kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2008年11月15日

「それはアートではない」――マイケル・ストーンに有罪判決

そもそも、あれが「パフォーマンス・アート」として通るわけがなかったんだけどね。

2006年11月24日に、爆発物と凶器を持って、ストーモントの建物に突撃を試みて入り口で取り押さえられ、起訴されていたマイケル・ストーンの裁判で、有罪との判断が下された。

Stone convicted of SF murder bids
Page last updated at 17:52 GMT, Friday, 14 November 2008
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/northern_ireland/7729744.stm

乱入のあったこの日は、北アイルランド自治政府 (Stormont Exective) の再起動に欠かせないプロセスが進むのか進まないのかについて決定的な日だった。日本の新聞社までもがベルファストに記者を入れていた。彼ら報道陣の目の前で「乱入事件」は起きた。BBCの記事にはそのときの映像がエンベッドされている。

後に法廷で、マイケル・ストーンは自身の行動について、そのようにメディアが集まっている機会を狙った「パフォーマンス・アート」であった、と述べた

1988年3月16日にマーティン・マクギネスとジェリー・アダムズを標的としてミルタウン墓地を手榴弾と拳銃で襲撃し、彼らではなく一般の人たち3人を殺した(このほかにも何件もの殺人をおかしているが)この「テロリスト」は、グッドフライデー合意での「政治犯釈放」の規定どおりにメイズ刑務所から釈放された後、近年は「画家」として生計をたて、子供たちに絵を教えるなどの「コミュニティ活動」を行なっていた人物だ。

今年5月には被告側に美術の専門家が協力しているとの報道もあった。要するにストーンの行動が「パフォーマンス・アート」と呼べるものだと説得力のあるやつをひとつ、お願いします、ってことなんだけど、これはそう依頼されても困ると思うよ。明らかに「殺人のためには常識的に考えて無力なもの」を持っていたのなら「アート」といわれればそうなのかも、ってことで納得できてたかもしれないけど、そうではなかったのだから。

BBC記事から、今回の「有罪」の判断についての詳細:

Loyalist killer Michael Stone has been found guilty of trying to murder Sinn Fein's Martin McGuinness and Gerry Adams at Stormont in November 2006.

He was also convicted of seven other charges, including possession of weapons and explosive devices.

【概要】マイケル・ストーンは、2006年11月にシン・フェインのマーティン・マクギネスとジェリー・アダムズを殺害しようとしたとして有罪となった。また、武器・爆発物の所持を含む7件でも有罪となった。


「爆発物所持」は何の説明もいらないほど明白なのだけれど、「殺人未遂」はかなり踏み込んでいるといえるかもしれない。また、BBC記事に記載はないが、「7件」の中には「建造物損壊 criminal damage」も含まれている(ずっと下の方にURLを貼ったベルテレ記事を参照)。議事堂の入り口横の壁にスプレーでスローガンを書いた件だと思われる。あと、爆発物を投げたときに床が破損したりしているのかもしれない。あの豪奢な建物のすごい大理石の床が。

BBC記事によると、ストーンはモストーモントのドアのところにいる女性警備員にモデルガンをつきつけ、IED (improvised explosive device) ……もとい、バッグに入れてあった爆発物に着火し、バッグをドアのところから数ヤード向こうに投げた。バッグの中の爆発物は、花火と可燃性液体とブタンガスのキャニスター1本と起爆装置複数(fuses)だったが、起爆に失敗した(雨で濡れたことと関係あるかも)。ネイルボムも7つ所持しており、それらは殺傷能力のあるものだった。このほかにナイフ3本、手斧1丁とギャロット1本を所持していた。

判事は、ストーンは単に爆発物を準備してストーモントの敷地に入っただけではなく、「建物内に入りバッグの中の爆発物に着火している」ことによって「一線を越えた」と述べている。そしてこの「爆発物」は「シン・フェイン幹部(マクギネスとアダムズ)を殺害するという被告人の計画にとって必要なものだった」、ゆえに単なる「準備」とは判断できない、としている。

また、逮捕後に警察に対し、ストーン本人が何度も目的はアダムズとマクギネスを殺すことだと語っていたこと、あの日ストーモントに向かう途中で投函した新聞社(ベルファスト・テレグラフと、ロンドンのイヴニング・スタンダード)への手紙(→過去記事参照)も、そういう内容で書かれていたということにも注目している。(この手紙の「持ち物リスト」に書かれているものは、実際にすべて所持していたようだ。)

「手紙」について、2006年のエントリから:
同じ日付のベルテレさん宛ての書簡……には「パフォーマンス・アート」とは一言も書かれておらず、また自身のことを(アーティストではなく)「freelance-dissident loyalist paramilitary(どの組織にも所属していない、主流派とは考えを異にするロイヤリスト民兵)」としており、シン・フェイン党のジェリー・アダムズとマーティン・マッギネスを標的とする、連中はテロリストだから民主主義に基づいた政治的権力を手にする資格などない、と書かれていることを指摘している。

http://nofrills.seesaa.net/article/29907949.html


実際ストーンが「アートです」と言い出したのは少し後になってからだった。

被告側はおそらく何かを受信してそういう方向で法廷で「戦う」ことにしたのだろうけれども(つまり、「新聞社への手紙も含めて『アート』です」という説明を考えた)、「破れかぶれ」としか言いようがない。実際そうだったのだろう。

こういう戦術に出た背景には、マイケル・ストーンが過去に「政治的暴力」(別称「テロ行為」)で有罪となり、本来の服役期間を満たす前にグッドフライデー合意で「特赦」のかたちで釈放されている、ということがあるだろう。彼ら「元政治暴力犯」(「元テロリスト」)たちは、再度「社会にとっての脅威」となれば刑務所に戻されることになっている。

ストーンがどう主張したところで、検察側は、銃の扱いに長け爆発物も触れる彼が「野放し」の状態になっていることは「社会にとっての脅威」だとするだろう。それは説得力があるなんてもんじゃない、明白だ、と判断されるだろう。刑務所に逆戻りは避けられない。そこでストーン自身が考えたのが「私はアーティストである」ということだったのだろう……と考えるのが、自分としては最も辻褄が合っているのだが。

しかし、何とも……。判事がこれをまともに「アート」扱いしなかったことに安心するという反応しか出てこない。

一方スラオさんでは、「ターナー賞もののパフォーマンス・アートだとの解説を理解しない判事!」みたいな茶化し記事がポストされている。コメント欄は「芸術論」で多少盛り上がっているが、さほどでもない。「殺人未遂」が認定されたことについては、「奴の頭の中のファンタジーでしょ、実現の可能性などまったくない。ただのショーだったのだから、『アートです』っていう弁護はある意味言いえて妙だ」というようなコメントがあるが。あと、最初の弁護団がやめていることとかも。

基本的には茶化しでいいと私も思う。まともに取り合う必要など微塵もない。ロイヤリスト武装組織でさえストーンとは距離を置いていて、彼を「俺たちにはできないことを平然とやってのける」的に扱っているということは、私がふつうに見ている範囲では確認できない。(そういうのを探そうと思えば見つかるのかもしれないけれども。)ちなみに、単独でミルタウン墓地襲撃を行なったマイケル・ストーンという人物は、かつてはロイヤリストのヒーローとして崇められていた人物だ。「われわれの戦争」における「勇敢なる兵士」として。そのことは、近年メディアで「紛争」を振り返る番組に出演していたストーン本人も誇りとしていた。2006年11月の議事堂乱入は、私がそういう「戦争における兵士の誇り」というものを(かなりゆっくりとではあるが)理解はしようとしていたときに起きた。茶化して済ませるにはこの人物は複雑すぎるような気もする、正直なところ。

というところで、本家、ベルファスト・テレグラフ。

Final bitter rant as Michael Stone is taken down
Saturday, 15 November 2008
http://www.belfasttelegraph.co.uk/news/local-national/final-bitter-rant-as-michael-stone-is-taken-down-14064388.html

判決公判について非常に詳しく書かれた記事。こういうのは地域メディアならではだと思う。

まず、判事の言葉:
... Delivering his judgment in the non-jury trial at Belfast Crown Court, Mr Justice Deeney rejected this theory as being "wholly undeserved of belief".

The judge said the idea that Stone was taking part in some sort of a "comic parody" was "hopelessly unconvincing" and "self-contradictory".

"I am satisfied that Mr Stone went to Stormont to try and murder the two Sinn Fein leaders on November 24 2006," he said.

「まったく信用するに値しない」、「どうしようもないほど説得力に欠ける」、「そもそも矛盾している」。「被告人は同日、シン・フェインの2人のリーダーを殺害しようとしてストーモントに行ったということで私は納得している」(<法廷での言い回しをあえて直訳してあります)。

また判事は、仮にストーンが、自身が述べているように「問題点」にスポットライトを当てるために一連の「襲撃パフォーマンス」を企画し実行したのだとしても、そのために「暴力を使用すること、その可能性で脅すこと、他者を危険にさらすこと」は認められない、とはっきりと述べた。ストーンが所持していた焼夷性爆発物とネイルボムはおもちゃではなくviableなものだという検察側の証拠にも判事は納得している。

このベルテレ記事によると、判決公判の日に出廷したストーンは関節炎がひどくなっていて身体がまともに動かず(これは2006年11月のストーモント襲撃事件のときからそうだった。だから「本気で襲撃できると考えていたわけではない」ということになるのだけど)、法廷内を移動するときには他人の手助けを受けなければならない状態だった。傍聴席はガラガラだった。

記事には、警察の取調べのときにストーンがどう述べていたかもかなり詳細に記載されている。この事件について調べたい人には、かなり資料性の高い記事だと思う。

ベルテレさんからもう1件、今度は署名記事。

Michael Stone: 'Unreliable witness whose testimony is undeserving of belief'
By Lesley-Anne Henry
Saturday, 15 November 2008
http://www.belfasttelegraph.co.uk/news/local-national/michael-stone-unreliable-witness-whose-testimony-is-undeserving-of-belief-14064387.html

判決後、退廷を命じられたストーンは、「戦争ではなくアートを。またシナーへの譲歩か (Make art, not war. Another concession to the 'Shinners')」と叫んだという。これについて記者は「取材に来ていた17人の報道陣に向けた言葉、新聞の一面の見出しになることを狙ったもの」と冷たくあしらう。実際、どのメディアも冷たくあしらっている。

53歳のストーンには9人の子と10人の孫があるが、傍聴席には友人や家族や支援者の姿はなかったという。寂しいのぅ……。

襲撃の当日、「メディア映えするように」ひげなどを整えていたという彼は、判決の日は「トレードマークの全身ブルーのデニムといういでたち」で(しかもストーンウォッシュなのよね、この人)、前の記事にもあったように、法廷の係官に支えてもらって被告人席に入った。判決公判は開始予定時刻を何十分も過ぎてから始まり、判決文の読み上げは2時間に及んだ。

でもBBCの記事はあんなに短いし、ガーディアンのヘンリー・マクドナルドの記事も短いし("Make art, not war" はさすがにおもしろかったのか、ヘンリー・マクドナルド記事の締めになってるけど)、ベルテレも、メディアの中では最も詳しく報じているけれど短いし、そもそも「ストーン担当」になってる記者すら出てこない(判決当日のウェブ版では、少なくとも)。

むなしいのぅ……。

UDAはわかりづらい怪気炎を挙げているし、ストーンが主張していた「IRAの戦争犯罪」についてのプレッシャーも高まっているが、そういう中にあってもマイケル・ストーンという男は、完全に「過去」として扱われ、「狂人」として扱われている。

これが「政治的な道」を取らず、ギャング化もしなかったひとりの「ロイヤリスト」の末路、ということだろう。



今回の判決は有罪か無罪かを述べるのみで、量刑は後日(12月)言い渡されることになっているのだが、マイケル・ストーンは1988年のミルタウン墓地襲撃事件で終身刑(最低30年)を言い渡され、12年経過したところでグッドフライデー合意で釈放されているので、それだけでも18年残っている。これに今回の「殺人未遂」などでの量刑も加算されることになると思う。(量刑については、出た時点でコメント欄でアップデートします。忘れなければ。)

裁判はBelfast Crown Courtで行なわれているが、北アイルランドではこういうものについては陪審なしになるので(→Diplock courtsを参照)、「陪審が有罪との評決」といったプロセスがない。このようなnon-jury trialを、ある程度は「俗に」だが、北アイルランドでは "a Diplock Court" と呼ぶ。これ、豆知識な。(これは知らないと北アイルランドについての調べものはいろいろ引っかかると思う。あっちではあえて説明しない当たり前のものという扱いだから。)



ほかの新聞の報道。

Michael Stone guilty of plot to murder Gerry Adams andMartin McGuinness
http://www.timesonline.co.uk/tol/news/uk/crime/article5157115.ece

タイムズのこれもそうだし、BBCの記事もそうなんだけど、襲撃事件の2006年11月24日のことを、"Ian Paisley and Mr McGuinness were due to be nominated as Northern Ireland's new First and Deputy First Ministers" って説明してんだよね、微妙なことに。実際にはあの日は確かにそういう予定だったのだけど、ずっと前から「結局喧嘩別れになるでしょ」という観測があって、実際にストーンの襲撃があろうとなかろうと両党の歩み寄りはなかったはずなのに。ていうかペイズリーとマクギネスのペアが成立することになったのは、翌2007年1月のシン・フェイン党大会での警察支持決議と、3月のペイズリー・アダムズ直接会談があったあとのことで。

デイリー・テレグラフは記事が見つからない。インディペンデントはNIについてはベル・テレでOKだし。

APとかロイターとかAFPとかも報じてはいるけれど、特にみるべきものはない。



ストーンについてはベルテレのこの記事がいい。書きとめておきたいので要旨を。

Loner Stone with a 'penchant for publicity'
Saturday, 15 November 2008
http://www.belfasttelegraph.co.uk/news/local-national/loner-stone-with-a-penchant-for-publicity-14064349.html

かつて彼は手をポケットに入れる必要なしでベルファストの街路を闊歩していたロイヤリストのヒーローだった。しかしこんにちでは見る影もない。マイケル・ストーンはぼろぼろになって、笑い者になって、刑務所に戻る。

法廷にはかつての関係者の姿もほとんどなかった。かつて友人だったというある人物は、ストーンのことを、ロイヤリズムの大義よりもスポットライトを浴びることにどんどん取り付かれていった「一匹狼 loner」だと評する。

かつてメイズ刑務所で同じウィング(UDAウィング)にいたこの人物は、2006年11月のストーモント乱入事件の真の動機は、ただ注目を浴びたかったことにある、と言う。「刑務所の中ですら、エゴか大義か、どちらがこの男にとっては大きいのだろうと思わされた」。

ストーンは1988年にミルタウン墓地襲撃で3人を殺して一躍有名になった。北アイルランド紛争全体を通じて最も暗い時代だったあのころ、新聞の一面やテレビ画面に現れた、ひとりの地味なパラミリタリーの長い髪と取り付かれたような目。彼はロイヤリストの集まるパブでみなが口々に語るような存在となった。

プロテスタントの住宅街では、ミルタウン墓地での彼の行動を描いた壁画が出現し、襲撃時に彼が着ていたヴェストは、スコットランドのロイヤリストのクラブでのオークションで£10,000の値で落札された。

のちに明らかになったのだが、ストーンのミッションはミルタウンが最初ではなかった。そして、本人はこのほかにもまだまだあると言っていた。そのすべてがカトリックとリパブリカンの暗殺だ。ただし彼が関わっていると主張しているもののうち、少なくとも3件は、彼とは関係がないのではないかと思われる。まだ実行犯がわかっていない事件について、自分がやったのだということにするつもりだったのではないかとの指摘もある。

(1988年の事件後)彼は合計で700年近くの計を言い渡され、メイズ刑務所に送られた。そこでジョニー・“マッド・ドッグ”・アデールらロイヤリスト武装組織のボスと仲良くなった。

乱入事件をアートだと言うなど残念なことになっているが、古くからの関係者は、ロイヤリストの間ではストーンはミルタウン事件のことで記憶され続けるだろう、と言っている。「ロイヤリズムの内部の人々はストーモントでマイケルがやったことでがっかりしている。ショックを受けたとさえ言える。あの時代に戻りたいという人などいないのだから。しかしそれでも、彼はロイヤリストの一部の間では、これからも尊敬され続けるだろう。IRAと断固対決した人物として」

マイケル・ストーンがアートへの関心を高めたのはメイズ刑務所の中でのことだった。2000年にGFAにしたがって釈放されると、彼は画家として再出発をはかった。作品の多くは非常に高額で売れた。本人の話では£30,000ともいう高値だ。ただし絵として評価されたのか、作者で値段がついたのかは微妙なところだが。

ストーンは2003年に自伝 "None Shall Divide Us" を出版し、そこでロイヤリスト・ムーヴメントの中でいかに地歩を固めていったかを綴っている。だがその説明についてはウォルター・ミッティー的なものだとの評価がされている。自身の役割と影響力を過大に書きすぎだ、と。

別のUDA関係者も、ストーンがロイヤリズムの中でビッグプレイヤーだったことは一度もない、と述べている。「マイケルは中枢から遠いところにいた。常に周縁にいた。一匹狼だったといってもいい」

メディアはストーンのことを「殺人犯で現在は画家」と書いていたが、釈放後に彼がやっていたことといえばまずテレビ出演だ。話題がアートであれ過去であれ、しょっちゅうテレビに出ていた。その最も有名な例が、BBCのFacing the Truthだろう。番組ホストはデズモンド・ツツ大司教で、北アイルランド紛争での暴力の被害者と加害者を向かい合わせたこの番組で、ストーンは自身がミルタウンの前に殺害していたダーモット・ハケットの夫人と対面。そこでストーンは「ひきがねを引いたのは自分ではない」と述べた。ハケット夫人は最後に握手のために手を差し出したがすぐに手を引いて、泣きながら部屋から出て行った。

その件は別としても、彼のテレビ出演はだんだんと減っていった。今回の公判で検察は「あなたに当てられていたライトは弱まり、あなたはだんだんと誰でもない存在になっていった。そこでまた世間の関心を集めたいと思ったのですね」と述べた。「ひとつ申し上げたい。あなたはエゴの塊で、常に注目を集めていたいだけです、まだ終わっていない仕事を完成させている人物だとして。そしてその仕事は、最後にアダムズとマクギネスを殺すことで完成する。そういうことですね」


それと、Michael Stone factfile, ほとんどが自伝からのまとめだと思いますが。
http://www.belfasttelegraph.co.uk/news/local-national/michael-stone-factfile-14064386.html

これによると、マイケル・ストーンは1955年4月2日にイングランドのマンチェスターで生まれた。彼が5ヶ月のときに母親が出奔、これにより北アイルランドの父方のおば夫妻に預けられた。本人はアングリカンで洗礼を受けているが、実母は旧姓をオサリヴァンという。

東ベルファストのワーキングクラスのロイヤリストの住宅街で育った彼には5人のきょうだいがおり、親友で後に一緒にギャング活動(これはありがちな少年グループで、あまり深刻なギャングではありませんが)をやることになった「ラット」・トッドは、1981年にハンストを率いたボビー・サンズのいとこだった。高校の何級か上にジョージ・ベストがいた。学校でのあだ名は「フリント Flint」で、今もこれを署名に使っている。少年時代は教会の合唱団に所属していた。あるとき学校の教師に殴られ、「家の人には転んだのだと言いなさい」といわれ、権威に対し反感を抱くようになった。14歳で銃を扱うようになる。……あとは記事でどうぞ。1970年代のUDAの内部抗争とかも絡んでいて、かなり劇的です。(自伝はもっと劇的。「ロイヤリストの勇敢な兵士」としては虚飾、虚言も多いだろうけど。)

※このエントリは、念のために、コピペないし自分で調べもせず簡単な編集だけで自分が書いたことにしちゃうような形での営利利用対策として、全体には差しさわりのない部分で、意図的に偽の記述を混入してあります。慎重を期したい場合は、各自ソースを当たってください。その「誤訳」を発見した方は(原典をみればすぐにわかる「誤訳」です)、コメント欄に投稿せずスルーしてください。

※この記事は

2008年11月15日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 20:43 | Comment(1) | TrackBack(0) | todays news from uk/northern ireland | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
刑期16年です。長っ。

Michael Stone jailed for 16 years
Monday, 8 December 2008
http://www.belfasttelegraph.co.uk/news/health/michael-stone-jailed-for-16-years-14098889.html

以下、引用:
Handing down his sentence, Mr Justice Deeney said he had decided not to give Stone a life term on the grounds that his actions had not resulted in any serious injury and the fact that he suffers from a degenerative muscle wasting condition which, he acknowledged, would see him confined to a wheelchair in the future.

However, the judge said he also had to take into account the serious offences that Stone had already committed before his attack on Stormont.

"He could hardly have a worse criminal record," the judge said, "and I do take into account the very grave offences of which he was convicted in 1989."

Stone, who in 1989 was convicted of six murders, including the three men he killed at Milltown Cemetery, was released on licence in 2000 under the terms of the Good Friday Agreement of 1998.

He now faces the revocation of his licence on an outstanding 30-year tariff.

で、ストーン側の弁護人は、ストーンが今後身体の自由を失っていくことや、メイズ刑務所でモー・モーラムと会見して「北アイルランド和平プロセス」を決定付けたことを理由に情状酌量を求めたそうですが、でも16年。

記事のクリップは:
http://b.hatena.ne.jp/nofrills/Michael%20Stone/
Posted by nofrills at 2008年12月09日 09:00

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼