イスラエルは「ハマスのロケットの研究拠点である」として、12月28日(空爆開始2日目)にガザ市のイスラミック大学を爆撃しました。誤爆などではなく、明確に標的として爆撃しました。立派な英語でガザの状況を毎日報告してくれている人道支援組織スタッフのハテム・シュラブさんは、そのビデオ・レポートの一回目で、破壊された母校の前からレポートしていました。「私が学んだ大学です。これは実験棟です。イスラミック・リリーフはここに寄付しましたが、残念なことに、その実験器具類は今はあの瓦礫に埋もれています」と。
6日にはジャバリヤ難民キャンプ(「難民キャンプ」とはいっても普通に「街」です。元々住んでいた土地を追われたあと何十年も人々はそこにいるので)にある国連運営の学校が標的として爆撃されました。このときイスラエル軍は「学校の敷地内からロケ(以下略」と理由を説明しましたが、すぐに「その事実はなかった」と認めました。(実際にロケット攻撃があったとして、「精密爆撃」だのなんだのを見せびらかす能力があってもその精密な爆撃の標的の選定が全然精密でないのなら、意味はありません。「ペットの犬を殺されたから」という理由で厚生労働省官僚を狙った殺人みたいなものです。)
このような「学問」に対する攻撃を目の前にしても英国のアカデミックの反応が薄い、と怒りで頭が爆発しそうな勢いで、ジョン・ピルジャーは次のように書いています(2009年1月8日、the New Statesman)。
http://www.newstatesman.com/middle-east/2009/01/pilger-israel-gaza-palestine
Then there are the academics, the deans and teachers and researchers. Why are they silent as they watch a university bombed and hear the Association of University Teachers in Gaza plead for help? Are British universities now, as Terry Eagleton believes, no more than "intellectual Tescos, churning out a commodity known as graduates rather than greengroceries"?
学校に対する攻撃について、ここまで頭に血が上っていない記事(ピルジャーも頭に血が上ってるのだが、イーグルトンのこれはもっと頭に血が上っているときのもの)がガーディアンにあります。ピルジャーが話を聞いたオクスフォード大の先生(パレスチナ人ディアスポラ)にも取材し、「今起きているこれは何なのか」ということを、1967年からの時間の中に位置づける記事です。
この記事で言及されている、12月27日以降に攻撃された学校・教育機関は、イスラミック大学、教育省、ジャバリヤの難民キャンプの国連の学校、私立のアメリカン・インターナショナル・スクール。過去に弾圧また破壊の対象となったものとしては、ビールゼイト大学(ヨルダン川西岸地区)、ベイルートのパレスチナ研究センター(レバノン)――この記事に名前が出ていない学校や教育機関への攻撃・弾圧・破壊ももちろんあります。
In Gaza, the schools are dying too
ガザでは、学校もまた、死につつある
Ameer Ahmad in Gaza and Ed Vulliamy
guardian.co.uk, Saturday 10 January 2009 19.43 GMT
原文:
http://www.guardian.co.uk/world/2009/jan/10/gaza-schools
今週、ガザの大虐殺 (carnage) からひとつの新語が出現した。「スコラスティサイド scholasticide」である。パレスチナ社会にとって大切な教育の中枢に対する、イスラエル軍によるシステマティックな(組織だった)破壊のことだ。教育省は爆撃され、教えるということのインフラストラクチャーは破壊され、ガザ地区全体の学校が空から、海から、陸からの攻撃の標的とされた。
「学べ、いい子だ、学びなさい (Learn, baby, learn)」【注:"Burn, baby, burn" というスローガンのもじり】は、何世代も前のアメリカのゲットーでの黒人公民権運動のスローガンだったが、それはパレスチナ(人)のアイデンティティの中央の柱としての教育という概念をうまく表している。元々教育熱心だったところに、占領があって、それがますます揺らがぬものとなった。そしてそれは、オクスフォード大セント・エドマンド・ホールで政治学を教えるカーマ・ナブルシ (Karma Nabulsi) 博士いわく、イスラエル人が「我慢することができず……破壊しようとしている」ものである。「以前からわかっていたことですが、今それがますますはっきりしました。イスラエルは教育のあるパレスチナというものを根絶 (annihilate) したいのです」と博士は言う。
パレスチナ人は世界で最も教育のある民族だ。何十年にもわたってパレスチナ社会は、西岸地区とガザ地区というホームでも、ディアスポラとして離散した先でも、学ぶということについて特別に重視してきた。1948年の追放のあと、そして1967年の占領のあと、難民の波が影響力のあるパレスチナ知識人を作り、アラブ世界、欧州、南北アメリカで医学や工学の分野で際立った存在感を示した。
「教育は最も重要なものです。家庭生活の一部であり、個人のアイデンティティの一部であり、反逆 (rebellion) の一部です」とナブルシ博士は言う。「誰もが知っていることです。ガザのような難民キャンプでは、すべての子供が、この同じ学校の机には自分の親もその上の世代も座ったのだということを知っています。そして彼らは親や祖父母の世代の伝統を引き継いでゆく」
学校教育や大学での研究は、あのような状況であるにもかかわらず――あのような状況であるがゆえに、ではなく――生活構造 (fabric of life) になっている。占領地(パレスチナ)にあるすべての大学は、何らかの時点でイスラエル軍によって閉鎖されてきたし、多くの大学は恒常的にそのような目にあってきた。しかしながら、閉鎖されても学生が逮捕されても(ラマラのビールゼイト大学で300人以上が逮捕されているとナブルシ博士は語る)【→2004年11月に4人が連行された事例】、教育を受けたいという熱意を強めるだけだ。
現在行なわれている攻撃において、イスラエルは即座にガザの教育施設を攻撃し始めた。空爆のわずか2日目と3日目にイスラエルの航空機はガザ市のイスラミック大学に直接攻撃を加え、甚大な損害を与えた。主要な建物はむちゃくちゃになり、そのため学生の記録は完全にだめになり、そしてもちろん研究も続けられなくなった。教育省は2度にわたり、空から直接攻撃を受けた。
地上侵攻の土曜日は、ガザの学生のほとんどが学年末試験を受験する日だった。そして大半のケースで学年末試験は中止するほかなくなった。学生が改めて試験を受けられるのか、受けることになるのかは現在も不透明だ。大学以外の学校も攻撃された。最もひどい例として知られているのは、ジャバリヤの難民キャンプにある国連施設で、火曜日に少なくとも40人が虐殺された (massacred)。
日曜日、またイスラエルの空爆があり、パレスチナの学校教育の頂点が破壊された。エリートの通う私立のアメリカン・インターナショナル・スクールだ。ここには実業界をはじめとする指導的地位になる人物の子供たちが通っている。中には、イスラエルによる封鎖が原因で米国で研究活動を行なうことができないフルブライト留学生たちもいる。皮肉なことに、この同じ学校は昨年、「聖なるジハード旅団 the Holy Jihad Brigades」という名称の集団に襲撃されており、その西洋型の教育との結びつきゆえに、何度もヴァンダライズされてきた。
この学校は、2000年に、「進歩的な」(そして完全に男女共学の)アメリカ型のカリキュラムを実施する学校として設立された。幼稚園からシックススフォーム【注:sixth form: 日本で言う「高校」に該当】まで、授業は英語で行なわれている。イスラエル側はこの学校の敷地から、もしくはその近辺から、ロケット弾が一発発射されたのだと言う。建物が崩れたときに夜間警備員がひとり死亡した。
同校の評議員会会長であるイヤド・サラジ(Iyad Saraj)は次のように語る。「ガザと西岸を合わせればもっと優秀な学校はあるにせよ、ここはガザで最も優秀で進んだ学校です。ロケットなど発射されてはいないと断言することはできませんが、たとえそれが事実だとしても、学校全体を破壊したりはしないでしょう」。さらに彼はこう語る。「これは、文明の破壊です」
サラジの説明では、この学校は米国政府とはまったく関係がないが、毎年250人の卒業生の多くが米国の大学に進学する。「学生たちはとても優秀で、高度な教育を受けた心の開かれた学生で、まさしく将来のパレスチナを背負って立つ人材になりうる者たちです」
ダニエル・バレンボイム【→参照】の有名なウェスト=イースタン・ディヴァン管弦楽団――今週もまたパレスチナ人とイスラエル人の演奏家がともにウイーンで一流のコンサートを行なうことになっているが――で演奏家として活動している若いパレスチナ人たちは、自身のコミュニティと難民キャンプの音楽学校は「子供たちを教育しているだけでなく、自分たちのアイデンティティを理解することを助けている」のだと言う。これはナザレスに拠点を置いているヴァイオリニストのナビール・アブド・アシュカール (Nabeel Abboud Ashkar) の言葉だ。彼は、「イスラエル人は必ずしもそれを喜ばしいことだと考えません」と付け加える。
ラマラにあるAl-Kamandjatiクラシック音楽学校を運営するラムジ・アブレドワン(Ramzi Aburedwan)は次のように述べる。「イスラエル人がやっていることは、人々の生活を殺すことです。音楽を持ち込むことは、生命を持ち込むことです。ここで演奏する子供たちには、それだけで自分の将来への気持ちが芽生えたのです」
最近のレクチャーで、(オクスフォード大の)セント・エドマンズ・ホールのナブルシ博士は、パレスチナの歴史を学ぶという伝統や、パレスチナ文学でアイコンとして何度も現れる教師という登場人物について話をした。「占領下にある社会において、教育の役割と力は巨大なものです。教育は可能性を示し、地平線を開くものです。思想の自由は、アパルトヘイト・ウォールや自由のない検問所、息の詰まるような刑務所とはまったく対照的です」と彼女は述べた。
今週、ガザでの学校への爆撃があったあと、博士は「1967年の占領以来、イスラエルによるパレスチナの教育に対する体系だった破壊は、その(パレスチナの)伝統を阻害してきました」と述べる。「1982年の戦争の際、(レバノンの)ベイルートのパレスチナ研究センター (the Palestinian Research Centre) が、入念な計画の上、丸ごと略奪にあい、原稿(OR写本)や歴史の記録がすべて破壊されました」
「現在ガザでは、その政策は――この『スコラスティサイド scholasticide』は、これまでにないほどはっきりしています。イスラエル側は私たちが本当に誰なのか、何も知りません。一方で私たちは彼らのことを研究し考えている。しかし、深いところでは彼らはパレスチナの伝統とパレスチナの革命にとっていかに教育が重要であるかを知っています。彼らにはそれが我慢できない。だから息の根を止めなければならないのです」
本文中に出てくるビールゼイト大学については、エドワード・サイードが亡くなったすぐ後の2003年9月にナイジェル・パリーが書いた文章が、「ナブルス通信」さんで翻訳紹介されています(翻訳は山田和子さん)。少し長くなりますが引用します。
http://www.onweb.to/palestine/siryo/parry-said.html
1995年、僕は、ビールゼイト大学[ヨルダン川西岸地区ラマッラー近郊にある、パレスチナを代表する大学のひとつ]のウェブサイトを立ち上げる一員として働いていた。その時、僕の意識にははっきりと、サイードの「語ってもよい」というフレーズがあった。ビールゼイト・ウェブチームは、僕たち自身の「語ってもよい」の実践に踏み出そうとしている。いろんなニュースを載せたウェブサイトを作って普遍的な価値を伝え、学問の世界の自由の確立に邁進し、大学キャンパスと周辺のパレスチナの町や村に文化を育てていくのだ。僕は、そんな思いに奮い立っていた。
サイードがガンとの長い闘いののち、この世を去った今日からちょうど7年前の1996年9月25日、ビールゼイト大学の学生たちは、抗議デモのためにエルサレムに向かった。パレスチナの首都であるエルサレムの境界をイスラエルが一方的にコントロールしていることに、学生たちの不満はつのる一方だった。そこに、当時のイスラエル首相ネタニヤフが、アル・アクサ・モスクと岩のドームがあるハラム・アッシャリーフの丘をぶち抜く地下トンネルを掘る許可を出したため、みんなの怒りが頂点に達したのだった。
このデモはシンボリックな道程でもあった。ラマッラー近郊の大学からエルサレムまで車だと20分。その間に、様々なイスラエルの「態度」を見て取ることができる。ラマッラーのはずれまで来ると、学生たちはバスから降りて、廃棄された古タイヤに火をつけた。タイヤを燃やすのは、目の前にいるイスラエル占領軍に向かって、来るなら来てみろという、パレスチナの若者の間に広く行きわたっている挑発行動だ。
……その日、パレスチナの学生たちの、いつもながらの投げても届かない場所からの投石と、同じく、まるで効果のない散発的な火炎瓶(モロトフカクテル)投擲に対して、イスラエル軍は異常な狂暴さで応じた。……燃え上がるタイヤを調べにやってきたイスラエル軍は、ためらうことなく、学生と、途中からデモに加わったラマッラーの住人たちに向けて、実弾とラバーコートメタル弾を区別せず発射しはじめた。この虐殺行為の始まりを、それぞれ個別に目撃していた複数の友人の言によれば、兵士たちは誰かが銃弾を受けて倒れるたびに歓声を上げ、ハイタッチを交わしていたという。イスラエル兵のライフル射撃は正確で、友人のひとりは、その様子を「銃弾1発で死者1名」と表現した。
現場にいたパレスチナ人警察官の多くは、海外か、国内のあまり人口の多くない場所から呼び集められた者ばかりで、これほどの暴力が自国の人に向けられるところなど一度も見たことがなかった。警察官が何もできずにいる間に、数人のパレスチナ人のデモ参加者が無意味に撃ち殺された。そして、イスラエル軍が、パレスチナの自治区域であるラマッラーに侵入し、事態を眺めていた警察官のひとりを撃った時になってようやく、パレスチナ警察は応酬を開始した。自分たちの絶対的な強さを信じて疑わないイスラエル軍は、オスロ合意によって変わったひとつの重大な事実を忘れてしまっていた。それは、自分たちが、武器を持つ訓練されたパレスチナ人の目の前で、「今回は」人道に反する犯罪行為を行なっている、ということだ。
続く激烈な戦闘で、11人のイスラエル兵が死んだ。この戦闘では、イスラエルのコブラ攻撃ヘリと機関銃による一帯の一般居住区域への猛烈な掃射爆撃がなされ、周辺の丘には戦車がずらりと配備された。……
ラマッラーでのその日、ほんの数時間の間に、パレスチナ人7人が殺され、263人が負傷した。夜になって、僕はラマッラー病院を一巡した。今日、最初に殺されたビールゼイトの学生、ヤセール・アブドゥル・ガーニの母親と妹の悲しみに打ちひしがれた顔を見た。病院の壁はいたるところ血に汚れていて、医療スタッフは壁の血を拭き取る暇もなく、生きている人の体から流れ出る血を止めようと絶望的な努力を続けていた。集中治療室で、僕は、生命維持装置につながれて呼吸だけ続けているヤセールを見つめた。集中治療室にいる者は、ヤセールを含めて全員が、頭か胸を撃たれていた。
……
1968年10月、北アイルランドのデリーで初めて行なわれた「公民権デモ」は、究極的には「私たち『ホワイトニガー』も人間として扱え」という要求でした。当時の北アイルランド自治政府はそれを弾圧しました。ものすごくはしょって書くと、「弾圧」は過激化し、「カトリック」のコミュニティ全体が締め付けられました。1971年夏には、「カトリック」のコミュニティを集中的に標的とした「テロ容疑者」の「一斉拘留(インターンメント、強制収容)」が行なわれ――同時期にプロテスタントの暴力も決して少なくなかったにもかかわらず、身柄を拘束された人々の9割以上がカトリックでした――、1972年1月30日には英軍がデモ隊に発砲し13人を殺すという「血の日曜日」事件が起き、たいした勢力もなかったProvisional IRAは人員確保に困らなくなりました。
そして、銃器所持や爆発物所持などを含むさまざまな容疑で逮捕・起訴され、英国では極めて例外的な「陪審なしの法廷」で形だけ法の裁きを受けた(結論は最初から決まっていた)「カトリック」の青年たちは、実際に起訴されたその罪状につき有罪であれ無罪であれとにかく放り込まれたメイズ刑務所(ロング・ケッシュ)で自由に交流しながら「自分たちの言葉」であるアイルランド語(ゲール語)や、政治学、文学などの勉強会を開いたりしていました。マイク・リーの映画『Four Days in July』でロング・ケッシュ経験者同士が窓拭きと顧客という立場で出会って、「あんた『大学』か、俺もだよ」と話に花を咲かせる、という場面がありますが、実際にそこは貧しいカトリックの青年たちにとって「大学」であり (実際にUniversity of Freedomと呼ばれていた)、出所後ほんとに大学に通って学位やPhDを取得した、とかいった話も珍しいものではありません。北アイルランドの「ピースプロセス」を動かした人たちには、そういう人たちが多く含まれています。
「カトリック」の側だけでなく、「プロテスタント」でも同じようなことがあり、UVFのリーダーだったオーガスタス・スペンスは獄中で「暴力は解決策にならない」と考えるようになり、勉強をして、彼の後にムショ入りする若いのを牽引して、「暴力」から「政治」へと向かわせました。こういった人たちは、出所後は、「暴力」史上主義の組織を「政治」の方向へと誘導する役割を、その限界の中で、積極的に果たしました。2007年1月に急死したデイヴィッド・アーヴァインもそのひとりで、彼の葬儀には「敵」の親玉であるジェリー・アダムズが参列、「プロテスタント」の会葬者たちも(ちょっとごにょごにょ言いながら)アダムズを黙って自分たちのテリトリーに受け入れました。
むろん、こういった人たちも完璧であるはずはなく、「平和」を語りながら「武装活動」を支持するなどしていたという事実はあるのですが、それでも、これが人間らしい「和平」じゃないかと私は思います。北アイルランドではこれが可能となるために、30年ほど要しました。その間、対立する勢力が互いに相手の「教育」のインフラを本格的に破壊する、ということはありませんでした。その上に、「和平」が可能になっていた(と書きながら、この和平プロセスの欺瞞も、自分の欺瞞も私は知っているので吐きそうですけど。)
イスラエルは、そういった「和平」の基礎となるもの、その土壌となるべきものを、国連の声も一切聞かず、根こそぎ、破壊しています。それでいて「和平」を望むことなど、できないでしょう。望んでいるのは「相手の屈服」か……何なのか私にはわかりませんが。
※この記事は
2009年01月11日
にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。
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