「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2009年01月11日

「イングランドの労働者階級は死んだ」とアンドリュー・オヘイガンが書いている文章があるのだが、長すぎて途中までしか読めていない。

「アイルランド成分が足りない」と書いたら、アイルランド成分が向こうからやってきた。私は自分に特別の能力が備わっていることを確信したので、教団を開くことにしよう。モニタ上の私のテクストから私の本心を見抜く能力のある人の存在も確認されたし、鼻水と頭痛と咳に悩まされながら、教団名を公募しよう……というのはむろん冗談だが、アイルランド成分が向こうからやってきたのは事実。

小説家のアンドリュー・オヘイガンの文章がガーディアンに出ている。

The age of indifference
Andrew O'Hagan
The Guardian, Saturday 10 January 2009
http://www.guardian.co.uk/books/2009/jan/10/andrew-ohagan-george-orwell-memoriallecture


オヘイガンは1968年生まれ。スコットランドの人だが、ファミリーネームは誰がどう見たってアイリッシュだ。小説はすごく評判がよくて、ブッカー賞ノミネートとかいった文壇の話題の記事で名前を見かける作家だ(→Andrew O'Haganの著作一覧@amazon.co.jp)。実はこの人の小説は脳内積読になったままなのだが(→読んだ方の感想はこちら)、彼が書いているのは小説だけではなく、LRBに2004年8月、米共和党党大会の時期のことを書いているのは読んだことがある。2008年には英国と米国の関係について書いた本を上梓したり(<この本、amazon.co.jpには入ってないみたい)している。今知ったのだが、デイリー・テレグラフの外部ライターとして書いてるのね。(ガーディアンのCiFに相当するコーナーで。)

ガーディアンに寄稿されているのは、「イングリッシュ・ワーキングクラスは死んだ――その伝統も価値観も、感傷主義と、セレブやクレジットカードの偽の約束に取って代わられた。今こそ、人々は自分たちの集合的な力と誇りの感覚を再発見すべきである、とアンドリュー・オヘイガンは主張する」(リード文より)という内容の記事で、記事にはMAGNUM PHOTO所属のMark Powerの「ワーキングクラスの家と子供たち」の素晴らしい写真がついている(この写真だけでも見る価値あり。ソファwww)。

アイリッシュでありスコティッシュであるオヘイガンが「イングリッシュ・ワーキングクラス」について書いた文は、次のような体験談で始まっている。

1976年の夏、うちで発生したある出来事が、国際関係というものについての僕の考えを揺り動かした。イングランド人がうちに泊まりにきたのだ。うちは誰かが泊まりにくるようなタイプの家じゃなかった。グラスゴウから25マイルも離れたカウンシル・ハウスで、騒々しいガキどもやら陰気臭い犬やら、親らしいことはしない親やら、サッカーのグローブやらであふれかえっていた。でもうちの父がコヴェントリーの建築現場である人と知り合って、それで軽々しく――というか、陽気に、ということかもしれないが――、ご家族と一緒に「ボニー・スコットランド(麗しのスコットランド)」(父は昔も今もそういう呼び方をする)に来てくださいよと言ったのだ。

彼らが来る前、何週間にもわたってああだこうだと話になり、時には涙さえ出てくる始末だった。母は即座にその人たちに「イングランド人 the English」という名を与え、(家事の)ストライキをしてやるからとまで言った。イングランド人なんて、何を食卓に出したらいいかわからないし、どういうところで寝るのかもわかんないわよ、と母が言っていたのを覚えている。朝食はコーンフレークなのかポリッジなのか、それともハロッズの豪華な食事なのか、と。

できれば、そのイングランド人がやってきたときには――全部で5人、ヒッピーが使うようなキャンピングカーから降りてきた――、すべてはうまく行き、ロバート・バーンズの地で平和と理解が勃発した、とここでお書きしたいところなのだが、実際にはそうではなかった。イングランド人は、まさにうちの母が予測していた通り、すぐに家を植民地化したのだ。子供らはベッドの上で飛び跳ね、電気ストーブを鼻で笑った。イングランド人の父親はその仰々しいイングランド訛りで延々としゃべりまくり、母親はお風呂をいただくわと上の階に直行してバスルームで煙草をぷかぷかだ。僕がイングランド人はやっぱり違うなと思ったのは、玄関のところで逆立ちをして母のwoodchipに足をもたせかけていたからだ。僕は、兄弟3人と一緒に、緑色のソファに黙って座っていた。父は『デイリー・レコード』(グラスゴウのタブロイド紙)を読んでいた。母は芳香塩を出してきて台所で料理をし、イングランド人の子供の一人が歌っていた歌は「バスタード(私生児)」という言葉が入った下品な歌だった。

「あの人たち、プロテスタントなの?」と僕は母に訊いた。

「ええ、そうよ」と母は言った。「しかもプロテスタントよりひどい」


……お茶ふいた。咳き込んだ。風邪の咳なのか何なのか、もう何が何だかわからない。

そしてげほげほと咳き込みながら、なぜかブレイディみかこさんのブログにアクセスして、「極道児リアーナ」についての文章とか、「ゴシック児レオ」のフィナーレについての文章とかを読み返して、げたげたと笑いながら、8歳のガキ(オヘイガンは1968年生まれなので、1976年の夏は8歳)が、「あの失礼な人たち」は「プロテスタント」なのかと母親に訊ねるというセクタリアニズムに、30年も前の話であるにもかかわらず、背中がぞくぞくする……と思ったらそうじゃなくて単に私は風邪引き……へぇくしょい。

オヘイガンの文章は続く。
そのイングランド人が南に帰ってしまってからずっと後まで、実際に何年も後まで、うちの家族の間ではあの夏の侵略の恐怖が何度も話題にのぼった。けれども僕には不思議でならなかった。イングランド人というあのエキゾチックな動物たちは誰なのだろう。……


そして、見事な展開を見せる。ここは英文のままで。
... my first experience of the English left me with the beginnings of a theory - that whereas the Scots and Irish were a people, a definite community, innately together and full of songs and speeches about ourselves, the English were something else: a riot of individualism with no real sense of common purpose and no collective volition as a tribe.

The following summer, the Queen's silver jubilee brought bunting and arguments to our street. Allegiance wasn't much of an option round our way, though the Orangemen of the town wouldn't have agreed, and soon another antithesis floated over the airwaves in the shape of the Sex Pistols, whom my brothers loved to death for singing "God save the Queen / She ain't no human being". We went through the motions with the ice cream and jelly on Jubilee Day, but everybody I knew thought the Queen was an English joke. The Sex Pistols sounded more like it, an altogether different kind of Englishness.

「王室」という存在の不思議さ。ピストルズの時代はどうだったのか私は直接には知らないし間接的にもほとんど知らないのだけれども、90年代に何かのきっかけで聞いた話からは、イングランド人はたぶん普段は何とも思っていないだろうけれど、スコットランドでは普段から「イングランド的なもの」として意識されているのだなあということを思ったことがある。

オヘイガンのこの記事は非常に長く、いくら私が風邪を引いていて、モニタを見て5分もすれば英文が4から5語ごとのぶつ切りにしか見えなくなってくる状態であるにしても、いつまで経っても読み終わらないなあと思ってワードカウントにかけてみたら、4500語くらいある。これは読み終わるはずがない。

読み終わるはずがないので読み終えることはとりあえず断念するが、非常におもしろい文章であることは間違いない。ページ末に、「George Orwell Memorial Lectureを編集したものである」とあるのだが(そりゃ4500語になるだろうよ)、文中に登場するのはジョージ・オーウェル、マーガレット・サッチャー、ゴードン・ブラウン、トニー・ブレア(端役)、トム・ネアン、などなど。そして、徹底して「個」であるというイングランドの(イングリッシュネスの)特質(スコットランドやアイルランドやウェールズのナショナリズムとまったく異なる何か)が、90年代後半以後はセレブなライフスタイルとクレジットカードの虚飾の生活(唐突にサッカレーを思い出した)に染まり、などなど。そしてイングランドの本質的な保守性(労働者階級がソーシャリスト・リパブリックとか言う代わりに黒シャツ方面を支持してしまうという歴史的事実)の話があり……って断片的にしか読めていないものについて書くのは無理だ。ここはどうか読み流してください。で、オヘイガンのテクストを読んでください。誤読とかミスリーディングな記述があったらごめん、スルーしてください。英文の読解力が著しく落ちていて、内容の予測がつかないもの(ガザは内容の予測がつくので読める)は、高校2年のときにバートランド・ラッセルを読んだ感覚……ってわかりづらいけどわかってください。つまり、単語は見えるんだけど文が見えない。

あ、「マーガレット・サッチャーの教育改革で精神が鍛えなおされた」とかいう妄言を信じている人は、こんなもの読んだらショックで倒れてしまうかもしれないです。その点はご注意。

で、今はこれを読むことを断念したところでふと思うのだが、そしてすごくぬるいことを書くかもしれないけど、私も日本社会のぎゅっとした感じというのがあったからこそ、「イギリス」に、つまり「イングランド」に関心が向いたのかもしれない。オヘイガン家がイングランド人襲来ですごいことになっていたころ、私は地球の反対側で『クマのプーさん』とか『たのしい川べ』とかを読んで、みんなこんなに好き勝手でいいんだ、とかいうことに、クラスのほかの子たちと意見(やほかの何か)が違ったら面倒なことになるかもしれないということが表面にぷかりぷかりしている心の奥底で、強く印象付けられていたのだと思う。学校的にはそういうのは「個性」って言葉で語られてたと思うけど、何か違うんだよ。あれは「個性」とかいう問題じゃない。

たのしい川べ (岩波少年文庫 (099))たのしい川べ (岩波少年文庫 (099))
Kenneth Grahame 石井 桃子

ピーター・パン (岩波少年文庫) The Wind in the Willows (Wordsworth Collection) クマのプーさん (岩波少年文庫 (008)) The Wind In The Willows (Penguin Classics) 砂の妖精 (福音館文庫)

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そういえば、『クマのプーさん』は、最初の作品がお目見えしてから80年となる今年、「新作」が出るらしい。

Comeback for Pooh after 80 years
Page last updated at 01:19 GMT, Saturday, 10 January 2009
http://news.bbc.co.uk/2/hi/entertainment/7821144.stm
The book - written by David Benedictus with illustrations by Mark Burgess - is out in the UK and US on 5 October.

The new book has the blessing of the A A Milne and E H Shepard Estates.

新作は、おはなしはデイヴィッド・ベネディクタス、さしえはマーク・バージェスで、英国と米国で10月5日に出版される。新作はA A ミルンとE H シェパード・エステーツからの認可を受けている。


※この記事は

2009年01月11日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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