「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2009年02月01日

【ガザ攻撃】「あなたたちには未来があるじゃないかと言ったところで、そうだねと思ってもらうにはどうしたらいいのでしょう」――ハテムさんの支援活動日記、1月30日分

国際支援組織「イスラミック・リリーフ」のハテム・シュラブさんの支援日記、1月30日の分です。

Aid worker diary
http://news.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/7802295.stm

彼の日記は、「イスラミック・リリーフ」のサイトにもアップされています(文面は基本的にBBC掲載のものと同じ)。
http://www.islamic-relief.com/Emergencies-And-Appeals/emergency.aspx?emID=47

一読して、これまでで最も淡々とした日記だと思ったのですが、これまでで最も重い内容の日記でもあると思います。

ガザ:1月30日

支援ワーカーとして、よい方向への変化を促すことと人々を支援することは非常に重要なことです。それが、私たちの仕事の根幹をなしています。

「イスラミック・リリーフ」は人々が命をつなぐために必要としている基本的な品物を配達してきました。食料や薬、毛布などです。人々は私たちが届ける食料の箱などを受け取ると、嬉しい、ありがとうと言いますが、私たちにはその人たちの家族や友人を生き返らせることはできません。それができればどんなによいかと思いますが。

ジャバリヤ難民キャンプで同僚たちと一緒に支援物資を配っているときのことです。私はモニールさんという人に会いました。モニールさんは、食料と台所用品セット、衛生キットと毛布の入った箱を受け取るための列に並んでいました。彼は耳が聞こえません。家は破壊されてしまったそうです。彼に残されたのは、今着ている衣類だけ。自分がどういう状況にあるかを私に説明しようとして、モニールさんは泣いていました。

ガザではほとんどの人たちが、少なくとも、言葉で苦しみを言い表すことができます。しかしモニールさんにはそれはできない。モニールさんは、この1ヶ月で私が会った非常に大勢の人たちと同様に、私にとってずっと忘れられないほどの印象を残しました。彼と別れるときはたいへん心が重かったです。この人はどうやって喪失を乗り越えるのだろう、どうやって人生を立て直すのだろう、と考えて。

それから、イスラミック・リリーフが支援している親を亡くした子供たちの1人、14歳のサナが、家を破壊されたということを今日知らされました。サナと話をしましたが、彼女がどれほど絶望しているかがはっきりわかりました。先日までのガザ地区への軍事侵攻の間に、彼女はお父さんと弟を含む家族3人を失いました。その前から彼女の一家は貧しかったのですが、今は家までも失って、赤貧にあえいでいます。

サナとそのお母さんの心をよぎるのは何でしょうか。そして、サナ母子と同じような境遇にある人たちの心をよぎるのは。この人たちは、最愛の家族を失って、さらに家までもなくしてしまっているのです。将来はもっと違うものになるよと、あなたたちには未来があるじゃないか、と言ったところで、そうだねと思ってもらうにはどうしたらいいのでしょう。これこそが、ガザ地区での最大の課題のひとつです。人々に、この先は状況が変わっていくと思ってもらうことが。


2002年にエルサレムを訪れていたシェリー・ブレア(トニー・ブレア夫人)が、自爆攻撃の直後に、"As long as young people feel they have no hope but to blow themselves up, we're never going to make progress, are we?" (自爆するより希望がないと若い人たちが感じている限りは、前進できないのではないですか)と述べたのが大きな怒りを買ったことがあります。
http://en.wikipedia.org/wiki/Cherie_Blair#Controversies

シェリー・ブレアの発言は場所とタイミングが悪かったのかもしれないけれど、言っている内容は、広く共有されている普遍的な問題意識ではないかと思います。

「人々の直近のニーズを満たす」という支援活動の現場から、常に「支給される物資」に頼るほかはないというひどい立場にある人々と毎日直接会って話をする中で、ハテムさんは先日の日記でも、「希望」という必要不可欠なものについて述べていました。
ガザ:1月28日

Esaのような子供に、君には未来がある、君は重要なひとりだ、ガザはまた、希望と幸福の場所になる、ということを世界が示すことは、決定的に重要です。
http://nofrills.seesaa.net/article/113381515.html

※この記事は

2009年02月01日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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