「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2009年03月09日

安心しろ、どのIRAだかわかんないのは君だけじゃない、と言ってもらいたい気分のときに読むべきもの(なのか?)。

(日本時間の)朝になってスラオさんにつながった。そして最新の記事を読んで……お茶ふいた。

Sunday, March 08, 2009
"it was the most irresponsible bit of filmmaking"
http://sluggerotoole.com/index.php/weblog/comments/it-was-the-most-irresponsible-bit-of-filmmaking/

話題は、日曜の夜にチャンネル5で放映が予定されていた映画『デビル The Devil's Own』が差し替えられた、というもの。映画は、Provisional IRAのメンバー(ブラピ)が武器調達の任務で渡米し、ニューヨークの警官(ハリソン・フォード)の家に居候して……という筋書き。ブラピが演じた「IRAのテロリスト」はちゃんと「人間」として描かれていたということだけは印象に残っているけど、全体的には構成が「映画」というより「2時間ドラマ」で、日曜の夜に見るにはいいかも、と私も思うのだが、土曜日に北アイルランドで英兵が2人射殺されるという事件があったばかりでは、この映画の放映は憚られたらしい。というか、「北アイルランドで英兵が殺された」=「IRA」の連想はどうしようもないよね。

これだけなら何ともいいがたい「苦笑」で済むのだが、Sluggerのオチが:


Obviously viewers might have been confused about which IRA was involved..

「もし放映していたら、どのIRAの話なのか、見ている人は混乱していたかも」って。

(今回英兵を殺したと犯行声明を出しているのは、Real IRAです。オマー爆弾事件やロンドンのMI6本部攻撃、イーリングのパブでの爆弾攻撃などでおなじみの。Real IRAは、Provisional IRA、つまりいわゆる「IRA」の分派で、別の組織です。)

しかもSluggerのリンク先が、2月のジェリー・アダムズのインタビューですが、2:10くらいからのやり取りが何を言っているのかわからなくて(この場合は北アイルランド弁のせいではなくて、you know the truthじゃねぇだろ、的に)、リンク先のSluggerのエントリのコメント欄もすごくて、お茶ふきつくしました。あーあ。

※この記事は

2009年03月09日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼