「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2009年01月24日

「紛争」の中の人。(メモ)

「紛争」の犠牲者全員に対し、パラミリタリーであれ一般市民であれ警官であれ英軍人であれ誰であれ区別せず、一律に£12,000を支払うということで「紛争」を「決着」させるという諮問委員会の方針について、24日の英メディア各紙が伝えている。

※ここにあとで記事リンク集を入れる※

もちろん、ベルファスト・テレグラフもこの件について大きく報じているのだが、ベルテレさんの写真特集「写真で振り返る北アイルランド紛争」の今回のアップデート分の目玉写真が個別の記事の脇に貼り付けられているせいで、記事のページが見た目的にすごいことになっていて、お茶をふかざるを得ない。そんな場合ではないのに。

劇的ビフォー・アフター:
現在のピーター・ロビンソンさん(左)と、25年前(1984年)のピーター・ロビンソンさん(右)。今も昔もDUP所属、今は北アイルランド自治政府ファーストミニスター(「首相」に相当)、昔は「反カトリック、反ナショナリスト、反リパブリカン」の活動家で、写真はイスラエルの国境地帯で撮影されたもの。持っているのはカラシニコフ。



北アイルランドについて、「IRAではない側」の暴力・武力の活動やそれをささえた煽動について、アイルランド島の外では極端に情報が少ないという状況のなか、ベルテレさんのこれは、たぶん意図的なものではないのだけれども、それをはっきりと見せていて(バックグラウンドを知らないとデコードはできないが)、さらに、ジョージ・ミッチェルいわく「800年」のなかの最後の25年ほどを圧縮して見せてしまう。特にDUPの場合、グッドフライデー合意前はマージナルな強硬派として交渉にもかかわらず、GFAには強硬に反対し、その後もNo, no, noとNever, never, neverの連発で、「対話」と呼ばれる方向に転換したのは、2003年のNI自治議会選挙で、民主的に、第一党として選出されたあと(正確に言うとそのさらにあと)のことだった。

※この記事は

2009年01月24日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼