その、いろいろな意味での限界 Limits ……そしてそれを体験するのに、「ことば」がいらない。映像と音がある。時間があって「ストーリー」がある。

非常に贅沢な体験。

ジャームッシュには、ウィトゲンシュタインでもやっていただきたい。「語りえぬものについては」……。

映画冒頭、次のような台詞がある。【ネタバレのおそれがあるため、文字を背景色と同じ色で→】「孤独な男」(イザック・ド・バンコレ)に任務を告げるフランス人のことばを、英語にして伝える通訳者の台詞だ。
"Everything is subjective" - whatever that means. 【←同色、ここまで】


このシークエンスではその後の展開でキーとなることばも出てくるのだが、通訳者はそれについて「意味がわからん、通訳を?」と問うている。

こうして「ことばの意味」、「通じる/通じない」というBメロ(非常に「正常」な、カフェの店員という狂言回し)が時おり聞こえつつ、「あなた、スペイン語は?」という「合言葉 code」の反復と、それに続く "Do you like ...?", "Are you interested in ... by any chance?" というフレーズの変奏で、時間が経過してゆく。

そして「ことば」では示されず、映像や音で示される変奏もある。私にはカギがないので読み解けないものもあり、逆に「レインコート」と「傘」という非常にわかりやすい展開もある。

主人公が移動すると、聞こえてくる街の音が変わる。それを耳にして私は「ああ」と思うのだけれど、映画『バベル』で超高級億ションのベランダで「たけや〜ぁ、さーおだけぇぇぇ〜〜」の声が聞こえてくるという、オリエンタリズム丸出しのリアリティのない音の扱いがされていたことをふと思い出して、少し不安になる。その「音」を、私は信頼できるのか?

そんなケチな自意識など、吹き飛ばされてしまう。その「音」に。靴のかかとが、リズミカルに床を叩く音に。朗々とした歌声に。

そして、「孤独な男」はスペインのことばで自分の意思を通じさせることができない。彼は「英語」の中で生きている……ということに、なっている。

本当は、「スペイン語はぺらぺら」かもしれないけれど、そのことは外部の目には(耳にも)わからない。

その宙ぶらりんを体験させてもらえるということは、「物語」至上主義の傾向のある今では、とても貴重なことだと思う。

しかし、「物語」をぶっこわすのはいいけど、売れるかどうかという点では、少し壊しすぎな気もする。この映画を「売る」立場の人たちは大変だろう。



■サントラ(どの曲がどのアルバムに入っている、などの情報はThe Playlistに詳しい):
Limits of ControlLimits of Control
Original Soundtrack

Limits of Control Smile

by G-Tools


予告編で使われている音楽は、Bad Rabbitというバンドによるもの。といっても、サントラに曲を提供しているほかのバンド(Boris, Sunn O))), Earthなど)とは違い、「ロックバンド」としての活動歴があるわけではないようだ。メンバーは Carter Logan, Shane Stoneback, Jim Jarmusch の3人(ご本人バンド)。ミュージシャンというよりエンジニアとして仕事をしている人たちらしく、ジャームッシュはギター担当(インタビュー参照)。

音楽については、英語版の映画公式サイトでジャームッシュへのインタビューがあるので、それをぜひ。「Borisは10年くらい聴いている。Amplifier Worshipをダビングしたテープを誰かにもらって聴いたのが最初」とのことで、

■ロケーション:
映画全体がスペインで撮影されている(ただし冒頭はフランス)。主人公の「孤独な男」はいくつかの都市を移動する。最初に彼が入るマドリードでは、Torres Blancasという1960年代の高層建築が、外からも中からもかなりじっくり見られるのだが、この建物が……「個性的」というか何というか。

建物を外から:
http://twitpic.com/ecl6w
http://bit.ly/3uzsVe
http://bit.ly/OZ1xA
http://bit.ly/jrtGg

建物内部の写真:
las tripas, by crudote
*a CC photo by a flickr user crudote

Flickrのグループ:
http://www.flickr.com/groups/blancas/

この個性的な建築物については、スペイン語の建物名 (Torres Blancas: White Towers: 白い巨塔?!) でウェブ検索しても英語での情報がほとんどない。ジャームッシュのこの映画で一気に有名になったとかいう形跡もない。ウィキペディアにも英語版のページはない(現時点で)――こんなところにも「英語圏」というlimitがある。そして、そのlimitの存在を知らず、世界の全ては英語で書かれていると思っている人たちのことを思い出して、私は胸糞悪くなり、胸の中で悪態と罵倒が、この建物の形のように、むくむくむく……と出てくる。

マドリードではもうひとつ、美術館が重要なロケーションとなっている。私の記憶が正しければ、ソフィア王妃芸術センターだ。Juan Grisのシーンが、ジャームッシュ映画を最初に見たときに感じた「オフビートなユーモア」というか、「わかりきっていることを真顔で」的な何か。こういうふうに、「美術」(美術史)というラインもあるんだけどね、この映画。一度ではそこまで見られない。

マドリードの次に彼が訪れるセビリヤでは、より「伝統的なスペイン」が画面とスピーカーからあふれてくる。



映画の中で「ブロンド」(ティルダ・スウィントン)が陶然と言及するのはタルコフスキーなのだけど、ジャームッシュはそういうことが観客にもわかるということをまったく前提としていない。彼は「映画を作るときに何もオリジナルなものなどない」という考え方をしていて、何かしらの引用なのだけれど、それが何の引用であるとかいったことをとうとうと語って気持ちよくなるような「オタク」体質ではないし、そういう「オタク」っぽさを観客に強要することはない。その風通しのよさが、私は大好きだ。

音楽についてのインタビューで、インタビュアーが(おそらくあえて)「ジャンル」にこだわって、「Sunn O)))は『メタル』ですよね」といったように水を向けたとき、ジャームッシュが口にするのは、No New York系やミニマリズムの「現代音楽」だ。でも、そういうのが「わかって」ない奴には楽しめない、とかいう態度は持っていない。



「メキシカン」のガエル・ガルシア・ベルナルと一緒に登場する「ドライバー」のヒアム・アッバスは、アラブ系イスラエル人で、『シリアの花嫁』や『レモン・トゥリー』といった「社会派」のイスラエル映画に出ているのだが、この2人の並んだ絵のかっこよさは異常で、「ヌード」のパス・デ・ラ・ウェルタの完璧なアンバランスもすごいし、ティルダ・スウィントン、ジョン・ハート、工藤夕貴、ビル・マーレイといった豪華なキャストはそれぞれため息が出るようなかっこよさ(「スタア」が中心にいたころの映画の風合い)。それでも一番印象に残ったのは、終始おしゃれスーツに身を包んでニコリともしない、イザック・デ・バンコレの歩きだったりする。

しかしジム・ジャームッシュ(の作品)は相変わらず若々しく、ひょっとしたら「ベテラン(巨匠)」になんかなりたくないというステートメントなのではないかとも思う。

……やっぱり「作者」に何から何までコントロールされる(例えば「泣ける映画」とか)のが気持ちいい人には向かない作品で、そして「アート系」が好きでも、「ストーリー(めいたもの)があるのなら、それは破綻していてはならない」という人には向かない作品だと思う。

※この記事は

2009年09月18日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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