「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2009年03月04日

「彼らは私たちに命じました、誰も残すな、全員を殺せ、と」――ダルフール、脱走兵の証言

【追記】この件に関して、記事は3月5日のはてなブックマークに

国際刑事裁判所(ICC)が、ダルフール紛争に関して、スーダンのオマル・アル=バシル大統領に逮捕状を出すか出さないかをまもなく発表する(→アップデートあり。エントリ末尾参照)、というタイミングで、BBCのマーク・トムソン記者が、ダルフールにいた元スーダン軍兵士にインタビューした記事を書いている。1:22の映像つき。取材場所は資料室のようなところで、記者の質問に答えている元兵士はアラビア語で応じている。

Confessions of a Sudanese deserter
Page last updated at 00:48 GMT, Wednesday, 4 March 2009
http://news.bbc.co.uk/2/hi/africa/7921311.stm

「暴力の現場にいた人」の声のひとつだ。それも、暴力を行使する側に。卵を壁に投げつけていた側の、あるいは壁そのものの一部であった人の声。Another brick in the wall, というか。

記事を読みながら、ダルフール紛争が最も広範に報じられていた時期(2004年、ファルージャ包囲戦の時期からしばらく後)に見た「燃やされた村」の写真や、自分の家から逃げ出した「難民たち」の写真といったものが思い出された。特に、難民キャンプで人々に囲まれて、子供を脇にかかえ、ただ空虚な目でカメラを見つめる母親の写真が鮮明に浮かんできたのだが、画像検索しても「これ」だと確信できる写真が見つからない。Getty Imagesのこの写真だったかもしれないけれど、室内じゃなくて屋外で、人々の服の色がとても鮮やかだった気もする。この写真かな……でも画面内にもっと人がいたと思う。

そのときに自分が見た写真すらもはや探せなくなっているけれど、何というかその写真は、人間が「表情をなくしている」状態で、さらに、自分ならこんな色のものを身につけたらそれだけで明るい気分になるのに、という色のギャップで強く印象に残った一枚だった。

……と過去形で書いているのが申し訳ない。ダルフールの暴力は現在も進行中だ。でもダルフールの現在進行形の暴力が、BBCのトップページの記事になることもなくなっている。映画『ホテル・ルワンダ』でのジャーナリストの一言にあったように、「テレビを見てひどいことが起きているわねと言って、あとは日常生活」なのかもしれないし、むしろ、毎日「ひどいことが起きているわね」と言うべき話が次から次へと出てきている、ということかもしれない。(自分としては後者だと思う。)

ともあれ。

BBCの記事は、ハリドさん(仮名)という元スーダン軍兵士へのインタビューである。

記事にある説明から、彼は民族的にはアラブ系ではなくアフリカンで、2002年の末に住んでいた場所からほかの数人とともに、ダルフール地方北西部のファシャー (Fasher) という街の近くにあった軍司令部に連れて行かれ、兵士として強制徴用された。そしてその後、ジャンジャウィードの支援を得て行なわれたスーダン軍の攻撃に7度、参加した。彼は女の子をレイプし、村人を殺し、家を焼いたスーダン軍の一員だった。

記事から:
「私たちに下された命令は、村々を完全に焼き払え、というものでした」と彼は言う。

「井戸に毒を入れることまでしなければなりませんでした。それから、女性は全員殺し、13歳、14歳以下の女の子たちは犯せ、という命令も」

……中略……

自分に下された残忍な命令を実行するのは非常に気の進まないことだった、と彼は述べる。

「女の子を犯せと言われ、足を進めてその子の前に立ったのですが」と彼は言う。

「私の目に涙がこみ上げてきました。彼ら(スーダン軍)は『女を犯せ。やらないのならお前を殴打することになる』と言いました。それでもためらっていると、ライフル銃の台尻で叩かれました」

「しかし、女の子のところまで行っても、私はどうしてもできなかったんです。私は彼女を部屋の隅に連れてゆき、彼女の上に乗って、10分か15分ほど、あたかも犯しているかのようにしていました」

「それから立ち上がって、戻りました。彼ら(軍)は『やったのか?』と言いました。私は『はい、やりました』と答えました」

ハリドの話では、そのすぐ後に彼と兵士たちは基地に戻ったという。

基地に戻ると、彼はまたすぐにパトロール隊に加わるよう命令された。

これを拒むと彼は殴打され拷問された。彼は両脚や背中にひどい火傷を負った。

この傷のために、彼は5週間を軍の病院で過ごした。

そしてほどなく、ダルフールの村々に対する残忍な襲撃に加わるよう命令されたのだという。


2008年6月、国連安保理が決議1820号を採択し、強姦を「戦争犯罪」と位置付けた。強姦が組織的に、戦争の「武器」として用いられるものだということがフォーマルに認められた。ガーディアン記事から。
Resolution 1820 doesn't just say rape is a bad thing. It says that crimes of sexual violence committed during conflict, particularly those committed systematically as a weapon or tactic of war to terrorise, humiliate and wipe out or forcibly relocate whole communities, prolongs, deepens and promotes conflict.

決議第1820号は、レイプは悪いことだと言っているだけではない。紛争期間の性的暴力、とりわけ恐怖を巻き起こし、コミュニティ全体を辱め消し去り、また強制的に移住させるための武器ないし戦術として組織的に用いられる場合の性的暴力の罪は、紛争を長引かせ、深刻化させ、促進するものだ、としているのだ。


ハリドさんがそういうことを考えて、女の子を犯しているふりをしたとは思わない。単に人として、どうしてもできなかったのだと私は思う。

なお、その女の子がどうなったのかはこのインタビュー記事には書かれていない。

さらに同じ記事の下の方から:
私は、いかなるようにも抵抗しなかった非武装の民間人にどんなことをするよう命令されたのですか、と尋ねた。

「彼らは私たちに命じました、誰も残すな、全員を殺せ、と」と彼は答えた。

「子供でさえも、小屋に残っていたら、私たちが殺さなければなりませんでした」と彼は言う。「人々は泣き叫んで小屋から逃げ出していきました」

「子供を全員は連れて行けなかった人も大勢いました。子供が2人以上いれば、(一部は)残していくよりなかったのです。そして見つけたら、撃ち殺さなければならなかった」

ハリドは、自分自身は民間人の頭の上方に向けて銃を撃ったので、殺せという命令はあったが実際には自分は誰も殺していない、と主張している。

彼は、同じ隊の兵士たちに気付かれることなくこれができたと言うが、人々の家に放火せよという命令は実行する他はなかった、と認めている。

「私も参加しました」と彼は言う。「強制されたのです。選択の余地などなかった。やらなければ自分が彼らに殺されていたでしょう」

誰か拒否した者がいたのですか?

「同じ隊の者が2人拒否しましたが、射殺されました」


2002年に強制徴用されたハリドさんは、2003年に軍から脱走し(ということは、彼が語っている状況は、西側メディアでダルフールのことが広く報じられるようになる前のもの、「紛争」がひどくなった頃のものだ)、現在ではスーダンを離れているという。だからこそBBCの記者にこのような生々しい話ができるのだが、こうして話してしまったことで、二度とスーダンに戻れなくなってしまったかもしれない、そして、ICCがスーダンの大統領を逮捕した場合に自分に証人として出廷要請がくるかもしれないのが心配だ、と語っているそうだ。

その関連のやり取りで、BBC記者は職業的な残酷さでハリドさんに非常に重たい質問をしているのだが、そこはBBCの記事でお読みいただきたい。

それとは別の箇所:
私は、スーダン軍将校がいかにして、冷酷にも非武装の民間人を殺すことを正当化していたのかを尋ねた。彼らはどのように、女性や赤ん坊、子供たちを殺す必要性を説明していたのか?

ハリドは答えた。「連中が、反乱勢力に食料や水を持って言っているんだ、ということでした」

「これらの人々を殺し、村を焼き払えば、反乱勢力は補給を全く受けられなくなって、隣国に脱出するしかなくなる、という話でした」


この内容に、BBC記者は何も書き添えていない。書き添えていないけれど、軍が兵士にしたこの説明の内容がとんでもないものであることは自明だ。

記事の最後で、ハリドさんは次のように述べている。
「トップはオマル・アル=バシルです」と彼は言った。

「ジェノサイドの、子供を殺したことの、すべての責任者の筆頭は彼です。彼が『私が手を下したわけではないし、知らない』などと言うなど、ありえない」

「国家の首長であれば、兵士の犯した犯罪すべての責任を負うことになります。これらのことをすべて行なったのは、バシルなのです」


私の脳裏に浮かぶのは……こういうのとか、こういうのとか……これ以上はやめときましょう、気分が悪くなるだけだから。



追記@5日午前1時45分
スーダンのバシル大統領に対し、ICCが逮捕状を出しました。BBCのウェブサイトが特大のトップニュースとして伝えています。



記事へはキャプチャ画面内からリンクしています。

キャプチャ画像の右上にあるのは、米英首脳会談のために訪米中のゴードン・ブラウン首相が米議会で演説するのがライヴでテキスト実況されている記事へのリンクです。ついでなので、それも入るようにキャプチャしておきました。

ガーディアンではブラウンの演説がトップ扱いです。





【追記】この件に関して、記事は3月5日のはてなブックマークに。上で言及した「脱走兵」の人の別のインタビュー(@ガーディアン)もブクマしてあります。

※この記事は

2009年03月04日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 22:47 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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