「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=


2009年04月02日

英国でのTwitter――ガーディアンの例と首相官邸の例

毎年恒例の「スパゲッティの収穫」で、今年のガーディアンは「本紙はTwitterに移行します!」という記事を出していたが、実際にこの新聞は、冗談記事を出したその日にG20サミットに対する抗議行動をTwitterで中継してウェブ版に掲載するなど、Twitterというものを活用している。(ついでにいえば、冗談記事の次の日はロンドン東部のサミット会場からTwitterだった。)

報道でのTwitterの利用というと、例えば昨年のインドのムンバイでの武装グループの襲撃事件のときに、現場にいた人たちのTwitterでの発言を「現場の声」的に報じた例があるが、結果から見れば、「断片的な情報がたくさん集まっても全体像は見えない」という感じだったようだ。

一方で、今回のG20などでのガーディアンのTwitter利用は、複数の記者を現場に送ってそれぞれの記者のTweetをそのまま「放送」するという形で、エイプリル・フールの記事にあったようなふざけた調子ではなく、「記者のメモ」が並んでいる、という感じになっている。こういうのをリアルタイムで読んでいると「スポーツの実況」のような感じがしてきてとても居心地が悪く感じられるのだが、後からログとしてまとめて読むとまた違う。

当初は例によってお祭りっぽくしていた抗議行動だったが――人が集まって音楽をかけたり太鼓を叩いたりして自分たちの存在を示すというもので、太鼓パレードの様子などは、背広姿のシティのビジネスマンも「やかましいのは困るけど」と言いつつ、リラックスして眺めていた(ガーディアンとロイターの映像や、Londonistなども参照)――、それが徐々に緊張したものになっていく様子が、「個人の目」から描写されている。記者がインタビュー取材した人のコメントもTwitterに流されているので、現場がどういうものだったのかはある程度は立体的につかめ、新聞記事では感じることのできない「時間の流れ」が非常に力強い。

というわけで、ガーディアンの「エイプリル・フールのジョーク」は、4分の1くらいは現実に即したものだったからこそ面白かったのだが、最近、英国メディアでは「バブル」と言いたくなるほどにTwitterが話題になっている。本当に、「わしゃネットやらんもんで知らんのだわ」というおっちゃんでも、Twitterという単語くらいは知っているのではないかという気がするほどに話題になっている。3月末には、「ある大学がTwitter学位」みたいなことが(ややセンセーショナルに)話題になったばかりだ(バーミンガム・シティ大学の社会メディアのMA過程では、Twitter, Facebook, Beboなどを使うことを教える、という記事。それで学費£4,400だって。1年の過程)。(なお、Beboというのはアイルランド島とブリテン島で若い世代がよく使っているSNSで、芸能人とかテレビドラマとかいった話題で3行以内の投稿できゃあきゃあやっている感じ。ただ、北アイルランドではまた違ったものになってることがクローズアップされるんだけど、それは別のお話。)

……とかいうことだけを書いておくのも「最近の若い者は」みたいで落ち着かないので、もうひとつ具体例。

英国では、首相官邸がTwitterの利用にとても積極的だ。

自分がこのtweetを読み始めたときは、プレスリリースの要約のような感じだから首相官邸のサイトが機械的に反映されているんだろうなあ、と思っていたのだが、あるときDowningStreetが「@username」で返信していたので、担当者がいるのだと知った。(このときは返信をもらった人もびっくりしたみたいで、「中の人いるんだwww ごめん、知らなかった」、「はいはいー。ちなみに私の名前はトニーです」みたいな短いやり取りが続いた。)今日4月2日の担当者はIanさんだ。

DowningStreetのtweetは、たいがいはプレスリリースっぽくて退屈なのだが、ときどきどうでもいい小話が飛んでくるのがおもしろい。3月27日には、ブラウン首相がブラジル訪問時にサッカー博物館に立ち寄ってソクラテス(あのソクラテスではないほう)と一緒に、ペレのユニフォームを見ている写真がアップされてますよ、とかいう、実にどうでもいい投稿がある。(ていうか握手してシャツもらったりしてるし。)あと、官邸Twitterから別のユーザーさんへの返信で、「10番地の『0』の向きが変なんですけど」という世間話をしていたり。(官邸のTwitter番、いい仕事だよなー。こうやって「コミュニケーション」するのが仕事なんだもん。)

この首相官邸Twitterは、フォローされるとフォローしかえしてくれる。つまり首相官邸Twitterを読んでいる人の発言は、官邸の担当者さんに伝わる、ということになっている。担当者さんはけっこうマメにレスを返しているようだ。ちなみに、私は日本人だし東京在住だし、投稿の多くは日本語だし、官邸からフォローしかえしていただいても意味ないんですが、ダウニング・ストリートにウォッチング・ユーされています。

さて、1日はG20での抗議行動がかなり大変なことになってしまっていたのだが(かなりheavy-handedな警官多数と少数の過激な人たちがガチガチやりあい、やがて流血事態となっていたときに、抗議行動参加者の男性がひとり倒れて、病院に運ばれたが亡くなった。外的要因によるものではなく自然死だとのことだが)、一方であの「セレブリティ・シェフ」がG20首脳にスコットランド産オーガニック・サーモン、地産の野菜やラム肉などのディナーを、という予定になっていて(ベルテレに言わすと「Oliver's armyが料理担当」)、首相官邸Twitter番のIanさんはジェイミー・オリヴァー宛てのメッセージを投げて国民の心をくぎづけにしたりして、そして一日の締めくくりに「さて、ディナーが終了し今日はこれでお開きです」といったことを投稿している。

それに対し、あるユーザーさんが、「@downingstreet」つきで、「はいはいそうですか、指導者の愚行のせいで食うに食えない人がいるというときに、セレブリティ・シェフをお迎えしてお食事ですか、エリートさんたちはいいですねぇ」的なことをつぶやいた。

首相官邸のIanさんは翌朝、そのユーザーさんに返事をしている――「ジェイミーによると、食事は1人当たり£12.50です」と。しかも「おはようございます」の挨拶の前に。たぶん、出勤してコンピュータを立ち上げてすぐに書いたんだ。よほど「これだけは言っておかねば」と思ったのだろう。



£12.50か……Fifteen(レストラン)でジェイミーに作ってもらって、VATが加算されるといくらになるのかな。ていうか、セレブリティ・シェフが作ろうが、私が作ろうが、材料費は同じ。(^^;)

なお、ジェイミー・オリバーは夫人が今にも出産しそうだという状態にもかかわらず、この仕事は弟子に任せずに自分でやるということで出てきたのだとか。インタビューで「英国の食べ物のよさを知ってもらいたい」と言っていた彼は、英国メシマズ伝説をデコンストラクトするためにほんとに力を尽くしているのだと思う。

ジェイミーのスクール・ディナー DVD-BOXジェイミーのスクール・ディナー DVD-BOX
TVバラエティ, ジェイミー・オリヴァー

ジェイミーのグレート・イタリアン・エスケープ DVD-BOX ジェイミー’s キッチン DVD-BOX ジェイミーのラブリー・ダイニング Season2 DVD-BOX ジェイミーのラブリー・ダイニング Season1 DVD-BOX ジェイミー・オリヴァーのハッピー・デイズ・ライブ! [DVD]

by G-Tools

※この記事は

2009年04月02日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 23:00 | TrackBack(0) | todays news from uk | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

この記事へのトラックバック

【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

……全文を読む
▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼