「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2009年01月24日

【ガザ攻撃】ある村の破壊



※書きかけでアップしていましたが、一応このエントリは書き終えました@25日昼



ガザ地区南部、ハンユニスの東に、コザーア(Khoza'a, またはKoza'a, Khuza'a)という小さな村(か集落)があるそうです。発音は「クザーア」かもしれませんし「コザーア」、「クザア」かもしれません。ともかく、1月13日木曜日にその村にイスラエル軍の地上部隊が侵攻したときに、民間人と民間人の住宅が大きな被害を受けたとの報告です。

Khoza'a destruction, 13 January 2009

イスラエル軍の攻撃で引っこ抜かれたレモンの木。コザーア。2009年1月16日。
*a CC photo by Rafahkid on flickr.


この地上侵攻、というか破壊のことは、ガーディアン/オブザーヴァーの記事として報道されました。

Israel accused of war crimes over 12-hour assault on Gaza village
Fida Qishta in Khuza'a and Peter Beaumont in London
The Observer, Sunday 18 January 2009
http://www.guardian.co.uk/world/2009/jan/18/israel-war-crimes-gaza-conflict

記事によると、コザーア村(ガーディアンでの表記はKhuza'a)への攻撃は12時間続き、14人が死亡。村人たちは、イスラエル軍は次のようなことをしたと証言しています。

- 民間人が中にいるままで家屋をブルドーザーでつぶそうとした

- 白旗を掲げて脱出しようとする民間人を殺した

- 負傷者のところに行こうとする救急車に発砲した

- 民間人のエリアに無差別の武力を行使し、白燐弾を撃った

「これらが事実であるなら、すべてがジュネーヴ条約違反である」と記事は書いています。

イスラエル軍からの反応(国連施設や病院への攻撃についての調査を行なったが、先に攻撃されたのであり、「戦争犯罪であるとの主張には一切の証拠がない」というもの)などを書いた部分を挟んで、記事は続きます。

火曜日の早朝、コザーア村で何が起きたかについての懸念を最初に提示したのは、イスラエルの人権組織、B'Tselemだった。イスラエル軍スポークスマンは「そのようなことが起きたという情報はまったくない」と述べたが、オブザーヴァー紙が集めた目撃者の証言は一貫しており、B'Tselemの集めた証言とも合致している。

コザーア村が戦車やブルドーザーによる執拗な攻撃を受けていたことについては、明白な証拠がある。いくつかの建物が粉々に粉砕された。

ブルーノ・スティーヴンスによって撮影された写真には、ひどい破壊と、まだ燃え続けている燐が写されている。スティーヴンスは最初にガザ地区に入った西洋のジャーナリストのひとりだが、昨日、「とにかく、ものすごくたくさんの家屋が砲撃されたんです。それと、白燐を使っていました」と語った。「無差別だったようです」 また彼は、砲撃を受けなかった村の近くの家々は放火された、と述べた。


ブルーノ・スティーヴンスさんは、サイトを見るとフランス語圏の方のようです。あ、ベルギーの方のようです。凄い写真を撮る人だ。
http://pa.photoshelter.com/c/bruno
http://pa.photoshelter.com/c/bruno/gallery-list

2008年からのガザ地区での写真はアルバム2点にまとめられています。

GAZA 2008: INSIDE
http://pa.photoshelter.com/c/bruno/gallery-show/G0000U_9ceyQ7.Aw/

Gaza 2008: Operation Cast Lead
http://pa.photoshelter.com/c/bruno/gallery-show/G0000cs3yrKgFq2E/

記事によると、コザーア村はイスラエルとの国境から500メートルほど(近っ!)のところにあり、13日の攻撃は午前2時半に、ブルドーザーが家屋を破壊して始まったそうです。住民のMunir Shafik al-NajarさんがB'Tselemに連絡を取り、B'Tselemが調査に入ったようです。

Rawhiya al-Najarさん (50歳) は白旗を掲げながら家から出た。家族たちが家から脱出できるようにとのことだ。しかし彼女は、近くにいたイスラエル兵に射殺されたという。

火曜日の午後、イスラエル軍は30人の住民に自宅を退去し、村の中心部の学校まで歩いていけと命令した。人々が20メートル歩くと、兵士は彼らに発砲し、3人を殺したという。


……ソンミ村虐殺は戦争犯罪として裁かれました。

これらのほか、オブザーヴァーで仕事をしているパレスチナ人の調査担当者が村の人たちから聞き取った話として:
Iman al-Najarさん (29歳) は、ブルドーザーが隣人の家を破壊し始めるのを見ていた、石造りの建物が崩壊し、恐怖に震えながら村人たちが自宅から逃げるのを見た、と語る。

「朝の6時までには戦車とブルドーザーがうちのところにまで来ました。屋上に上がって、白旗を掲げて、私たちは民間人ですと伝えようとしました。誰もが白旗を持っていました。民間人です、と言いました。武器は持っていませんと。しかし、兵士たちは、人がまだ中にいるという場合でも家屋を破壊し始めました」

Rawhiyaさんの死について、Imanさんは、イスラエル軍に町の中心部まで行けと命令され、そうしたらイスラエル軍が発砲してきたのだと語る。Rawhiyaさんはグループの先頭だったという。

ハンユニスのナセル病院に勤務する救急隊員、Marwan Abu Raedaさん (40歳) は、「朝8時にコザーアから電話がありました。女の人が負傷している、と。すぐに急行しました。負傷した女性から60メートルか70メートルの地点で、イスラエル兵士が私を目がけて発砲してきたのです」と語る。別の通りに車を進めると、また発砲を受けた。12時間後、ようやくRawhiyaのもとに救急車がたどり着いたときには既にこときれていた。


これだけでももういい、もうやめてくれという気分になるのですが、この記事には最後に、家屋が破壊されたあとの大きな穴で人々が身を隠そうとしていたら、ブルドーザーが穴の両側から瓦礫をががががと押してきた、という証言で結ばれています。つまり、生き埋めにしようとしたか、生き埋めにしてやると脅したか、でしょう。

救急隊員に対する狙撃については:
http://palestine-heiwa.org/news/200901140326.htm

このほか国際人道法違反については:
http://nofrills.seesaa.net/article/112620394.html

で、この攻撃については、破壊後の現地での映像がRafahkid blogに上がっています。
https://rcpt.yousendit.com/642782106/0d9b1d98318d43f77a7ad7d856349d92
※400MBくらいあります。字幕なし、まったくのraw footageです。長さは32分くらい。

Rafakidさんの説明を日本語化すると(元から、映像の内容全部は説明されていません。なお、カッコに入れて「※」をつけてあるのは私が補った部分です):
映像で最初に出てくる女性はコザーア村住民のIman Al Najarさん(※オブザーヴァーの記事にも出ていた方ですね)。1月13日の攻撃で彼女の家族の家もその一帯も破壊されたことを現場で説明しています。


次に、彼女の隣人の男性が、全焼した自宅跡で、「見たことのないタイプのミサイル」で攻撃された、おそらくWPだろうと述べています。

家が住めない状態になってしまった女性の証言。地上部隊の侵攻のときに、彼女と最初の証言者のImanさんの弟さんがイスラエル軍兵士によって近くの建物に監禁された、と語っています。

(※これは「人間の盾」の戦術です。IDFがそのへんにいる人を「盾」に使っていることは過去にもあったことです。そして、イスラエルはハマスが「人間の盾」の戦術を使っていると声高に非難するふりをして、一般市民に対する武力行使を正当化しています。)

Imanさんのお兄さんが、イスラエル軍が燃えている物体 (flaming material) を投げつけたので負傷した隣人を助けようとしている間に頭に怪我をしたということを説明。これもまたWPではないかとのこと。そして、彼と一緒にいる男の子は、イスラエル軍が通りで村の女性を撃つときに、銃を突きつけられて歌い踊ることを強要されたそうです。



父親と息子。破壊された自宅を案内して回ります。この家で一部でも元のまま残っているのは地下室だけ。家族は、頭上で家が破壊されているときに地下室に集まっていたそうです。そして映像に出てくる洞窟のような穴を通って脱出した。

高齢の女性は熱を込めて、娘たちの家がどのように破壊されたのかを語ります。まさにパレスチナ人の苦しみを物語っています。


※写真は下記からどうぞ。Creative Commons Attribution-Share Alike です。
http://www.flickr.com/photos/rafahkid/archives/date-posted/2009/01/16/

a CC photo uploaded by Rafahkid on flickr映像に出てきた男性の家の写真が、Rafahkidさんのflickrにアップされています。大きなサイズで見ると(写真をクリックして開くflickrのページで、写真の上にあるALL SIZESをクリックしてください)、映像で見るより細部がよくわかると思います。ロフト(たぶん物置)に上がる梯子(階段)に積もっている白いものは、建材の破片のように見えます。天井は煤で黒くなっています。

で、これらの写真のページのdescriptionの欄にあるレポートは、ウェブ検索してみたところ、ISMのレポートであることがわかりました(ISMのサイトに16日にアップロードされている)。その大まかな内容(同時通訳風に日本語にするので、ぎこちないと思いますがご容赦):

2009年1月14日、水曜日

ガザ地区南部に対する地上部隊の攻撃が激化する中、13日午前3時ごろ、ハンユニスの東方にあるコザーアの村に地上部隊が入った。イスラエル軍はそのまま同日夕方まで攻撃を続けた。その前に、コザーアには激しいミサイル攻撃がなされていた。特に10日土曜日の攻撃は激しいものだった。

自治体職員の話によると、約50軒の家屋とオリーヴや柑橘類の果樹園、農業用地がブルドーザーでつぶされた。非常にたくさんの木が倒され、瓦礫の中を進む時もかすかにレモンの香りが漂ってくる。

ある家族は、自分たちが中にいるときに家屋がつぶされたさまを語る。彼らは地下室にいたが、その頭上で地上部分が破壊されていた。地下室もまた攻撃を受けており、その家族は押しつぶされる前に瓦礫の隙間から脱出していた。

D-9ブルドーザーがIman Al-Najarの家を破壊し始めたとき、彼女は家族と一緒に家の中にいた。彼らはなんとか脱出し、Imanは近隣の人たちにも逃げた方がいいと声をかけた。女性たちの一団はイスラエル軍兵士によって、どこそこの通りに行けと指示された。女性たちは子供をつれ、白旗を持っていたが、指示された通りに着くと、ある建物に潜んでいたイスラエル軍特殊部隊が発砲し、Rowhiya Al-Najar(50歳)を撃った。ほかの女性たちがRowhiyaを助けようとしたが、銃撃があまりに激しく、その場を離れなければならなかった。救急車もRowhiyaの元に行くことを妨害され、彼女は路上で失血死した。

一方、自宅を破壊されたImanと200人ほどの住民たちが、Imanのおじの家の近くに集まっていたが、次はその区域も攻撃された。Imanの話では、ブルドーザーが瓦礫を人々の周りに積み上げ、人々は大きな穴の中に立っている形になった。彼らは150メートルほど這って奇跡的に脱出した。

住民たちはそこから、UNRWAの学校に逃れたが、そこにたどり着いたときには学校のあたりにミサイルが撃ちこまれていて、引き返さなければならなかった。最終的には人々はその地域を離れ、数キロ歩いていった。

Imanの弟のモハメド(14歳)は12時間の間行方がわからなくなっており、Imanは弟は死んだのではないかと思っていたが、実際にはイスラエル軍兵士によって隣人と一緒に家屋に拘禁されていた。その隣人は、子供を探しに外に出させてほしいと懇願したが認められなかった。

モハメドの話では、Rowhiyaが撃たれたとき、兵士たちは歌い踊っており、モハメドにも同じことをするよう強要した。モハメドが拒むとお前も撃つぞと脅した。

Imanは何度も、「私たちの生きてきた中で最も苦しい日だった (It was the hardest day of our lives)」と言った。彼女に残されているのは身につけていた服だけだが、それでも、命があるだけラッキーだと。ガザ地区の各所で行なわれていることだが、コザーアの民間人に対する残虐な行為は、戦争犯罪に相当する。

この攻撃で、白燐を含むと思われるミサイル (missile: 兵器の種類としての「ミサイル」というより、「砲弾」の同義語として使われていると思われる)が、イスラエル軍によって用いられた。ISMのボランティアたちが、拳ほどの大きさの炎を上げる物体を写真に撮影した。全焼した家屋の隣の土地で見つかったものである。前日のものがまだ燃えていた。消火するには土に埋めるしかないが、地表に出ればまたすぐに燃える。

この日、コザーアから50人の患者が搬送されたハンユニスのナセル病院の医師たちは、重度の化学やけどを負った患者のことを話し、身体に付着した白い粉がまだやけどを負わせ続けていると言う。この兵器の出す煙を吸い込んで、呼吸障害を起こしている人々も多い。

ガザ地区に医療支援のために入る許可を得たエジプト人のアハメド・アルミ医師は(※YouTubeのインタビュー映像がISMのレポートに埋め込まれています。アルミ医師は英語話者で、アクセントは基本的に米語ですね)、最も重篤なケースについて説明した。医師が手をつくしたが4人が病院で死亡した。怪我のなかにはあまりにひどいので、通常ではない弾薬が用いられている可能性があると考えられるものもある。同医師は、一例として、銃弾が入った部分の傷は小さいのに、出てきた部分の傷は40から50センチになっている負傷者がいる、と話した。病院関係者によると、この攻撃での死者数は全部で13人である。

今回のガザ攻撃が始まる前に、ISMのチームはここコザーアで農業支援活動を行なっていた。しかし、イスラエル軍は人々が自分の畑に行くことを妨害したことがある。停戦の期間中でも、農民に対しイスラエル兵士が狙撃していた。

Updated on January 16, 2009


YouTubeにあるエジプト人医師のインタビューは9分半ほどで、医師はまず、コザーアから搬送された負傷者の怪我の種類に2種類あること(兵器によるものと、化学やけど)、shrapnelの入口と出口の大きさの違いがあまりに大きなケースがあること(右のわき腹の下の方に小さな穴があり、左のわき腹から内臓が全部出ている、など。この患者さんは亡くなったそうです)、ひとりの負傷者が身体のさまざまな場所をやられていて、医師一人が胸を、もう一人が腹部を、もう一人が下肢切断をするといった手術室内部の様子を説明。また、薬品が足りていないこと、医師も足りていないこと、1日に50件の手術をしていること、などを説明します。

また、エジプトから来た神経外科の医師が執刀した手術で、頭部にshrapnelを被弾した小さな穴がある患者さんの頭蓋骨を開けてみたら中はひどくやられていたケースがあり、それについて「私にはどのような兵器かわかりません」と述べています。この患者さんは14歳の男性で、手術室で亡くなったそうです。

顔の3分の1がなくなっていた女の子は、腰から下も大きく削り取られていて骨が見えており、ガザの医師とエジプトやフランスから来ている医師が何人もかかって10時間手術をしたが結局死んでしまった(術後にいったん意識を取り戻したが急変したようです)、とか、背中に大怪我を負っていた30歳ほどの男性(背後から攻撃された)も病院に搬送されてほどなく死亡、とか。

その後、「とにかくこのようなことは終わってほしい」というコメントを挟んで、ICUの患者さんのところにカメラが入ります。45歳のモハメドさんは、バイクで自宅に戻ったときに攻撃にさらされ、下半身、下肢(膝から下を切断せざるを得なかった)、腕、背中、内蔵に負傷しており、今も危篤状態。

21歳の男性は自宅で負傷。腹部、脚などをひどくやられ、内蔵は出血を止めるためにガーゼを詰めてある状態で危篤。(医学の用語が多いのでよく聞き取れません。)

この日の攻撃による負傷者で、傷が画像で公開されている人に、Aymanという10代の少年がいます(←リンク先の写真は非常に痛々しいものです)。shrapnelが肺を貫通していてその手術を受けたほか、負傷してから5日経過しても傷口から血がたらたらと流れ(「にじむ」を軽く超えている)、骨に達する深い傷もあるとのこと。

このコザーア村への攻撃のことは、ガーディアンは記事にしていましたが、ほかのメディアでは大きくは取り上げられていなかったと思います。同時期に国連施設に対する攻撃という信じられないようなことが連続していたことの影響かもしれません。

記事を検索してみると、カナダのオンライン・メディアが「18日目」のまとめとして出した13日付の記事に「多くの家が破壊され、24人が負傷」といった記述があるほか、トルコの英語メディアが1月14日に「18日目」のまとめとして、"In the meantime, 11 people, including elderly and women were killed in the Khoza'a village, east of Khanyounis city." (一方で、高齢者と女性を含む11人が、ハンユニス市東方にあるコザーア村で殺された) と報告しています。

また、Monsters and Critics掲載の、ドイツの通信社 (Deutsche Presse-Agentur) の13日付記事に、次のようにあります。これはブルドーザーが家を潰しに入る前の空襲のことですね。
Many of Tuesday's casualties were evacuated from the Jabaliya refugee camp, north of Gaza City, and the eastern outskirts of Khan Younis, in the south of the strip.

The dead included a 75-year-old man and 11 members of his family, including three of his grandchildren and their mother, who died when Israeli F16 warplanes bombarded their three-story building in the village of Khoza'a, east of Khan Younis near the border with Israel.


そして、ブルドーザーが家を潰しに入る前の空襲については、Relief Web掲載のWHOのプレスリリースで:
http://www.reliefweb.int/rw/rwb.nsf/db900SID/JBRN-7N8EEX?OpenDocument
Nearby shelling on 11 January forced the closure of three MoH PHC clinics: Shuhada' Al Shate' clinic (Gaza district); Khoza'a and Al Zana clinics (both Khan Younis). This brings the number of MoH PHC clinics closed to 27.

※MoHはMinistry of Healthなのでパレスチナの保健省、PHCはたぶん「プライマリー・ヘルスケア」だと思います。

つまり、家潰し作戦が行なわれる前に、空襲で医療施設がやられていたことがわかります。13日の負傷者はハンユニスの病院に搬送されているのは、この村に大病院がないためだろうと思っていたのですが、理由はそれだけではないかもしれません。

そして、この村のラテン文字表記には何種類かあるので、別の表記 (Khuza'a) で検索してみると……国連OHCRや、パレスチナ人権センター(PHCR)でかなり出てますね。いくつか拾ってみます。

Relief Webの12日(ブルドーザーの家潰し作戦の前)、PCHRのリリース(PCHRなのでワーディングは一般メディアとは少し違いますがそのままで。あと太字強調は引用者による):
http://www.reliefweb.int/rw/rwb.nsf/db900SID/FBUO-7N9CUN?OpenDocument
Khan Yunis:

- At approximately 12:00 on Sunday, 11 January 2009, as a result of the indiscriminate shelling by IOF tanks that had moved into the east of Khuza'a village, east of Khan Yunis, Ussama Khaled Tahseen Abu Rujaila, 17, was killed. His brother, 15-year-old Sami, was wounded by shrapnel and gunshots and their father, 43, was shocked.

- At approximately 13:00 on Sunday, IOF tanks positioned at border between the Gaza Strip shelled houses in al-Zanna area and Bani Suhaila village, east of Khan Yunis. As a result of the such shelling that continued sporadically for 3 hours, two Palestinian civilians were killed: 'Alaa' Hamed Abu Jame', 20: and Mohammed Younis Abu Jame', 20. Another 6 civilians, including 3 children, were wounded.

- At approximately 18:00 on Sunday, IOF shelled an open area in the west of Khan Yunis. No casualties were reported.

- At approximately 23:00 on Sunday, IOF withdrew from the east of Khuza'a village after they had demolished a number of houses and razed areas of agricultural land.

- At approximately 03:00 on Sunday, 12 January 2009, IOF moved again into the east of Khuza'a village, east of Khan Yunis, under cover of intensive artillery shelling. Thousands of Palestinian civilians were forced to leave their houses.


Relief Webでは13日付の国連OHCRのリリースでもコザーアに言及があります。「民間人の保護」という項目で。
http://www.reliefweb.int/rw/rwb.nsf/db900SID/EDIS-7N9SKF?OpenDocument

そして、最初に13日の攻撃のことを知らされたB'Tselemのサイトで、13日付で:
http://www.btselem.org/English/Press_Releases/20090113.asp
Munir Shafik a-Najar, a resident of Khuza'a village, told B'Tselem's researcher by telephone that as of 2.30 A.M., the army has been demolishing homes in his area, which lies near the border with Israel. The forces have been using gunfire to signal civilians to evacuate their homes.

クザーア村 (Khuza'a) の住人、Munir Shafik a-Najarさんが、B'Tselemのリサーチャーに電話で語ったところによると、午前2時30分の段階で(イスラエル)軍は彼の家のある一帯の家々を破壊しているという。その一帯は、イスラエルとの国境に近い。軍は発砲して、民間人に家から退避するよう合図している。

This morning, Rawhiya a-Najar, 50, stepped out of her house waving a white flag, so that the rest of the family could leave the house and walk behind her. The witness reported that she was shot and fell. Neither family members nor rescue workers have managed to reach her to ascertain her condition, but she is still lying motionless where she fell.

今朝、Rawhiya a-Najarさん (50歳) が、家族のみんなが家を出て後についてこられるようにと、白旗を振りながら家から出た。目撃者の話では、Rawhiyaさんは撃たれて倒れた。家族も救急隊もまだ彼女の倒れているところに行くことができておらず、彼女がどのような状態なのか確認することができていない。しかし彼女は今もまだ、倒れた場所でまったく動かずに横たわっている。

This afternoon, the army announced on loudspeakers that residents are to leave their homes and walk to a school in the village center. Some 30 people left their houses carrying white flags. The witness reported that after they had walked approximately 20 meters, fire was opened at the group, killing three of his relatives: Muhammad Salman a-Najar, 54, Ahmad Jum'a a-Najar, 25, and Khalil Hamdan a-Najar, 80. Many others were injured.

今日の午後、軍はラウドスピーカーを使って、住民は家から出て行き、村の中心部の学校まで歩いていくよう指示した。約30人が白旗を持って家を出た。目撃者によると、彼らが20メートルほどを歩いたところで銃撃を受け、その目撃者の親戚3人が殺された。Muhammad Salman a-Najar (54), Ahmad Jum'a a-Najar (25), Khalil Hamdan a-Najar (80) の3人である。ほか多くの人が負傷した。

The rest of the group took cover in a nearby house, in which there are currently 46 persons waiting to evacuate the premises and take shelter in the village school. B'Tselem has passed on the information at its disposal to the army and the Red Crescent.

この一団の残りの人々は、近くの家に避難したが、そこには46人の人たちがいて、村の学校へと避難するのを待っている。B'Tselemはこの情報を、軍と赤十字に伝えてある。


空爆があったとか、ブルドーザーが来たとかいうレポートは上記のように見つかるのですが、ラファやガザ市から伝えられているような「退避勧告のビラまき」の話は、英語で私に探せる範囲では、見つかりません。

さらに記事をさがしてみると、イスラエルによる「一方的攻撃停止」宣言後にもクザーアに攻撃があったとの報告が、18日付でRelief Webに上がっています(ソースはAl Mezan Center for Human Rights):
http://www.reliefweb.int/rw/rwb.nsf/db900SID/RMOI-7NEMWV?OpenDocument
According to Al Mezan Center's monitoring, the IOF has breached the unilaterally declared ceasefire. Shooting and shelling from artillery batteries, tanks and naval vessels have occurred in various areas throughout the day. Israeli aircrafts also launched raids on open areas. At 10:30am, Israeli troops opened fire at civilians who were trying to reach their homes in Khuza'a village, east to Khan Younis. A man, 22-year-old Mahir Abu Irjila, was killed as a result. The victim and his family had evacuated their house and stayed in a UN shelter.

Al Mezan Centerの調査によれば、イスラエル軍は一方的に宣言された攻撃停止を破っている。砲兵中隊、戦車、海洋船舶からの銃撃や砲撃が、この日一日じゅう、各所で発生している。また、イスラエルの航空機が開けた土地に攻撃を行なっている。午前10時30分に、イスラエル軍兵士はハンユニス東方のクザーア村の自分たちの家に行こうとした一般市民を銃撃した。22歳のMahir Abu Irjilaという男性がその結果殺された。この犠牲者とその家族は、自宅を出て国連の避難所に身を寄せていた。


続いてイスラエルの英語新聞、エルサレム・ポストの18日記事:

Jan 18, 2009 23:28 | Updated Jan 19, 2009 4:37
Operation Cast Lead heads to the courtroom
By REBECCA ANNA STOIL

ああ、これはちょっと内容的に別エントリにしたほうがよさげなので別にします。このエントリが詰め込みすぎになってしまう。クザーア村のことについて取材したわけではないし。【→書きました。この次のエントリ、「イスラエルの戦争犯罪は裁かれるのだろうか」をご参照ください。】

同じくイスラエルの英語新聞、ハアレツの18日記事:

Last update - 08:18 20/01/2009
Amira Hass / Gazans say IDF troops ignored white flags and shot at them
http://www.haaretz.com/hasen/spages/1056952.html

これは、アミラ・ハスが取材して書いたもの。A-Najarはほかの記事ではAl-Najarなどと綴られていますし、人名の表記の揺れはありますが、ここまでに言及した記事に出てきたのと同じ人たちの証言です。

抜粋:
1月12日から13日にかけての夜間、イスラエル軍はイスラエルとの国境からわずか数百メートルのクザーアに入った。数時間の砲撃で火災が発生した。その火を住民たちは消そうとした、とMonir A-Najirは月曜日にハアレツに語った。

午前5時ごろ、戦車が街の東の区域に入り始めた。濃い煙のため、住民たちは何が起こっているのかを目視できず、家々が破壊される音や銃撃・砲撃の音が聞こえてくるだけだった。それらの家々の住民たちは、大人も子供も、自宅の屋上にのぼって1時間ほど、白旗を振っていた。ヘリコプターから彼らをめがけて銃撃があった。「負傷させるためではなく、怖がらせるために」、とMonir A-Najarは言う。

午前8時ごろ、兵士たちはラウドスピーカーを使って、住民たちに村の中心部に集まるよう命令した。数十人の住民たちがOsama A-Najarの家の庭に集まった。Monir A-Najarは、兵士たちは、二人一組で家から出て行くように命令した、と語る。

最初に出て行ったのが、Ruwahiya A-NajarとYasmin A-Najarだった。Yasminは14日にB'Tselemに対し、女性たちの別のグループが、近隣の複数の家から出てきた、と語っている。

「私たちは女性たちのグループの先頭を歩きました。白旗を持っていました。通りを進んで家 3軒行ったところで、40メートル向こうにイスラエルの兵士がいて、銃をこちらに向けているのが見えました」とYasmin A-Najarは語る。「もっと近くに来いということかと思いました。Ruwahiyaと私は足を進め続けました。すると突然、その兵士は私たちを銃撃したのです」

Yasminは右足を負傷した。Ruwahiyaは通りに倒れた。頭から血を流していた。残りの女性たちはパニックになり、散らばって身を隠した。銃撃は続いた。

Yasminは、戻ってRuwahiyaを助けようとしたが、兵士たちから銃撃を受けた、と述べる。兵士たちはまた、到着した救急車の運転手にも発砲したので、救急車は引き返すことを余儀なくされた、と彼女は言う。Ruwahiyaが最終的に現場から運ばれたのは午後8時で、そのときには既にこときれていた。

朝、軍は一帯の家々を破壊し続けた、と彼ら(住民たち)は言う。Ruwahiyaが殺された後、家々に隠れていた人々は、「アッラウ・アクバル」(ああ神さま)と叫びながら戦車から逃れていった、とMonir A-Najarは言う。

「私たちは白旗を、女性たちの頭に着けるスカーフを持っていました。私たちは逃げていました。なのに彼らは私たちに向かって撃ってきたのです」と、Monir A-Najarはハアレツに語った。彼は、通りには特殊部隊が展開していたと述べる。

彼が言うには、逃げていく人たちがOsama A-Najarの言えから100から150メートルのところまでいったときに、一族の3人が殺された、と述べる。56歳のMahmoud A-Najar、25歳のAhmad A-Najarと、80歳のHalil A-Najarだ。Monirは、その日はほかに10人の住民が殺された、ほとんどは避難先の学校とその隣の家を直撃したミサイルによってだ、と述べる。

「パレスチナ人権センター」(PCHR) は、死者のうちの一人は、ハマスの武装ウィングであるイザルディン・アル=カッサムのメンバーであると述べている。全壊またはひどく損傷を受けた50軒の家屋のうち、1軒が、これとは別のイザルディン・アル=カッサムの活動家のものだった、とPCHRは述べている。




ガーディアンの記事の元になった調査を行なったFida Qishtaさんのブログに、より詳しい状況が書かれた記事がアップされています。上に書いた複数のメディアの記事で抽象的でわからない部分も、このレポートを読むと具体的にどういうことになっていたのかがわかります。

http://sunshine208.blogspot.com/2009/01/israel-accused-of-war-crimes-over-12.html

最初の方だけ、日本語にしておきます。これ以上は無理。いくらなんでもこれはちょっときつい。

コザーア村に入って最初に気付くのは、腐りつつある肉の臭いだ。血にまみれ切断された鶏の死体が、首がもげて羽が潰されたものが地面に散乱していて、まるでヴードゥー教の黒ミサの行なわれたあとのようだ。もっとよく見ると、鶏はそれぞれ狙撃されていることに気付く。先週の火曜日の早朝、コザーアを掌握したイスラエル兵が撃ったのだ。何百という薬莢が、鶏の死体の周りの街路に散らばっている。

大虐殺は建物や農地にまで及んでいる。オリーヴやレモンの木がばきばきに折られ、家の周りに散乱している。軍用に改造されたD9ブルドーザーによって引き抜かれたものだ。つぶれたレモンの香りが、腐敗しつつある鶏の臭いと混ざる。小麦や野菜の畑は、戦車の跡でめちゃくちゃになっている。建物はまだ煙がくすぶっている。一般家屋の入り口のゲーブル(切妻壁)はブルドーザーで剥がされて、いろいろな家庭の生活の中身が瓦礫の上にこぼれ出している。レースのカーテン、テーブルクロス、ベッド、おもちゃ。……略

殺戮は鶏だけにとどまらなかった。先週、12時間にわたってイスラエル軍が村を攻撃したときに、14人の村人が殺された。最も若い犠牲者の一人が、16歳の女子学生、アラア・ハリドだ。彼女は顔に被弾して病院に搬送された。……略

病院のベッドで、彼女は祖父のハラル・アル=ナジャール (75歳) がアパッチヘリが家に爆弾を落としたときに死んだと聞かされ、泣いた。彼女は家族に訊いた。「なぜおじいちゃんを殺したの?どうして私たちが殺されて、誰も動かないの?私たちがヨーロッパやアメリカの猫なら、優しく気遣ってくれるでしょ」。コザーアの負傷者の治療でERが大変な状態になっている中、アラアは診察では発見されなかった内部の損傷で志望した。

ハマスの拠点であるガザ北部のジャバリヤ難民キャンプと異なり、コザーアは武装主義とはこれまで縁のなかった村だ。……略

イスラエルの戦車は、真夜中に村に入った。それから12時間、尋常ではない残虐行為が行なわれることになる。

イマン・アル=ナジャール (29歳) は、午前3時に外に戦車がいる音を聞いて飛び起きた。彼女と10人の家族は、アザタ地区の隣家をブルドーザーが破壊し始めるさまを窓から見つめた。恐怖に震える村人たちが家から逃げ出し、石造りの家が崩壊するのを見た。人々は家から家へと走った。1軒がつぶされると次の家へ逃れる。炸裂する砲弾の煙に前の見えない状態で。

「午前6時に、戦車とブルドーザーがうちにまで来ていました」と彼女は言う。

「屋根に上って、白旗を持って、一般市民ですということを示そうとしました。民間人です、武器はありません、戦士ではありません、と。それは時間の無駄だった。「イスラエル軍兵士は、人々が中にいる家でさえも破壊し始めました」

イマンと家族は、自宅がブルドーザーで壊される中、走って逃げた。彼女は近隣の人たち(大半が女性と子供)に声をかけ、一緒に逃げましょうといった。全員が白旗を持っていた。イスラエル兵士にこの通りを通って街の中心部まで行けと命令された。村人たちが次の通りにさしかかると、建物の中にいたイスラエル特殊部隊が発砲した。

……略(※女性たちの集団の先頭にいたRowhiyaさんが銃撃された、というくだり。このエントリで既に書いたメディアの記事と重複。)

Rowhiyaが銃撃されたあと、イマーンたちはイマーンのおじの家に逃れた。そこはまだ無事にたっている数少ない建物のひとつだった。そこで銃撃の嵐から逃れた。家を失ったほかの村人たち――ほとんどは農夫だったが――も、残っている最後の家に安全を求めて駆け込んできた。そのころには、200人近くの非武装の民間人がひとところに集まって、そのほとんどが白旗を持っていた。

ほどなく、戦車とブルドーザーがそこにもやってきて、その家も壊し始めた。恐怖に駆られた人々は散らばった。盲目の少年、サミール (16歳) は母親とはぐれてしまった。彼は通りに立ち、「どこに行けばいい? (母さん、)どこにいるの?どっちに行けばいいんだ?」と、銃弾が周りを飛び交う中、声をあげた。

最後の家がブルドーザーのブレードに潰されると、どこにも逃げ場はなくなった。家々はすべて破壊されていた。村人たちは身を隠す場所を求め、瓦礫の山の中を走った。

イマーンのおじの家から100メートルほどのところで、人々は瓦礫の中にできた深い穴のなかにかがみこんでいた。……略……男性、女性、子供合わせて 200人が、銃撃から身を守ろうと穴の中に入っていた。

……略……何人かが携帯電話で赤十字やパレスチナ人権センター、地域のラジオ局などに連絡を取った。「お願いです、イスラエル側と調整してください。私たちを安全なところに移動させてくれるように」。イスラエル軍は拒否した。村は閉鎖された軍事ゾーンだと宣言した。近寄るものは誰でも撃たれる可能性がある。

……略



※書きかけです……が、もうこれ以上長くすると表示で不具合がでるかもしれないので、このエントリはここまでで。

※この記事は

2009年01月24日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 23:00 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼















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