■追記:
ご参考までに、BBC iPlayerのページはこちら:
http://www.bbc.co.uk/iplayer/episode/b00jsz96/Five_Minutes_of_Heaven/
少なくとも、スチール写真1枚が見られます(画像の上に文字が表示されているときは、Windowsの場合、画像を右クリック→「画像だけを表示」で)。3月の軍&警察への攻撃でも17歳とか19歳といった年齢の人たちが逮捕・起訴されていますが(19歳の人の起訴はまだかも)、このスチール写真もその「若さ」が……。
■追記ここまで。
このドラマについては、昨年の6月にBBC NIの記事になっていたのを当ブログでトピックにした。
http://nofrills.seesaa.net/article/100847837.html
「北アイルランドの2大スターの豪華初共演!」のこのドラマは、1975年に実際に起きた殺人事件をベースとしている。
1975年10月、アーマー州ラーガン。「北アイルランド紛争」という社会的状況のなか、17歳のアレスター・リトルは、19歳(あるいは21歳)のジェイムズ・グリフィンを撃ち殺した。リトルはロイヤリスト武装組織UVFのメンバー、グリフィンはカトリックで武装組織には属していなかった。
ジェイムズの弟で11歳だったジョー・グリフィンは、ジェイムズが殺される現場を目撃していた。事件のあと、グリフィンの家庭は崩壊してゆく。
リトルは殺人容疑で逮捕され、裁判で有罪となり、ロングケッシュ(メイズ刑務所)に送られた。判事は年齢的に終身刑にはできない彼に、無期懲役を言い渡し、そして彼は12年をロングケッシュで過ごした。そのときに暴力から非暴力への転回を遂げ、出所後は平和活動家として活動、現在は中東など国際的にその活動を続けている。
ドラマは、犯人のアレスター・リトルと、被害者の弟のジョー・グリフィンが実際に対面したら、という想定でのフィクションだ。両者は制作の過程に深く関わり、BBC NIらしい重厚なドラマ(『眠れる野獣』のような)に仕上がっていることは間違いない。
さて、ドラマ放映を前に、英各メディアにキャストなどのインタビューが出ていた。気付いた記事は、4月3日にまとめてブックマークしてある。記事を読んで、リーアム・ニーソンがますます好きになった。言葉というものについて、ものすごく真面目な人だ。
http://b.hatena.ne.jp/nofrills/20090403
で、当然のことながら、北アイルランドのベルファスト・テレグラフが最も細かい(<「細かい」というのは視点的な意味で)記事を出していて、実際の事件の当事者であるアリスター・リトルさんの寄稿もある。
Liam Neeson and me, by a former UVF man
Friday, 3 April 2009
http://www.belfasttelegraph.co.uk/news/local-national/liam-neeson-and-me-by-a-former-uvf-man-14256246.html
この文章は、ハリウッドスターであるリーアム・ニーソン(北アイルランド出身)と映画撮影時に会って話をした(まったくの予定外)ことについてが中心。このドラマの撮影終了後、というかつい最近、ニーソンの夫人であるナターシャ・リチャードソン(ヴァネッサ・レッドグレイヴの娘)がスキー中の事故で他界したことについて、「リーアムのような善き人にあのような悲劇が起きるとは」と嘆きながら、リトルさんはFive Minutes of Heavenというドラマと、そのドラマで自分を演じるリーアム・ニーソンについて、次のように書いている。
「Five Minutes of Heaven」は一晩でできたわけではない。2006年に始まったこの企画は、3年をかけたものだ。
2006年に制作のオーウェン・キャラハンと、脚本のガイ・ヒバートが私に連絡してきて、紛争と、暴力から非暴力への旅程を見つめる番組に参加してもらえないだろうかという話があった。
彼らが連絡してきたのは、私が、いかにして自分がひとりの人間を撃ったか、そしてその出来事が他の人々に――私自身にも――その後何年にもわたってどのように影響を与えてきたかについて語ることをいやがらない、数少ない元囚人たちの1人だったからだろうと思う。
こうして、3年に渡るプロセスが始まった。このプロセスで、制作者は私とジョー(筆者が射殺したカトリックの男性の弟)との間で作業をすることになった。
私がリーアム(・ニーソン)と初めて会ったのは、撮影が行なわれていたときのある日のことだった。
まさかリーアムと対面することになるとは思っていなかったのだが、ちょうど私がセットから出て行こうかと思っていたとき、 リーアムが誰かに「アリスターさんってどの方ですか」と尋ねたのだ。
その次には、少し話をしようということで、彼は私のほうに歩いてきた。
「どうも、アリスターさん、お会いできてうれしいです」とリーアムは口を切った。それから北アイルランドで育つということについての話で盛り上がった。
リーアムはバリミナでの子供時代と10代のころのことを語った。私の出身地であるラーガンのあたりでボクシングをしていたこともあるという。
リーアムは映画スターで、金のある有名人と一緒に仕事をするのが当たり前という人だが、それでも、私が和解という分野でやっている仕事について大きな関心を示した。
私たちはイスラエルとパレスチナの間の情勢についての話までしていた。
「まったくなんであんなひどいことになっているのだか!」とリーアムは言った。私は彼に、「平和を求める戦闘員 (Combatants for Peace)」のことを話した。このグループはイスラエル軍兵士だった人たちとパレスチナの戦士だった人たちのグループで、協力して暴力を停めようとしている。
「そういう人たちのことを、何でもっと耳にしないのだろう?」とリーアムは問うた。
……
Combatants for Peaceについては、「壊れる前に・・・」さんが2006年に紹介記事を書いておられるほか、立正佼成会のサイトで2006年の「世界宗教平和会議イスラエル・パレスチナ青年事前会議」でのディスカッションが報告されている。あと、このブログでも、頭に血が上った状態で2009年01月21日付けで書いた長いエントリの下のほうに、大月啓介さんのブログを参照するかたちで、少し書いている。
この活動にアレスター・リトルさんがコミットしていたことは、私は知らなかった。
なお、リーアム・ニーソンを「誰でも顔と名前を知っているような大スター」にした映画は、スティーヴン・スピルバーグの『シンドラーのリスト』だった。
リトルさんは、ドラマと同時期に本も書いていた。
映画(Five Minutes of Heaven)が始まったのは、私がロンドン出身の国教会のpriestであるルース・スコットと協力して、書籍「子供に銃を与える (Give a Boy a Gun)」 の作業に取り掛かったときとほぼ同時だった。この書籍は最近出版されたばかりだ。
この本は、私の体験談を中心としているけれども、本質的には、北アイルランドについての本ではない。
そうではなくて、この本は、世界のどこであれ紛争というものに巻き込まれた若い人たちの体験と共通するものを多く持っている。
自分の体験談を語ることについての私の目的は、ここでの紛争についてより理解を深めてもらおうということではない。そうではなく、愛情にあふれた家族の中で育ったごく普通の子供が、暴力の人間になっていくのは何が原因なのか、そしてそれから、その人間が流血に背を向けるのに役立ったものは何なのか、ということに光を当てることだ。
私の個人的な経験は極端なものかもしれない。しかし、私の体験を形作った反応と、人間であれば誰でも有しているような日常生活の一部である反応との間には、共通のルーツがある。
多くの人々は、暴力の人間というものは、家庭が崩壊していたり機能不全だったりするから生まれるものだと考えている。確かにそういう人たちもいる。しかしそうとだけ考えていては全体像は何も見えない。特に紛争が、個人というより共同体に根ざしたものである場所ではそうである。
この本で、私はできる限り正直に、自分がなぜ殺しを行なったのか、そして刑務所での長い年月(筆者は12年の懲役を科された)から出所後の社会復帰、そして最終的に、国境を超えて、政治(的動機で発生した)紛争の被害者/サバイバーと暴力の加害者と一緒に取り組むようになったことまでの長くてつらい旅程を探った。
良い方向に、また悪い方向に私の進む道を決定した要素は複雑なもので、私はそれについてはっきりさせる努力をした。
結局、故郷が私の出発点だった。もし私が、北アイルランドではなく英国のどこかほかの場所に生まれていたら、私の体験は、この世に生まれ、生きて、家族や自分の属した社会のつながりを超えた部分ではその存在も知られず死んでいく何百万という人たちの体験と違わないものになっていただろう。
しかし、私は北アイルランドのラーガンに生まれたのだ。
……
上記引用部分の最後の「しかし (But)」のあまりの重さ――この「しかし」は北アイルランドの元武装集団メンバーのインタビューや回想などではよく見られるものなのだが、それでもこの人の「しかし」はとりわけ重い。それはおそらく、「ラーガン」という地名が引き起こす連想(3月に警官が射殺されたクレイガヴォンの隣で、「非主流派リパブリカン」の拠点で、3月の事件で容疑者として逮捕され起訴された人物の住む町)もあるだろうけれども。
本はamazon.co.jpでもカタログに入っている。
Give a Boy a Gun: One Man's Journey from Killing to Peace-Making Ruth Scott Darton, Longman & Todd Ltd 2009-02-16 by G-Tools |
共著者の方がアングリカンのプリーストということで、出版社はキリスト教の本を専門に出しているあまり大きくない出版社。これは私は買って読もうと思っている。
本に書いたことについて、リトルさんは次のように説明している。
当時の多くの人々と同じように、私が10代のときはこのコミュニティは暴力に取り囲まれていた。銃撃や爆弾が、この地域では毎日起きているといっても過言ではなかった。
17歳の時に、私はひとりの人を殺した。終身刑を受けられる年齢ではなく、私は無期刑でロングケッシュとHブロックで12年、服役した。
その間に、私は、暴力的紛争から離れる遅々としたつらい歩みを始めた。これには、自分の行為とその結果を見返すということと、私の進んだ道を形作った要素の複雑さを探るということが含まれていた。つまり、例えば同じコミュニティにいたほかの人たちが選ばなかったのに、なぜ自分は暴力という道を選んだのか。何が原因で、トラウマタイズされた若者のひとりは武器を手にとるようになり、別のひとりは暴力の行使から離れてゆくのか。
また、例えば、社会として私たちはいかにして紛争の遺産に取り組んでいき、二度と暴力が引き起こされることのないようにするのか、といったより広範な問題も。
私の体験はまだ完全に解き開かれてはいない。それを読み、また今週末放映されるFive Minutes in Heavenを見ていただければ、自分自身が体験したことだけではなく、自分と似た状況にあって距離的には遠く離れている他者の体験にも、光を当てるものだと思っていただけるのではないかと思う。
「個別」性というか、「唯一無二」性というものを重視するあまり、パースペクティヴを失ってしまってはならない、という内容の文を、私は北アイルランドについていくつか読んでいる。リトルさんのこのベルテレの寄稿は、そういった文の中でも最も力強いもののひとつだ。
本はamazon.co.jpを利用したりすれば誰でも買えるけど、ドラマは日本でも上映ないし放送してくれないと基本的にどうにもならないので、上映か放送を祈って待ちたい。(前にそういう主旨でブログに書いた映画 "This Is England" は日本公開されました。私が何かしたわけじゃないけど、こっちも頼む〜〜〜。)
ウェブ検索していたら、昨年11月にNHK BSで制作・放映されたドキュメンタリー、「憎しみを越えられるか 〜北アイルランド紛争・対話の旅〜」で、リトルさんがファシリテイターとして一行に同行していたということを、NHKのドキュメンタリーのコーディネイターをされていたダブリンのnaokoguideさんのブログで知りました。
少し引用させていただきます。
自身の体験を元にプロのファシリテーターとして活動するアリスターではありますが、北アイルランド紛争に深く関わってしまったひとりとして、未だ癒えることのない心の傷と日々闘っています。
自分の犯した罪は決して赦されない、赦しを請う資格など自分にはない…と言うアリスターの心の葛藤は、NHKのドキュメンタリーの中でも、被害者である男性との関係を通して伝えられていたかと思います。
リトルさんと直接面識のあるnaokoguideさんによると、ドラマ "Five Minutes of Heaven" では:
ニーソンによって語られるセリフは、まさにアリスターの言葉そのもの。アリスターの和解についての考え方、赦しについての考え方がそのままセリフになっており、まるで彼本人の話を聞いているようでした。
リトルさんの言葉から:
http://nofrills.seesaa.net/article/100847837.html
UVFに入った理由は、友達のお父さんがリパブリカンに(=IRAに)殺されたからだ。復讐をしたかった。お葬式にはまだ小さな娘さんもいた。脚を銃撃されていた。パパ、パパと泣き叫んでいた。次はうちの親かもしれない、と思った。そして14歳で、やり返す機会というものがもしあれば絶対にやり返す、と誓った。
人間は自分の言っていることが伝わっていないと感じたとき、あるいは自分自身が脅かされていると感じたときに、いとも簡単に暴力に走る。これは人間が、痛みや傷に反応するときのやり方だ。私が経験したのはそういうことだ。
……
自分のしたことの結果は、一日たりとも自分から離れたことがない。内的平和 (inner peace) という点では、自分が何を失ったのかはよくわかっている。もう一度あのときをやり直せるならば、ああいう行動は取らなかった。
けれども、自分には「許してください」などという権利はない。そんなことをすれば傷つけた上に侮辱することになる。ご遺族にまた新たな荷を負わせることになる。ほとんどの場合、許しを請うことは、加害者の必要のため、被害者や被害者の家族の必要のためではない。
そして、許すということができない、と言う人たちもいる。それは弱いからじゃない。怒りや負の感情に飲まれているからでもない。これまでに会った人たちの中にはどうしても許すということができない人たちもいた。でもそういう人たちは、起きたことによって自分が麻痺するということも許していない。つまり、人間として、修復できないくらいに深く傷ついてしまった、ということだ。そういう人たちにも許すべきです、などとはとてもじゃないが言えない。
残念なことに、和解や許しは政治化されてしまっている。自分にとってはもう価値を持たなくなってしまった。
なお、NHK BSのドキュメンタリーは、人に頼んで録画してもらったのが手元にあるのですが、精神状態が落ち着いているときじゃないと見られないと思っているうちにイスラエルによるガザ攻撃が始まり、それがある程度落ち着いたと思ったらグアンタナモに入れられていたビンヤム・モハメドさんから「英国の情報機関は拷問に関わっている」という告発があり、その後英国政府と米国政府の間でものすごい情報戦になって、それが進行しているときに北アイルランドで英軍基地襲撃と警官射殺があり……精神状態が落ち着いているとか関係なく見ないとダメですね。(^^;)
あわせてお読みください。
2007年05月04日 UVFのビリーの物語。
http://nofrills.seesaa.net/article/40732470.html
ビリーは東ベルファストのワーキングクラス・プロテスタント地域で生まれ育った。その地域で育つこととは、ロイヤリズムを吸収することだった。彼は10代で UVFに加わった。UDAを選ばなかったのは、「UDAはあまりに大きすぎると思われた」からだった。(UDAは、各地域でそれぞれ自発的にできた「自警団」みたいな組織を全国組織みたいにまとめたもの。)親には秘密にしており、電話に出るのでも出かけるのでもいつも「ちょっと」みたいな言い方をしていた。「自分は親にうそをついている」と心理的な重荷をビリーは感じていた。
UVFに加わって戦闘訓練は受けていたものの、特に実際に活動することもなく、彼はだんだんと組織から遠のいていった。ほかの多くのメンバーもそんな感じだった。ビリーは仕事をし、時々は職場の友人を家に連れてきてお茶を飲んだりビデオを見たりもしていた。特にセクタリアンな考え方の持ち主ではなく、その友人はカトリックだった。
だがあるとき、教会の日曜学校の女性の先生(暴力には無縁)が、リパブリカンによっていきなり後頭部に1発ぶちこまれるという形で殺される。この事件でビリーはUVFに戻った。ほかにもそういうメンバーが何人もいた。時期は1980年代、81年のリパブリカンのハンストで、IRAが勢いを得ていたころだった。
UVF は、日曜学校の先生の射殺の報復を計画する。報復なのだから、殺された先生と同じように、暴力には無縁のカトリックを殺さねばならない。話し合った末、ビリーたちUVFの活動家はターゲットを決めた――ビリーが時々自宅に招いていた、職場のカトリックの友人がターゲットに選ばれた。
計画を練っていたとき、ロイヤリストの大物がINLAによって射殺された。その報復を一刻も早くせねばならない、とUVFの指導部は決めた。ビリーたちの報復の予定は繰り上げられた。
ビリーは職場の友人を、いつものように、車に乗せた。……
タグ:北アイルランド
※この記事は
2009年04月05日
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1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。
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こちらのページは、北アイルランド関連のことを調べていて行き当たり、拝見させていただいたことがありました。当地に住んでいる私よりも情報が早く(!)、しかも適切な日本語で表現してくださるので、感心すると同時に参考にさせていただいております。ありがとうございます。
アリスターのインタビューは、tnfukさんの日本語訳を読ませていただき、より力強さを感じることが出来ました。Five Minutes of Heaven、日本でもなんとか上映されるといいのですが…。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
アリスター・リトルさんの言葉は、何と言うか、読んでしまったらそのままにできない何かを強く感じます。読んだだけで終わらない、というか。
東京では昨年(2008年)「北アイルランド映画祭」が行なわれ、『眠れる野獣』、『オマー』といったBBC NI制作のドラマも上映されました。それから、カンヌで受賞した『Hunger』は東京国際映画祭で上映されました。同様の展開を期待して、念を送っています(でもどこに)。