「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2009年08月12日

August 1969

「1969年8月」といえば、BrokenとTDSがレコーディングされた場所で起きたものすごく陰惨な狂気の事件とか、ニューヨーク州でのラヴ&ピースなカウンターカルチャーの祭典とかいった出来事があった。(北アイルランドについて詳しく調べたりするようになる前なら、これだけ把握してれば満足していたかもしれない。)
http://en.wikipedia.org/wiki/1969#August

そのころ、ブリテン島の西に位置するアイルランド島の東北部では、後に「北アイルランド紛争」と呼ばれるようになる事態における第三の当事者、つまり英治安当局が、「紛争」という舞台に登場していた。

August 12 - Violence erupts after the Apprentice Boys of Derry march in Derry, Northern Ireland, resulting in a 3-day communal riot known as the Battle of the Bogside.

August 14 - British troops are deployed in Northern Ireland following the 3-day Battle of the Bogside.

8月12日、デリーでアプレンティス・ボーイズのパレード(デリーでの歴史上の出来事を記念するプロテスタントのセクタリアンな祭り)をきっかけに、「ボグサイドの戦い」が起こり、ここには書かれていないけれどもベルファストではカトリックの住宅街がプロテスタントによって放火され人々が焼き出されるといったことが起き、そしてプロテスタントばっかりの北アイルランド警察当局には何もできず、14日には「中立的」な調停者として、英軍が出動することになった。これが以後、2007年まで続いたOperation Bannerの始まりだ。
http://en.wikipedia.org/wiki/Operation_Banner

8月の動乱の詳細:
http://en.wikipedia.org/wiki/1969_Northern_Ireland_Riots

これからちょうど40年となる今年、BBC NIでは下記のように特集を組んでいる。



詳細はあとでゆっくり書ければと思うのだが、書けないかもしれない。

そういえば、ウッドストック・フェスの「ウッドストック」は、フェス企画者の拠点だった場所の名前だが、そのウッドストックがあるのがアルスター郡、アルスター郡の南に隣接するのがオレンジ郡、西に隣接し、実際にフェスが行なわれた農場があるのがサリヴァン郡(アイリッシュ・ネーム)。そういう歴史的背景があるんだろうか。ヒマだったら調べてみるんだけどね。

※この記事は

2009年08月12日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 14:30 | TrackBack(0) | todays news from uk/northern ireland | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼















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