「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=


2009年01月22日

米国の中東特使にジョージ・ミッチェルとの報道。→22日に任命。

ハテムさんの日記とかいろいろあるんですが、今日はもう「ひどい話」は許容量を超えてしまったので別の話。

バラク・オバマ大統領が、米国の中東特使としてジョージ・ミッチェル元上院議員を指名することが決定した、という報道があちこちに出てます。
http://news.google.co.uk/news?ned=uk&hl=en&ned=uk&q=%22george+mitchell%22+middle+east&btnG=Search+News

確定報道が出るまでの間に、ジョージ・ミッチェルとは誰か、という点についてちょっとメモっておこうと思います。私はこの報道を見たときに「ミッチェル・プリンシプルズ!(一番重要な項目が全然守られてないけど)」と椅子の上で飛び上がったのですが。

Mitchell Principles、つまり「ミッチェル原則」は、1990年代における北アイルランド和平プロセスを前進させた大きなファクター。英語版ウィキペディアから:
http://en.wikipedia.org/wiki/Mitchell_Principles

現時点での最新版を、そのまま訳したもの(再利用はご自由に。ウィキペディアンの方、ここを見ていらしたらこの訳文をご利用いただいて構いません。てきとーにやってあるので、誤訳・誤字チェックしてから使ってください):
「ミッチェル原則」とは、北アイルランドの将来についての交渉への参加に関し、アイルランド共和国政府、英国政府と北アイルランドの各政党によって合意された6つの基本原則のこと。この名称は、北アイルランド和平プロセスに深く関わった米国のジョージ・ミッチェル元上院議員にちなんでいる。交渉に関わる各勢力は、以下の各事項の責務を負わなくてはならないとされた。

- 政治的問題の解決の手段としては、民主的で完全に平和的な手段のみを用いる

- すべてのパラミリタリー組織を完全に武装解除する

- 上記のような武装解除は、独立した委員会が認めることのできる形で立証されるものにするということに同意する

- 武力の使用、または武力行使の脅しによって、全党参加の交渉の過程もしくは結果に影響を与えようとする行動については、自己のものであれ他者のものであれ、全否定する

- 全党参加の交渉において達成された合意に従うことに同意し、異論がある場合に交渉結果を左右しようとする場合には、民主的で完全に平和的な手段を使う

- 「懲罰」による殺害や殴打を停止するよう主張し、そのような行動を行なわせないために効果的な手段を講じる

シン・フェインがこの原則を受け入れたことは、より強硬なリパブリカンによって批判された。このことにより、同党を離党する者が続出した。


なお、「ミッチェル原則」は、1995年から96年にかけて、英メイジャー政権、米クリントン政権、アイルランド共和国は「レインボー連合」の政権のときに作成された「原則」で、ブレア政権は全然まったく関わっていません。このころの年表は下記。
http://en.wikipedia.org/wiki/Northern_Ireland_peace_process

ミッチェルがこれを作ったのにもいろいろと経緯があるのですが、そこは飛ばして、「ミッチェル原則」の前後の話。

「ミッチェル原則」が公表されたのが1996年1月24日。Provisional IRAは1994年8月31日から軍事作戦を停止 (cessation of military operations) していました。そして、IRAの政治ウィングであるシン・フェイン(と、UDAの政治ウィングであるUDP)を含めた交渉ということが「問題」の焦点になり(この過程で、ジェリー・アダムズが集会で「IRAを戻せ」というヤジが飛んだのに対し "They haven't gone away, you know" という名言を吐いて、全英がお茶をふいた)、とても政治交渉とは思えないようなこともいろいろあっての「ミッチェル原則」(リパブリカンのシン・フェインと、ロイヤリストのUDPを交渉当事者とする、という内容)だったのだけど、1996年2月9日には難航する交渉にIRAがぶち切れて停戦破棄(ロンドンのドックランズ爆弾事件。死者2人、負傷者40人)。
http://news.bbc.co.uk/onthisday/hi/dates/stories/february/10/newsid_2539000/2539265.stm
↑当日の現場の映像あり。ものすごいです。

IRAが再度停戦したのは、総選挙で労働党が政権を取った後の1997年7月。(それまでの1年数ヶ月の間は「またですか」という状態。)この停戦がIRAの「最後の停戦」になりました。

そして、1997年9月にはミッチェル原則にあったように、「独立国際武装解除委員会」が立ち上げられ、すべての武装組織の「武装解除」をメインに、ピースプロセスは進んでいくはずでした。

はずだったんです。

以下略。というか、IRAについては武装解除ではなく「武器の無能力化」が確認され、ロイヤリストのUDAとかUVFは「武器の時代は終わった」みたいなことを宣言してはいるけれど、第三者が満足する形で武装解除などしていません。Provisional IRAの武器だって、最終的にどこにどう流れたか実はよくわからない部分があると言われています(そして実際に、Real IRAがなぜかSemtexの在庫を持ってたりする)。2008年になってもそういう状況で、2009年になってからどっかの組織の武装解除が確認されました、っていう話は出ていません。

でも「和平」は達成されました。2007年の、「自治議会&自治政府の復活」という出来事で「和平プロセスの完成」が確認されています。

その出発点のあたりにいたひとりが、ジョージ・ミッチェルです。
http://en.wikipedia.org/wiki/George_J._Mitchell

重要なところを抄訳。
1995年以来、彼は米国の北アイルランド特使として、北アイルランド和平プロセスで活動してきた。ミッチェルは当初、北アイルランドのすべての政党が遵守せねばならない非暴力の原則を確立し、その後、全党参加による和平交渉で議長を務めた。この和平交渉が1998年の聖金曜日に署名されたベルファスト和平合意(グッドフライデー合意として知られる)につながった。ミッチェル個人が動いて各政党の仲裁を行なったことは、交渉の成功にとって決定的に重要な役割を果たした。なお、彼の後を受けて特使となったのは、リチャード・ハアスである。北アイルランド和平交渉へのかかわりによって、ミッチェルは1999年3月17日に米大統領自由勲章を受け、1998年7月4日には自由メダルを授与された。

2000年の大統領選挙の際には、アル・ゴアがミッチェルを副大統領候補として検討したと言われている。しかしゴアは最終的にジョー・リーバーマンを選んだ。ミッチェルが選ばれ、民主党が同年の選挙で勝利していれば、彼はアラブ系アメリカ人として初めて米副大統領となり、メイン州出身者としてはハンニバル・ハムリンに次いで二番目の米副大統領になっていたことになる。

※最後の「アラブ系アメリカ人」というのは、ミッチェルのお母さんがレバノン出身であることを言う。お父さんはアイルランド系。

UKのメディアの記事では早くもいろいろと論説が出ていますが、北アイルランドと中東とを安易に並べないほうがいいというのはその通りであるにせよ、少なくとも、「カルテットの中東特使」であるトニー・ブレアよりは、ミッチェルはずっと適役だと思います。



ミッチェルが中東大使に決まりました。
Mitchell heads US push for Middle East peace
Page last updated at 22:28 GMT, Thursday, 22 January 2009
http://news.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/7846187.stm

(この演説はあまりに響く。この「人間性」を、humanityというものを、それに対する信頼を、あの悲しみと苦難の中に、楔として打ち込んでほしい。そして、あの非対称と不正義を、不正義の政治利用を、終わらせてほしい。「期待」はしない。でも望みはかける。)

→演説を日本語化しました。次のエントリでどうぞ。
http://nofrills.seesaa.net/article/113062952.html

※この記事は

2009年01月22日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 23:30 | TrackBack(0) | todays news from uk/northern ireland | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

この記事へのトラックバック

【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

……全文を読む
▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼