「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2009年06月12日

最近のニュース/「誰もが見てわかる図像」としての「IRA」

選挙が終わってからのニュースの立て込みようといったら、「ロンドンでは、時刻表では10分に1台ということになっているバスは、45分ごとに3台まとめてやってくる」に近い状態で、ブログに書いている暇がありません。

大きな話題としてはまず、BNP関連。これは選挙後にニュースが増えることは当然なのですが、米国でのホロコースト博物館襲撃事件の犯人が、在米のBNPサポ組織のメンバーだったとのことで……。

それからReal IRA関連。これが……何本立てだろう。

オマー爆弾事件の民事訴訟での判断が出たこと(5人訴えられていたうちの4人に爆弾事件への責任ありとの結論)、オマー爆弾事件民事訴訟当事者(4人のうちの1人)が、欧州での武器調達活動により、リトアニアだっけかな、ちょっと記憶が曖昧なのですが、欧州の遠い方に身柄引き渡しの可能性ありということ、それからオマー爆弾事件で2006年12月に証拠不十分で無罪となった当時の被告に関し、証拠についての再検討の末、再審の可能性が生じていること、そして、これが今日のニュースでは最大なのですが、3月の英軍基地襲撃事件の後、4月のイースター記念行事について、Real IRAの声明文が行事の前日にアイルランド共和国に拠点のある新聞にRIRAから直接リークされたことに関して、その連絡を受け記事を書いたジャーナリストが、警察から「連絡相手の情報を警察に開示せよ」と求められている件(根拠は対テロ法かテロ法か、どっちだっけ、もう忘れている ^^;)。

RIRAの連絡相手を警察に伝えたりしたら記者さんの家族が危ないので(もちろん記者さん自身も)、彼女自身は「開示するくらいなら投獄されたほうがまし」としており、現在法廷で「開示すべき・しなくてよい」の判断を出すための手続が進められています。

で、その「ジャーナリストと情報源」の件についての解説の記事が、BBC News UKのトップページの「注目記事」のところにあるのですが、そのアイキャッチの写真(右側)が:
kigou.png

この写真は、Real IRAではなく、Provisional IRAのミュラルです。BBCの記事で何度も資料写真として使われているものです(→一例)。Real IRAは元々はProvisional IRAにいた人たちが作った分派なので「まったくの的外れ」ではないかもしれませんが、何と言うか、「アイリッシュ・リパブリカンの武装勢力の暴力」を語るときにアイ・キャッチとなる「誰もが見てわかる図像」は、武装組織としての活動実態があるにせよないにせよ、なのだなあと思うと、別にがっかりはしませんが、微妙な気分にはなります。

記事は下記です。読む価値はあります。

Perils of reporting on terrorism
By Mark Simpson
Ireland correspondent, BBC News
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/northern_ireland/8096238.stm

※この記事は

2009年06月12日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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