「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2017年07月07日

「ホームグロウン」の《物語》が、語らないものがある。

twittertrends07072017.png7月7日、私が見ているTwitterの画面では、#LondonBombingsがTrendsの上位に入っている。ハッシュタグを見てみると、追悼式典の写真や追悼の言葉、当時の報道などに混じって何の余地もない「ヘイトスピーチ」も並んでいる。またさくさくとミュートしたりブロックしたりするだけの簡単なお仕事をする。それらのヘイトスピーチが自分の中に残す汚い感情と、それらに接して自分から出てくる汚い言葉を、麦茶で流し込む。そうして流し込んだものは排泄されるのだろうか。それとも蓄積されるのだろうか。

あの晩の今くらいの時刻、私は東京の自宅でTVニュースを見て、画面に表示されていた「爆発地点マップ」に目を奪われていた。そのマップはその時点での情報に基づいていて、その時点の情報はかなり混乱していたので、実際には爆発がなかった場所も多くマッピングされていたことがしばらくして明らかになるのだが、その時点で「ロンドン地下鉄の複数の場所で爆発があった」ということは確実で、その4年ほど前に米国で起きたことから一気に日常語化していた(ちょうど、その10年前に東京で起きたことから「異臭」が日常語化していたのと同じようなことだ)「同時多発テロ」という六字熟語がすぐに頭に浮かんだ。と同時に、これはロンドンであり、ロンドンであるということはあの可能性(もあるんじゃないかとも思った。2001年にイーリングのパブをボムって以来、イングランドで爆発物が摘発されてはいるが、大きな活動は報告されていない武装組織があるのだから……しかし、それは「可能性がある」ではなく、「可能性もある」、というより「可能性が完全に否定できるものなのだろうか」のレベルでしかないことは、その組織名を頭に浮かべた瞬間にもわかってはいた。ただ、あの組織ではないという根拠はまだないだろう、根拠がない以上は断定はできないはずだ、ということでしかなかった。そしてそういうことを考えてる一方で、ネット上の英語圏で「公共交通機関がテロの標的にされるなんて、ロンドンがこんな目にあったことはなかったでしょう」とかいう、何をおふざけあそばしているのですかと言わざるを得ないような愚かな言葉(個人の感想)に接して(当時はTwitterのようなものはまだなかったので、報道記事やどこかのブログのコメント欄でだが)、「っていうかあなたがたアメリカ人がIRAを支援してたんですよねぇ?」という感情的な反発の中に自分が絡め取られていくのをそのままにしておくよりなかった。(アメリカ人のIRA支援については、ボストンのアイリッシュ・ギャングのボスとその兄である政治家と幼馴染の警官との黒い関係を描いた実録もの映画『ブラック・スキャンダル Black Mass』に少し出てくるが、「言及はされている」という程度なのでわかりづらいかもしれない。あの映画は「2時間ドラマ」でしたな……カンバーバッチの持ち腐れ。)

日本語圏でも「ニューヨークとワシントンDC、マドリードに続き、ついにロンドンも」的な言説が横行し、あたかもパニック映画を見ているようなムード、という言い方がきつすぎるようなら、ニュースを見て勝手にパニクってるようなムードに覆われていた。過去数十年にわたってマドリードはETAがいたし(実際、当時のアスナール首相は「列車爆破はETAだ」との見解に固執していた)、ロンドンはIRAの活動域だった。欧州の人たちは、そんなに簡単にパニクらんよ。

彼らを新たにパニクらせるためには、新しい概念と新しい言葉が必要だった。「今起きているこれは、過去に起きてきたものとは違うのです、異質なのです」という情宣が必要だった。

「ホームグロウン home-grown」という概念が日常に導入されたのは、正確に、いつのことだっただろう。

自分のログを掘ればそれがわかるかもしれないが、今はそんなことをする気力はない。暑さでバテバテだ。

IRAのころは「ホームグロウン」という概念などもちろんなかった。そもそも1960年代以降のIRAを形にしたのは、イングランド人の父とアルスター・プロテスタントの母を持つイングランド人で、彼こそ「ホームグロウン」と呼ばれるべき人物なのではないかと私などは思うのだが、その概念が英国外で、つまり「テロ」という文脈ではIRAの活動域外でできたものなので、現代IRAには適用されなかった。

テロの文脈における「ホームグロウン」という用語は、ある国・社会で育った者が、その外部にルーツのある思想や主義主張に触発されて、自分が故郷(ホーム)とする国・社会を標的として攻撃を行なうテロリストについて用いられる。英語版のウィキペディアでは単なる「ドメスティック(国内)・テロリズム」と置換可能であるかのように扱われているが、それは後付けというか遡及的に概念が適用されているにすぎない(ティモシー・マクヴェイを「ホームグロウン」扱いするのは、「イスラム教徒ばかりホームグロウン・テロリスト扱いするのはよくない」という「政治的に正しい」かどうかの基準に照らしての修正主義によるものだ。マクヴェイは「ドメスティック」テロリストとして語られていた)。

12年前、2005年7月7日はまだその概念が一般化する前で、犠牲者の人数が確定する前に監視カメラの映像という形でメディアで報じられた実行犯たちは、主に単に「自爆犯 suicide bombers」と語られ、何らかの位置づけをするときには「テロリスト terrorists」「過激派 extremists」だった。彼ら4人のうち3人がパキスタン系英国人であることが確定してから、うち1人(リングリーダー)が残していた「アルカイダのビデオ」が出てくるまでの間にも、結論を早まる人々の間では「アルカイダのテロリスト」という扱いはされていたと思うが、いずれにせよあのころには「ホームグロウン」云々という語られ方はしていなかった。

そもそも、4人の実行犯のうちの1人はジャマイカ生まれ、子供のころに親に連れられて英国に来てから英国で育ってきたというバックグラウンドで、宗教的には元々キリスト教徒だった。

が、日本の報道では――英国の報道はそんなことはなかったので「日本の」と書いているが、たぶんアメリカの報道も日本のと同じだ(だって日本の報道は、たとえ英国で起きていることでもまず「アメリカでどう報じられているか」を参照して、それをベースにしているから。5月23日のマンチェスター爆弾事件のときに、英当局は伏せていたにもかかわらず米国が勝手にリークした実行犯の名前を、日本の報道は何ら留保なく伝えてたでしょ)――ジャマイカ系の彼はほぼ無視され、4人のうちの3人を占める「パキスタン系英国人」にばかり焦点が合わせられていた。そして彼らを語る言葉として「ホームグロウン」というのが出てきた。

そして彼らを語る上で、判で押したような「貧しい移民がなんちゃらかんちゃら」という《物語》が、それこそテンプレートとして用いられた。実際には、ロンドン地下鉄とバスで自爆したパキスタン系英国人3人は、バックグラウンドとしては「成功し、安定した生活を送る移民の子たち」で、小学校の指導員をしていたり、大学でスポーツを専攻していたり、高校で優秀な成績をおさめたりという「好青年」たちだったにも関わらず、そのことはほとんど無視され、「貧しい移民のなんちゃらかんちゃら」という《物語》に乗っけられていた。その問題については当時書いてるはずだ。
http://nofrills.seesaa.net/category/1779327-1.html

「ホームグロウン」の《物語》には、「移住先で差別を受け、貧しいままでいることを余儀なくされた移民が社会に対して恨みを抱き……」とか(この《物語》は、誰が喧伝しているものであるのかを注視する必要がある)、「自分のルーツと自分の環境とが一致しないことから『自分は何者なのか』というアイデンティティ・クライシスに陥り……」とかいった類型がある。そしてそれに該当しないものは「例外」扱いされるか、単に無視される。

だが、《物語》のためのそのような取捨選択は、「語る側」にとって都合のよいものであるという以上のものではない。そのような取捨選択がなされることによって、《事実》や《真実》がより明確に伝わるというものではない。

この5日、2005年7月7日から12年になろうというタイミングで、BBC Newsが「英国のジハディストたち」というデータベースを公開した。対象とする年代が2012年以降で、地域が「シリアおよびイラク」であるため、2005年7月の自爆者たちや攻撃未遂者たち(デメネゼスさん誤射事件のときに警察が抑えようとしていた本当のテロ容疑者たち)のことも、ソマリアなどに渡った英国人についても扱われていないから「英国のジハディストたち」の全貌がわかるようなものではないが、「ホームグロウン」という《物語》(《神話》とまでは言わないけどね)から少し距離を置くことを意識しながら眺めてみることで、いろいろなものが立ち現れてくるデータベースだと思う。








今日、7月7日のロンドンから。











※この記事は

2017年07月07日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 23:13 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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