「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2009年03月16日

「非主流派リパブリカン dissident republicans」についてのメモ (2) ―― 英国政府の見方(ジョナサン・パウエル)

7日以降、ヘッドラインやアラートに、British soldiers killedとあるとものすごくどきどきするようになった。それまでは、同じ文字列があっても「ヘルマンド(アフガニスタン)がひどいことになっているのでは」と思いこそすれ、正直なところ、読み流してしまっていた。それが7日以降は、まさかまたああなっていくんじゃないだろうなという懼れがどんなに少しであれ、あることはあるから。

さて、少し前の記事だが、10日付のガーディアンのウェブサイトCiFから、ジョナサン・パウエルの文章。

These criminals can't hold the peace process hostage
Jonathan Powell
Tuesday 10 March 2009
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2009/mar/10/barracks-attacks-peace-process

記事に行く前に……パウエルはブレア政権での北アイルランド和平の中心人物で、2008年3月にはその内幕を詳細に書き綴った手記を刊行している(私は未読。読むタイミングを逃したなと少し後悔している……のだが、4月にペーパーバック化されるのね。買っとくか)。

Great Hatred, Little Room: Making Peace in Northern Ireland
Great Hatred, Little Room: Making Peace in Northern IrelandJonathan Powell

Vintage 2009-04-02

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さて、CiF記事。

アントリムで英軍基地が襲撃される前日の金曜日、パウエルはベルファストで、北アイルランド警察トップのサー・ヒュー・オードら治安当局の高官と会って、北アイルランド和平プロセスから世界各地の紛争にとって教訓となること (the lessons to be learned from the Northern Ireland peace process for conflicts elsewhere in the world) について話をしていた。その結びとして、「紛争」は終わったのだと宣言するのは早すぎるだろうか、という修辞疑問を使った(つまり、「いや、早すぎはしない」と言った)。ジェリー・アダムズとマーティン・マクギネスのシン・フェインの方針に異を唱える非主流派のリパブリカンがいて、活動していることは、パウエルはもちろん把握していたが、それでも、治安当局の間で非主流派リパブリカンによる死者が出ないことを祈る、と言い、そうなった場合は大変な悲劇になるにせよ、当局が間違った反応をしない限りは、政治的にはさほど大きな事態にはならないだろう、と語った、という。

その「仮定」が(彼はその部分について仮定法で語っている)、次の日には現実になった。それについてパウエルは「まったく考えてもいなかったこと」だ、「予想外 unexpected」だ、と書いている(英軍特殊部隊SRRを投入するという北アイルランド警察の決断が、パウエルの頭の中でそういう予想につながらなかったとは私には思えないのだけど、「まさかこんなに早く」というのはあったのだろう。そのへんはパウエルの文章は解釈の余地を残している)。そして、犠牲者のご家族や友人に対する言葉に続けて、「それでも、金曜日に言った通り、政治的に大きな意味は持たないと考えている」と述べる。

the heartless murders have no political significance and do not mark the "rebirth of the Troubles", as some newspaper headlines would have it. My worry remains, however, that our reaction might make the deaths a turning point they do not need to be.

あの冷酷な殺人者たちには政治的な意味などなく、彼らの行動は、いくつかの新聞が見出しにしているような「紛争の再発」にはならない。しかしながら、本当は彼らの死によって大きく事態が変わる必要性などないところで、こちら側の反応が彼らの死をターニングポイントにしてしまうかもしれないという懸念はある。


パウエルはこのあと、基本的には、「リパブリカンのことはアダムズとマクギネスのシン・フェインに任せましょう。彼らはこれまでうまくやってきたのですから」と述べている。そして、Real IRAやContinuity IRAといった分派には政治的な影響力はなく、人々から支持もされていないのだから政治的なマンデートもないと強調し、彼らの殺人は、政治的な行動ではなく、ただの殺人である、と述べている。

その上で、英国政府側の対応によっては、彼らに政治的いな意味を与えてしまう、と警告している。(このあたりは、パウエルはアイルランドの歴史を踏まえて話をしているのだということがよくわかるが、それ以上に、この文章の冒頭にあった「NI紛争が世界各地の紛争にとって教訓となること」という、これとは別のコンテクストがあることも、また興味深い。この文章の少し後のほうには中東紛争への言及がある。)

What turned the Easter Rising in 1916 into a mass movement for independence in Ireland was the reaction of the British government. The bloody way in which it was suppressed, the mass imprisonment of innocent people and the imposition of conscription helped propel the Irish nation into opposition and spelled the end for constitutional nationalism. It is always the repression of terrorists that leads to sympathy and support for them. And terrorists know that provocation will work. Terrorist atrocity is followed by reprisal, and then by counter-reprisal, which leads to full-scale conflict.

1916年のイースター蜂起を、アイルランドでの大きな独立運動にしたのは、英国政府の反応であった。蜂起は大きな流血を伴うかたちで鎮圧され、罪のない人々まで大勢が投獄され、徴兵制が導入された。これによってアイリッシュ・ネイションが(英国にとっての)反体制に周り、それまでのコンスティテューショナル・ナショナリズム(<アイルランド自治法を参照)を終わらせてしまったのである。テロリストへの共感と支持を呼ぶのは、常に、テロリストに対する弾圧である。そしてテロリストは、挑発はうまく作用するということを知っている。テロ事件があり、報復が続き、そしてさらにそれに対する報復があり、このようにしてフルスケールの紛争が生じる。


このように書いたあとで(つまり、「軍事的」に「過剰」な対応は愚策だ、と書いたあとで)、パウエルは、非主流派リパブリカンについてメディアがさかんに書けば相手の思う壺だ、とクギをさす。彼らはまったく重要ではないのだから、過剰な報道をすべきではない、と。そして、アダムズとマクギネスのシン・フェインはリパブリカン・ムーヴメントを束ねておかねばならないのだから、彼らにとって微妙な部分についてあれこれ詮索して彼らの仕事を難しくすることはやってはならない、と。

そして最後に、1998年のグッドフライデー合意の数ヵ月後に起きたオマー爆弾事件に言及する。オマーは和平プロセスの息の根を止め、「紛争」を再開させる可能性もあったが、北アイルランドの人々がオマーで車爆弾を爆発させた一派(Real IRA)を「dissidents 反/非主流派」と見なし、和平推進への支持をますます固めたことで、そういう展開にはならなかった、という例を引いている。

オマー爆弾事件については、BBC制作のドラマ『オマー』のポール・グリーングラスの言葉を――以前にも引用したが――見ておきたい。

http://www.guardian.co.uk/theobserver/2004/may/09/features.review17
'Omagh and Bloody Sunday are for me two events that bookend the Troubles,' he says. ... 'There were many terrible and meaningful events in between, but Bloody Sunday was the moment at which the tide towards conflict became inevitable. It seemed to sum up several generations of injustice in one afternoon. And so there was a tacit consent in Northern Ireland for violence. And Omagh was the point at which that was reversed, when the tide to settlement became irreversible.'


実際、Real IRAとかContinuity IRAといった組織にいる人々について、dissidentという形容で語ること自体が、「公平」とはいえない――hard-coreとかold-schoolとかanti-agreementと言ってもよいのだから。(1921年のアイルランド内戦の一方が、anti-Treaty IRAであったように。)

で、そういった人々について、「ごく少数である」という話が、日曜日、一斉に報じられた。北アイルランド警察(PSNI)トップのサー・ヒューが、BBCのインタビューで「全人口(約170万人)中、300人程度である」と述べ、本当にごくごく一部なのだ、と強調した。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/northern_ireland/7944544.stm

サー・ヒューのこの発言の前、IMCの報告書に基づいて書かれていた記事には(どれなのかを今さら探す気にはなれないけど、ブクマはしてある)、「100人」とか「200人」といった数値が出ていた。私もIMCの報告書でそういう数値を見たことは覚えている。

100人だろうが200人だろうが300人だろうが、「ごくごく一部」であることは間違いない。ものすごく大雑把に、NIの人口170万人の半分がナショナリストとしても(←とても不正確ですが概算なので)、85万人中の300人だ。

とあれば、ジョナサン・パウエルの見ている/描写しているとおり、「政治的にまったく重要性はない」のは事実だ。というか、「政治的」に物事を見たり考えたりしている人々は、あのような手法には見向きもしていない。

問題は、そうでない層がいる(数としてどのくらいなのかはまったくわからないけれども)、ということだ。その点について、非常に暗い気分になる記事をいくつか読んだが(マーティン・マクギネスがすごい言葉を使ったからなあ……)、とりあえず、それらははてブからどうぞ。"Northern Ireland/dissident republicans" のタグで、2009年3月15日から16日にブクマしています。
http://b.hatena.ne.jp/nofrills/Northern%20Ireland/dissident%20republicans/

※この記事は

2009年03月16日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼