「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2009年07月12日

緑色のSunday Bloody Sunday

イランの選挙から、暦上で1ヶ月が経過した。

すべてが消化不良でアウトプットもままならず、しかも非常に不快な蒸し暑さ、消化不良に拍車がかかってただのタレナガシしかできないので、余計に生煮えの状態で、見出していいのかよくないのかよくわからない「意味」をそこに見出しつつ、観客席から撮影されたステージを見る。

U2 - Sunday Bloody Sunday (live 02JUL09 @ Camp Nou, Barcelona)


U2が、6月末からスタートした欧州ツアーで、暴力が社会に残す影響のことを歌った曲、Sunday Bloody Sunday (1983年) のステージを「イランの選挙結果を疑問視するイラン国内の人々」の色である緑色に染めたことは、ブログでは書いていないけれど、twitterでは10日ほど前に書いていると思う。携帯電話で客席で撮影された緑色のステージの映像が、7月1日か2日にはYouTubeにいくつもアップされていて、そのひとつのURLを貼り付けたと思う。

ツアーのスタート地点がバルセロナなのだが(会場はカンプ・ノウ)、バルセロナ自体が、ジョージ・オーウェルとかアーネスト・ヘミングウェイが書き残してくれたものでうちらも手軽に知ることができるように、「国家」による「反対意見」への(と書いていいのだろうか、カタロニアの場合)暴力の現場となった場所であり、スペイン自体がかなり最近まで非民主的独裁政権下にあり、たぶんそういうことを私が知っているからだろう、たまたま「社会派」のビッグスターのツアーの開始地点が、たまたまスペインの大都市だったということなのだろうけれども、いろいろと「意味」を読んでしまう。

http://www.u2.com/tour/index/ によると、現時点でこのツアーで終了したステージは、バルセロナ(6月30日、7月2日)とミラノ(7月7日、8日)、パリ(7月11日と12日)で、ミラノでもパリでもバルセロナと同様に、緑色になっている。

U2 360° Tour - 07:07:09 Milan - Sunday Bloody Sunday


U2 360 Tour in Paris 11 Juillet 2009 - Sunday Bloody Sunday


LA Timesの10日付の中東関係のブログに、この「緑のSunday Bloody Sunday」のことが書かれている。
http://latimesblogs.latimes.com/babylonbeyond/2009/07/iran-u2-tributes-iranian-protestors.html

イントロ部分でモニターに映し出されるペルシャ文字のことば――上に貼り付けた映像では、バルセロナのとパリのにはっきり出ている――は、Rumiというペルシャ(イラン)の詩人のことば。Rumiはペルシャの人たちにとって本当に特別な意味を持つ詩人だという。

※この記事は

2009年07月12日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼















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