「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2009年03月17日

「非主流派リパブリカン dissident republicans」についてのメモ (3) ―― 聖パトリックの日に

http://www.belfasttelegraph.co.uk/今日はセント・パトリックの日(右の図は、ベルファスト・テレグラフの聖パトリックの日の特別仕様のロゴ。kwoutでキャプチャ)。この日にあわせて、例年のごとく数日前から訪米中のアイルランド島(アイルランド共和国および北アイルランド)の政治指導者についてのニュースがあれこれ伝えられる今日この頃、警官殺害事件で逮捕者が出て非常に緊張が高まっているラーガン (Lurgan) では、St Patrick's Dayのパレードが中止されたそうだ。

英軍基地襲撃と警官射殺の2つの事件での逮捕者は、現時点で11人(英軍基地襲撃、つまりReal IRAのほうで4人、警官射殺、つまりContinuity IRAのほうで7人)。逮捕された人々のなかには、北アイルランド紛争時代の「リパブリカン闘士」の名前が含まれている。それについては別項(この次にポストするもの)に書く。


昨晩それを書きながら(そして書き上げる前に疲れてしまったのだが)ネットラジオで音楽を聴いていたら、MuseのAssassin(←リンク先、画面がちかちかします)がかかって、あまりのタイミングに笑うしかないというか。(この曲の背景はNI紛争ではないのだが。)
Black Holes and RevelationsWar is overdue
The time has come for you
To shoot your leaders down
Join forces underground

...

Oppose and disagree
Destroy Demonocracy

Lose control
Increasing pace
Warped and bewitched
Intend to erase
Whatever they say
These people are torn
Wild and bereft
Assassin is born ...

―― Muse, "Assassin"


それから、NuzHoundで知ったのだが、15日のSunday Life(ベルファスト・テレグラフの日曜だが、ベルテレと違って完全にタブロイドで、軸足は「プロテスタント」側)に、Real IRAについて非常に詳しい記事が出ている。ラーガン在住の、RIRAのナンバー2で武器調達の担当者(今回の襲撃事件とは別の件で告訴されているみたいだけど)を中心に、非常に多くの人名が出てくる記事で、Sunday Lifeだから少し割り引いて読むとしても、こんなのはBBCでは読めません、という感じ。

なお、Real IRAの武器調達に関しては、これまでの数年間に何度かBBCでも報じられていたが(摘発など)、主に東欧(特にバルカン)から来ているようだ。

※この記事は

2009年03月17日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼