「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2009年01月11日

【ガザ攻撃】「ガザの人々は単なる数字ではありません」&「ガザでは発電機が病院の電力のメインの供給源で、バックアップはありません」――ハテムさんの支援活動日記、1月8, 9日分(翻訳紹介)

2008年12月からのガザ攻撃についてのエントリは
「2008年12月ガザ攻撃」のタグで一覧できます。
記事クリップははてブ@Dec2008_Gazaのタグで。


国際支援組織「イスラミック・リリーフ」のハテム・シュラブさんの支援日記:
- 1月1日
- 1月2日
- 1月3日と4日
- 1月5日
- 1月6日
- 1月7日
これらに続けて、8日と9日の分を以下に日本語化します。

Aid worker diary
http://news.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/7802295.stm

彼の日記は、「イスラミック・リリーフ」のサイトにもアップされています(文面は基本的にBBC掲載のものと同じ)。
http://www.islamic-relief.com/Emergencies-And-Appeals/emergency.aspx?emID=47

8日の日記は、イスラミック・リリーフの支援活動ワーカーのひとりのごきょうだいがイスラエルの攻撃で亡くなったことなど、9日の日記は病院がどのような状況に置かれているかなどが書かれています。

ガザ:1月8日

この日記を書いていたら、ジャバリヤ難民キャンプにあるパレスチナ人の一家の家が爆撃され、一家が殺されたという知らせを受けました。

ジャバリヤは推計12万5千人が暮らしており、ガザ地区で最も人口密度が高いキャンプです。

殺された一家は父親と母親と息子で、アルジャロ家 (the Aljaro family) の人たちでした。この家のほかの人たちは負傷しています。

けれどもこの知らせのひどさはここで留まりません。一家の父親は、「イスラミック・リリーフ」での僕の同僚であるアラア(Alaa)のお兄さんなのです。

アラアは大丈夫かという確認のため、またお悔やみの言葉を言いたくて連絡を取ろうとしたのですが、彼への電話はつながりませんでした。

最終的には、アラアは無事だという連絡を受けました。でも、次に彼に会ったときに、僕は何と言えばいいのでしょう。

過ぎていく一日一日が、ますますひどい知らせをもたらし、一時間過ぎるごとに人間の不幸は増してゆきます。

ある地域で5人が殺されたという知らせが入ったかと思えば、その数分後には別の地域でまた人々が殺されたという知らせが入ります。

ガザの人々が、単なる数字になってしまいつつあるように思えます。

ガザの人々は単なる数字ではありません。生きていることを愛し、他者を慈しむ、非常に心の温かい人々です。

死んでしまった子供たちはみな、遊ぶのが好きでした。世界のほかの子供たちと同じように。

死んでしまった子供たちには、その子のことを深く愛している家族がありました。

イスラミック・リリーフの支援チームは今日、心理社会的サポートのプログラムを受けている子供3人のお父さんたちが亡くなったと知らされました。

この子たちは孤児になってしまいました。

イスラミック・リリーフは、紛争でトラウマを受けたガザの子供たちとプロジェクトを行なっています。このプロジェクトは、the Catholic Agency for Overseas Development (CAFOD) の資金で運営されています。

2000人の子供たちがこのプロジェクトに参加しています。プロジェクトの目的は、子供たちが喪失に対処するのを助け、子供たちにサポートとケアを提供することです。

この紛争と、父親たちを失うということが、(それぞれ父親を殺された)3人の子供たちに、長期的にどのような影響をもたらすことになるのでしょうか。

ひとつだけはっきりしているのは、爆撃が終わったとき――今すぐに終わってくれることを祈るばかりですが――、このプロジェクトはイスラミック・リリーフの活動で最優先のもののひとつになるだろう、ということです。

この12日間に多くの子供たちに会いました。子供たちの目には恐怖が見て取れます。

人々が非難してきているシェルターの状態はひどいものです。

電気はありません。調理用の燃料もありません。冬で夜は冷えるというのに身体を暖かくしておくための暖房など何もありません。

よい知らせとしては、イスラミック・リリーフの支援チームが、国連の避難施設3箇所に支援物資を届け続け、衛生キットや毛布を人々に渡すことができているということです。

また、ガザの病院で緊急に必要とされている薬品のリストも用意し、ガザ内部でそれらの薬品を購入し、ガザ外部からの支援の購入を調整し、それをガザ地区内部に入れる手筈を整える作業にも当たっています。

この日の日記で触れられている「心理社会的サポート」について、詳細は下記。
http://www.islamic-relief.com/wherewework/ProjectDetails.aspx?CountryID=PS&hcID=633

このプログラムの資金を出しているCAFODは英国に拠点のあるNGOで、1960年代にカリブ海のドミニカでの母子健康プログラムのためにカトリックの女性たちが始めた活動が原点。現在はアフリカ諸国(DRコンゴ、スーダン、ジンバブエなど)をはじめ世界各地で幅広く活動していて、HIV対策の活動も行なっています。

ハテムさんの日記はCAFODのサイトでも読めます。
http://blog.cafod.org.uk/tag/hatems/

次は9日の日記:
ガザ:1月9日

兄のラップトップでこの日記をタイプしています。バッテリーはあと1時間分。僕のラップトップのバッテリーは切れてしまっています。

これを書いている間にも、周囲から爆発音がしています。13日目になりましたが、ガザを攻撃する爆弾やミサイルの音に慣れつつあるとは言えません。

今日は「イスラミック・リリーフ」は支援物資を配ることがまったくできませんでした。爆撃があまりに激しかったからです。ガザの非常に広い範囲が、濃い黒い煙に覆われています。

昨日は食料を1000箱、地域の支援組織に配ることができました。そういった組織が、絶望的状況にある世帯にイスラミック・リリーフが支援を届かせるのを手伝ってくれているのです。これらの箱には8人家族が1ヶ月食べられるだけの食料が入っています。

今朝、カラー(Qarrah)地区で6人が殺されたと聞きました。全員が50歳以上でした。このコミュニティでは高齢者と考えられる年齢の人たちで、カラーのすべての人たちに尊敬され敬愛されていました。人々はショック状態です。

ガザの医療機関はメルトダウン状態にあります。病院では医師は重傷者を家に帰しています。ベッドが万床なのでそうする以外に選択肢がないのです。

家に返された人たちの多くが、すぐに病院で治療を受けなければならない状態で、世界のほかの場所であれば何週間も入院しているような人たちです。しかしガザは普通の場所ではありません。深い痛みと悲惨に満ちた場所です。

負傷者は、病院に到着して数時間後には自宅に帰ることを余儀なくされ、爆弾が落っこちてくるなか、自力で怪我から回復するしかありません。

手術室では医師不足が目に明らかです。ひとりの医師がひとりの患者の手術をしている間に、さらに2人の患者が緊急手術で運び込まれてきます。まさに不可能な状況です。

医師だけではありません。看護師もまるで足りていません。病院は看護学校の3年生や4年生の学生に病院に来て手伝ってほしいと頼んでいます。ほかにもボランティアが病院に頼まれています。そこまでしなければならないほどの状況です。

ガザはこの18ヶ月間包囲下にあった、ということを思い出すことが重要です。だから病院は(攻撃開始時には)既に医療に必要な備品が深刻に不足して困っている状態にあったのです。

アル=シーファ病院はガザ最大の病院ですが、それでも負傷者全員はみることができません。世界各地の病院で万が一電気に何かあった場合、緊急時のバックアップとして発電機が使われていますが、ガザでは発電機が病院の電力のメインの供給源で、バックアップはありません。もし発電機がちゃんと動作しなければ、医師にできることは何もありません。手術の間にもこれが起きる可能性があります。

イスラミック・リリーフは、定期的に病院に行き、医薬品を届けています。しかしガザで燃料が尽きて発電機が動かなくなったら、いったいどうなってしまうのでしょう。

ガザではほとんどの人たちが既に電気のない生活をしています。多くの人たちには発電機は手が届かないからです。

考えをまとめてこの日記を書こうと座っているときにも、頭が真っ白になることがよくあります。ガザの苦難の規模すべてを処理することはあまりにも難しいからです。

ここで何が起きているかを説明するための言葉を見つけるのに苦労することもよくあります。ここで着ていることを正確に言い表せる言葉など、辞書にはないと思います。




……言語屋としては、最後の一文が刺さりすぎて、動けなくなる。この事実に対する防御能力を高めないと、私はハテムさんの報告を読むという作業が続けられなくなってしまう。

「言葉もない」とか「言葉が出てこない」という表現(英語でいうときには I'm speechless. とか Words can't describe this. とか)は決まり文句だけれども、実際に、本当に言葉では無理だ、という状況は必ずある。しかもハテムさんにとっては英語は外国語だ。いかにしっかりと身につけていようとも、それは外国語だ。

……ほんとに刺さりすぎた。

※この記事は

2009年01月11日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 07:00 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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