「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2009年07月07日

それぞれ別々であり、同時にひとつである52の死――2005年7月7日から4年。

あの日私は、第一報ではショックを受けたけど、そのあとは泣いてなんかいなくて(今年の6月にテヘランで死者が出たときには泣いてたけど)、とにかく現地のニュースをネットで集めようとして、メインストリーム・メディアの情報はあまり当てになりそうになかったのでブログなどを見て回って、それが一段落ついたあとは、例によって日本での報道がひどい(「ロンドンでバスがああいうふうに爆発したときに連想されるのはIRAしかないでしょ」みたいなことと、1990年代前半までを知っている者にとっては「ロンドンで公共交通機関を標的にしたテロ」など別に珍しくもないという事実が語られないことへのものすごく大きな違和感と)とクダを巻いていたのだ。

4年が経過して、今日のニュースはウイグルでのむき出しの暴力(住民に対する住民の暴力もしくは暴力的意思と、住民に対する国家の暴力)と、イランでの暴力(国民に対する国家の暴力と、外国に対するある主権国家の比喩的な「暴力」)と、英国によるあまりに英国的な暴力(MI5とパキスタンのISIと「拷問」の件)と、あまりに暴力的なBNP支持者の「無知」と、「極右テロの脅威」と、東京をはじめとする日本の都市に爆弾を雨のように降らせ、ヴェトナムでも同じようなことをしたアメリカ人の93歳での死と……で、つまり私はすごく疲れている。

そういう気分でこのニュースを読み、このビデオを見るのは、私が大好きなあの都市への裏切りのような気さえする。もっと心安らかに、落ち着いて、このニュースに接したいのだが。

Tributes paid at 7 July memorial
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/8137265.stm

完成したばかりの「7月7日の恒久的メモリアル」で行なわれた追悼の式典の様子。

チャールズ皇太子がメッセージを読み、事件当時のロンドン市長と今のロンドン市長が参列し……あとひとり、この人の肩書きは何だっけ、LibDemの人だっけ……、あの日に家族を亡くしたり自身が負傷したりした人たちが参列している。

当初、行政では、このメモリアルを事件現場のひとつつであるタヴィストック・スクエアに作るつもりでいたが、遺族側の希望でハイド・パークに場所を変更した(ラヴァーズ・レインのところ)。

コンセプトは「それぞれ別々であり、同時にひとつである52の生命」。ただ金属の四角い柱が直立し、太陽が作る影でつながったり重なったりして一日をすごす。ひとつひとつの柱に人名は刻まれていない。いかにもロンドンっぽいちょっと皮肉なところのあるトリビュートだと思う。

このメモリアルの詳細は下記にて。
http://www.culture.gov.uk/reference_library/media_releases/2161.aspx

メモリアルについては、6日からBBCに何本か記事が出ていて、その中には、この「52の生命」をデザインした人(娘さんを事件で亡くした)と、ご遺族の一人の女性(お母さんを事件で亡くした)がこのメモリアルでBBC記者のインタビューを受ける、という内容のものもある。(URLは明日、覚えていたら追記します。)このインタビューで、このメモリアルのコンセプト的なことが語られている。

56 people died in the London Bombings of 7 July 2005 - 52 victims plus four suicide bombers.

2005年7月7日のロンドン爆弾事件では56人の人々が死亡した。爆弾の被害にあって落命した人たちが52人、自爆犯が4人である。

http://www.culture.gov.uk/reference_library/media_releases/2161.aspx


私は2005年7月7日に落命しなかったロンドナーの人たちが、あの日について書いたものを、ほんの少しだけど読んできて、そして、私にあの記憶を刷り込んだあの大都市で「IRA」という記憶がどんどん薄れていることに「よい」でもなく「悪い」でもなく、ただひたすら淡々とした感覚を覚え(That's life! 的な、あるいは「ああー、川の流れのよーに」的な)、そして、2005年から2009年までの4年の間に、確実に、恐ろしいほど、「イスラムは敵」という意識が広がっていることが現実だと知り(BNP関連サイトを見てみればわかる)、淡々としたというよりは少しは波立ったような感覚を覚える。

で、現実には「4年前のテロ事件のメモリアル」のことなど書いている場合ではない。半年前のガザ攻撃についてのアムネスティ・インターナショナルの文書があり、現在進行形のイランの蜂起の件があり(ラフサンジャニの動きが難しいのだが、長期化することはたぶん確実)、つい数日前から激しくなったウイグルの件があり(北アイルランドによく似た構図で、胸が締め付けられるようだ)……。

書いている場合ではないのだが、少しは立ち止まりたいと思う。

あの日亡くなった52人は、おそらく単に、ロンドンの公共交通機関をあの時間帯に利用していたという共通点しか持っていない。でもハイド・パークというロンドンの象徴のような場所で、互いに並んで盤に名前を刻まれ、名無しの柱となって並んで立ってる。

※この記事は

2009年07月07日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 23:50 | TrackBack(0) | todays news from uk/07 july 2005 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼















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