「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=


2009年01月31日

Free DerryがFree Gazaになり、あのハンカチがMuseum of Free Derryに

1月30日ということで、ミッチェル特使の件とかああだこうだ考えつつ、いまごろ見つけた。2009年1月5日のインディメディア・アイルランド。
http://www.indymedia.ie/article/90444
freegaza-500.jpg
※普段のこの壁:
http://en.wikipedia.org/wiki/File:Derry_mural.jpg

コメント欄に、「GNNの人の仕事だよ」という投稿がある。(GNN, やるなぁ。)
http://dissident.gnn.tv/blogs/30650/Free_Derry_mural_changed_into_Free_Gaza_mural
"Free Gaza" のほかにも、ミュラルの写真などいろいろ。ガザ攻撃に対する抗議では、デリーは比較的静かだったと思うが(レイセオンの工場があることなどを考えれば)。(なお、デリーの抗議行動についてははてなブックマークのほうでDerryのタグをつけてあると思います。)

というわけで、今年も、1月30日だった。

Bloody Sunday Weekend events

Friday, January 30 -
4pm: A minute's silence at the Bloody Sunday Monument, Rossville Street, to mark the time of the shooting on Bloody Sunday. All welcome.

http://www.derryjournal.com/journal/Bloody-Sunday-Weekend-events.4913548.jp


日本時間で1月31日の午前1時(GMTで30日午後4時)、東京で雨の音を聞きながら、デリー・ジャーナルの記事を読んでいた。

New home for iconic Bloody Sunday handkerchief
Published Date: 30 January 2009
By Staff reporter
http://www.derryjournal.com/journal/New-home-for-iconic-Bloody.4929401.jp

1972年1月30日の「ブラッディ・サンデー事件」を象徴する光景はいくつかある。その中でも最もアイコニックなのは、1人の負傷者を3人の男性が抱え、1人の男性が白いハンカチを振りながら彼らを先導している光景だ。Museum of Free Derryのギャラリーにもその写真はある。今もって最終報告書が出ていないサヴィル・インクワイアリーが始まった頃のBBCの記事でも、彼らの写真が使われている。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/special_report/1998/bloody_sunday/51391.stm

デリーのボグサイドのミュラルでも:
a CC photo by jazamarripae on flickr
* a CC (Attribution-Noncommercial-Share Alike) photo by jazamarripae on flickr

デリー・ジャーナルの記事は、このハンカチがMuseum of Free Derryに寄贈された、ということを伝えている。

写真やミュラルの中で、3人の男性に抱きかかえられているのはジャッキー・ダディ (Jackie Duddy)。当時17歳で、ボクシングをやっていた。(1979年に生まれ、彼にちなんで名づけられた彼の甥はプロボクサーで……戦歴・ランキングを見ると、すごく強い。)

At a certain point, reports of an IRA sniper operating in the area were allegedly given to the Army command centre. At 4:07 pm Brigade gave British Parachute Regiment permission to go in to the Bogside. The order to fire live rounds was given, and one young man was shot and killed when he ran down Chamberlain Street away from the advancing troops. This first fatality, Jackie Duddy, was among a crowd who were running away. He was running alongside a priest, Father Edward Daly, when he was shot in the back.
ある時点で、IRAのスナイパーがその地域で活動しているとの情報が軍司令部に寄せられたと言われている。そして4:07、パラシュート連隊にボグサイドに入る許可が与えられる。実弾を使用する命令が下され、1人の若者が近づいてくる兵士たちから逃げようとチェンバレン・ストリートを走っているときに撃ち殺された。これがこの日最初の犠牲者、ジャッキー・ダディである。彼は逃げている人々の中にいた。背中を撃たれたとき、彼の横をエドワード・デイリー神父が走っていた。

http://en.wikipedia.org/wiki/Bloody_Sunday_(1972)


背中を向けて逃げる人々に、英軍は実弾を発砲した。ジャッキーは崩れ落ちた。神父と群衆の中のほかの人々が、兵士たちが銃撃してくるエリアから、負傷した彼を運び出そうとした。その光景が、「公民権デモ」の取材のために現場にいたジャーナリストによって撮影されていた。

そのときのことを、デイリー神父(現在はデイリー司教)は2009年に次のように回想している。
Bishop Daly, who is now retired, remembers the day only too well: "Charlie Glen, Willie Barber and Liam Bradley, were carrying young Jackie up Harvey Street away from the Rossville Flats and when we got to Waterloo Street we laid him down on the pavement to wait for an ambulance. When the ambulance came, I pushed the hankie in under Jackie's shirt to where he was bleeding, although I think he may have already died by then."

「チャーリー・グレンとウィリー・バーバーとリーアム・ブラッドリーが、ジャッキーを抱えて、ロスヴィル・フラットを離れていく方向でハーヴェイ・ストリートを進んでいました。ウォータールー・ストリートに着いたところで歩道にジャッキーを横たえて、救急車を待ちました。救急車が到着したときに、そして、ジャッキーの体の出血している箇所に、シャツをめくってハンカチをあてがいました。ですが、そのときにはもう、息がなかったかもしれませんね」

The handkerchief later wound up in the hands of Jackie's father, Willie Duddy, when it was returned from the hospital among his sons belongings. The delicate fabric still bears its tiny, neat label saying 'Fr. Daly', and its original owner recalled: "It was my mother who actually stitched my name onto the hankie because we had a shared laundry in the Cathedral. I think I was told the Duddy family still had the handkerchief at the anniversary Mass a year later, but I never actually saw it again until decades later, when Kay (Duddy) brought it to the Guildhall after I had given evidence to the Saville Inquiry. But I was so emotionally distressed that day I remember little about it."

ハンカチはその後、病院でジャッキーの遺品が返還されたときに、ジャッキーの父親のウィリーの手に渡った。その薄い布には今も、「デイリー神父」という名前の小さな縫い取りがある。デイリー司教はこう回想する。「刺繍は私の母がしてくれたものです。カテドラルでは洗濯場が共用でしたから。(事件から)1年後の追悼ミサのときに、ダディ家の人たちがまだあのハンカチを持っていると言われたと思うのですが、実際に見たのはそれから何十年も経ってから、私がサヴィル・インクワイアリーで証言したあとに(インクワイアリーが行なわれていた)ギルドホールに、ケイ・ダディ(ジャッキーの姉妹)が持ってきてくれたときです。しかしあの日は私はあまりにも精神的ショックが大きくて、あまり思い出せないのですよ」

Bishop Daly still feels very strongly about this poignant item: "It's an emotional subject for me, but I am glad it's here. It tells an important part of the story here at the museum alongside so many other important reminders of that day," he added.

Kay Duddy, Jackie's sister, and custodian of the hankie for many years, feels equally as emotional about its tragic provenance. "My daddy kept the hankie all those years until his death in 1985 and since then I carry it with me all the time - it's like a comfort blanket to me," she revealed.

デイリー司祭は、今もまだこの品物に悲痛な思いをかき立てられるという。「私にとってはつらいものです。しかしまだこれがあるということは嬉しいです。博物館で、あの日を物語る大変に数多くの品物と一緒に、あのハンカチもまた歴史を語るのですから」

長年ハンカチを持っていたのは、ジャッキーの姉妹であるケイ・ダディだ。彼女もまた、司祭と同じくらいこのハンカチの悲劇の源泉についてつらい思いをしている。「父は1985年に他界するまで、このハンカチを大切にしてきました。その後は私が常に肌身離さず持ち歩いています。お守りのようなものです」


ケイ・ダディさんは、サヴィル・インクワイアリーの報告書が出たときに、このハンカチを博物館に寄贈することにしていた。しかしインクワイアリーの報告書は、2008年秋に出るはずがまた1年延期され、その後、彼女は教会に行く途中でハンカチを入れていたバッグをひったくられそうになって、サヴィル報告書はまだ出ていないけれども、ハンカチが失われるよりはと考えて寄贈したのだそうだ。

Museum of Free Derry:
http://www.museumoffreederry.org/



白旗を掲げたデイリー神父と、負傷者を抱えた3人の男性たちは、英軍から狙撃されることはなかった。兵士たちの中を、神父とジャッキー・ダディを救出した人たちが歩いていく光景もカメラにおさめられている。

これが「まともな光景」に見えるほど、2009年1月の現実は常軌を逸している(2004年のファルージャから、すでに常軌を逸していたのだが)。避難する民間人の先頭に立って白旗を掲げていた女性が、軍によって射殺されるという、本当に考えられない出来事まで発生していることが報告されている。



NI FAQのほうで、1月30日に2件、Bloody Sunday事件のことを投稿しました。(といっても内容は、過去にここに投稿したものですが。)
http://nofrills-nifaq.seesaa.net/archives/20090130-1.html

※この記事は

2009年01月31日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 08:00 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

この記事へのトラックバック

【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

……全文を読む
▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼















×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。