「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2008年11月11日

BBC Radio 4, 「内なる敵」――IRA潜入スパイという事実

土曜日、アイルランド共和国のCounty Wicklowで発見された遺体が、1981年に行方不明になった当時19歳の男性のものである可能性が高い、という報道が、月曜日の夜(現地時間)にBBC Newsに出た。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/northern_ireland/7721146.stm

この19歳の男性、ダニー・マッキロン(と読むのかな、Danny McIlhone)は西ベルファストの人で、北アイルランドのいわゆるthe Disappearedのひとりだった。

The Disappeared(失踪者)とは、北アイルランド紛争においては、IRAによって英当局と通じているなどの疑いを抱かれ、拉致され、おそらく拷問されて殺害され、遺体を遺棄された人たちのことをいう。ただ、ダニー・マッキロンは「当局のスパイ」の疑いがあったのではなく、IRAの武器を盗んで強盗を行なったとされて、殺されたのだそうだ――今から9年前、つまりGFAの翌年にあたる1999年にIRAが出したステートメントによると。失踪から(というか拉致から)18年後のステートメント。

さて、今月、BBC Radio 4で "Enemies Within" という2回連続の番組が放送される。パート1は7日に既に放送され、パート2は14日の放送だ。いずれも、放送後7日間はBBCのウェブサイトで好きな時間に聞くことができる。入り口は下記。
http://www.bbc.co.uk/programmes/b00f8mzl/episodes/2008

「内なる敵」とは、IRAに潜入していた英当局のスパイのことだ。番組はBBCのジャーナリストがその関係者にインタビューしてまとめたもので、30分番組(正味27分くらい)。

番組のサイトから、内容:
Ruth McDonald investigates the world of the British intelligence services' informers, who operated in Northern Ireland throughout the Troubles. She finds out what motivated them and their handlers to risk their lives, and why they are still reviled by the communities in which they operated. Featuring an interview with Michael McConville, whose mother was abducted and shot by the IRA for being an alleged informer.

(ジャーナリストの)ルース・マクドナルドが、北アイルランド紛争において北アイルランドで活動していた英情報当局のインフォーマーの世界を調査。どのような動機があって、インフォーマーやそのハンドラーが、自信の身の安全が脅かされる危険をおかしたか、なぜ彼らはいまだに活動域としていたコミュニティで意味嫌われているのか。インフォーマーであるとされ、IRAによって誘拐され殺害された女性の息子であるマイケル・マコンヴィルのインタビューを交えてお届けする。

パート1は日曜日に聞いた。聞いたはいいが、ちゃんと聞き取れたと断言できるのはBBCのジャーナリストの言ってることだけで、肝心のインタビューが……怒涛のベルファスト弁。中にはかなり早口の人がいる。しかもインタビューされている人の数が多いので、「英語の聞き取り」に集中していると、どこの声が誰なのかわからなくなって話が追えない。2度聞いたけど、あたしじゃむりだ、これは。(^^;)

番組紹介文に出ている「マイケル・マコンヴィル」の母親は、70年代に拉致され、拷問の末に殺害されたジーン・マコンヴィル (Jean McConville) という女性だ。彼女はいわゆる "the Disappeared" のシンボル的な存在である。そして彼女をはじめとする「失踪者」の運命は、「IRAがいかに残酷なことをしたか」というコンテクストで語られることが多い。

実際にIRAが残酷なことをしていたということは改めて書くまでもないほどわかりきったことだ。だが、以前にこのブログのどこかに書いていると思うが、ジーン・マコンヴィル事件はそのなかでもとりわけひどい。

ジーンは1934年、東ベルファストのプロテスタントの家庭に生まれ、カトリックの男性と恋愛して結婚したときにカトリックに改宗した。「北アイルランド紛争」と呼ばれる事態が始まり、東ベルファストのセクタリアン暴力が激化すると、カトリックのマコンヴィル一家は西ベルファストのカトリックのエリアに転居を余儀なくされた(プロテスタントのいやがらせが激しかったのだ)。その後、夫は1971年に死去、ジーンは10人の子供を女手ひとつで育てていた。

あるとき、マコンヴィル家の暮らしていたフラットの近くで、英軍とIRAの銃撃戦が発生した。ジーンは重傷を負った英軍兵士を介抱した。これが致命的だったのかもしれない。「元プロテスタント」の彼女は、IRAによって「インフォーマー」であると断定され、子供たちを家に残したまま拉致され、どこかに連れ去られた。1972年12月のことだ。一番下の子は6歳(双子)だった。

それから31年近くが経過した2003年8月、ビーチを散策していた人が偶然、一体の遺体を発見した。遺体はジーン・マコンヴィルのものと断定された。

IRA(とシン・フェイン)は、拉致から20年あまりも経過したときにようやくジーンの殺害を認めているが、ジーンは確かにインフォーマーであり、その殺害は刑法でいう「犯罪」にはあたらない、と主張し続けている。しかし2006年に警察オンブズマンが出した結論は、ジーンがインフォーマーだったという事実はないというものだった。(たとえIRAが言うとおり、彼女がインフォーマーであったとしても、その殺害は「戦争犯罪」だ。)

これは、トニー・ブレアとその政権が推進した「北アイルランド和平」で、(とりあえずは)闇の中に置き去りにされた数多くの「犯罪 criminal act」のひとつに過ぎない。

BBC Radio Fourの今回の番組は、ジーンの拉致当時11歳だった息子のマイケルをはじめ、何人もの関係者のインタビューと、そのときどきのBBCの報道の音声で構成されている。ただしシン・フェインはこの番組の出演(か何かの)要請を断っているので、番組には出てこない。シン・フェイン関係者では、つい先日「冤罪」が判明したダニー・モリソン (former director of publicity for Sinn Fein) が出ているが、シン・フェインとしての見解を述べているわけではない。

マイケル・マコンヴィルとダニー・モリソンのほか、「元インフォーマー」として名乗り出ているケヴィン・フルトンもインタビューに応じている。

そして、今回初めてメディアの取材に応じたという人物も。

番組のインタビュー内容で最も重要な発言は、番組放送前にBBC NIに出ていた記事に、かなり編集した形で掲載されている。これを読んでから聞けば、話もわかりやすくなるだろう。

Informant questions unanswered
Page last updated at 15:29 GMT, Wednesday, 5 November 2008
原文:
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/northern_ireland/northern_ireland_politics/7711089.stm

ブライアン・メイナード(本名ではない)は、自宅の居間のリクライニング・チェアに座り、昔の仕事を回想している。

彼は既に引退し、自宅で家族とくつろいでいるか、ゴルフをしていることが多い。しかし過去においては、彼は30年にわたって北アイルランドの情報収集作戦の中枢にいた。かつてのRUCスペシャル・ブランチで、インフォーマーを動かし、インフォーマントのハンドラーを訓練していたのは、彼だった。

「これらの人々の中には、自分が生まれた地域から一歩も出たことのない人もいるんですよ、信じられないかもしれませんが」と彼は回想する。

「例えば『ニューカッスルで会おう』とか『バンゴーで会おう』と言っても、彼らには何のことだかわからない。こちらが彼らの住んでいる地域 (area of occupation) に入っていけば、また人海戦術 (manpower intensive) [で劣勢]になり、こちらが[スパイだと]突き止められるか、[スパイとして潜入させている]彼が突き止められるかする危険が生じます。」

「ありうる範囲で最悪の妥協は、スパイのハンドラーがスパイと一緒にいるときに撃たれる場合ですね。というのは、ハンドラーが傍らに死体となって転がっていれば、情報を集めているとは見えないとしか言いようがありませんから。まあ、自分自身がまだ生きていれば、ですが。」

ブライアンらスペシャル・ブランチのメンバーは、英国ではほかのどこでも試されたことのなかったインテリジェンス・システムを発明していたと言えよう。

レイモンド・ホワイトはかつてのRUCでスペシャル・ブランチのトップを務めていた人物だが、「紛争」が始まる前はファーマナで地域のおまわりさんをしていた。

「棚から取り出して読める教科書などなかったのですよ」と彼は語る。

「ACPO (Association of Chief Police Officers) も、スコットランドやウェールズの警官も、これを読めと渡せるような材料はなかった。なぜなら、こんなことは誰も、いかなるかたちでも経験したことがなかったからです」

「だから、入手できるものを見るにしても、1969年に内務省が出した1ページ半のガイドライン程度でした。しかも、その当時は『組織犯罪』というものも認識されてすらいなかったし、ましてやテロリズムなど……把握するのに大変な思いをさせられました」

その大変な思いをさせられた中には、ケヴィン・フルトン(本名ではない)のような人物もいた。彼は元エージェントで、IRAについてのインテリジェンスを治安当局に渡したことによって多くの命を救ってきたと主張している。

私たち取材陣は、ロンドンのホテルでフルトンに会った。9月の暑い日だったが、彼は厚手の青いジャケットを着こんで現れた。

インタビューが半ばまできたころ、注文していたお茶がようやく出てきたが、そのとき彼はジャケットの前を開いて、長いワイヤーのついたマイクを取り出した。

彼は平静な口調で、取材陣が彼を「裏切った」場合に備えて録音していたんですよ、と言った。

「基本的には、私はテロリストにならなければならなかったんです」と彼は落ち着いた語り口で言った。「毎日毎日休みなく、嘘偽りの生活を送らなければならなかった」

ハンドラーに対しては親兄弟のような感覚を抱いたという。

「全員が、ひとつのビスケットの缶の中に生きていたのです」

「みなが同じ戦争を戦っていました。秘密の戦争を。私の秘密は彼らの秘密でした。みなこの小さな世界に生きていた、スパイ戦争をしていたんです」

彼の話によると、最も近い関係にあった人たちですら、彼が何をしているかには気付いていなかった、という。

ある晩、テレビを見ていて――皮肉なことに、インフォーマーについての番組だったが――、これを機に、家族に対し自分が何をしているかを打ち明けようと思った。

「家内に『あのな、俺もこういう人たちと同類なんだ』と言ったら、家内は笑いましてね。頭がおかしいんだと思ったんですね。で、私は『本当だよ、俺もこういうののひとりだ』と言ったんですが……それで足元ががらがらと崩れたというか」

ブライアン・メイナードにも[スパイだと]露見することの危険はわかりすぎるほどわかっていた。

「何人かは国(北アイルランド)の外に出さなければなりませんでした。そうしなければその人たちが撃たれていた」と彼は回想する。

「インフォーマーとして仕事をしながら、家族にはまったく何もわからない、という人たちもいました」

「この仕事につきものの危険があるから、家族にも言えなかったんです……もし話したら、特にリパブリカンの思考パターンでは、家族が当人を見捨ててしまうかもしれない。だから、家族は身内の者が情報を流しているとは知らずにいたんです――身内の誰かが命を救っているのだということも、爆弾や強盗を阻止し、手足を吹き飛ばされたり誘拐されたりする人が出ないようにしているのだということも、知らずにいました」

しかし、北アイルランド警察オンブズマンをしていたデイム・ヌーラ・オローンは、RUCのインフォーマントの扱いには深刻な疑問があるのだと語る。

スペシャル・ブランチがどのようにインフォーマントを動かしていたかを調査した彼女は、ひとつのかたい結論にたどり着いた。

「法を遵守していなかったのです」

「定石として書類を処分し、インフォーマーが関わっていることについて誠実で正確な報告をせず、現場の刑事たちには情報を与えず――それが与えられていれば、殺人事件やほかの凶悪犯罪の実行犯がわかっていたかもしれないのですが……これらは法律に違反することでした」

ブライアン・メイナードは「私は30年もやってきたんです。こんにち手に入るもので私を判断しないでください」と言う。

「私も、私と一緒に仕事をしていた人たちも、情報を得てそれをプロとして扱いました、当時私たちに利用できたものに基づいて……それから30年です」

レイモンド・ホワイトは、法を犯すすれすれのところまで行ったことを認めている。しかし彼は、インテリジェンスとははっきりとした決まりごとで動いているわけではないと述べる。

「たまに木を見ることができれば御の字、ましてや森をみることなど」。

しかしヌーラ・オローンは、未来への教訓として生かすため、過去はここでまた直視されねばならないと言う。

「なんら答えの得られていない問いが、あまりに多くあるのです」。

「私が思うに、その根幹は、構造というものがないから、プロセスというものがないからです。インフォーマントを動かすときにルールに乗っ取って動かしているわけではなく、インフォーマントがますます多くの犯罪(違法行為)を犯すような状況を彼らが作ってしまったんです」

「そして、ある段階で、彼らがインフォーマントを動かした方法が、状況を悪化させたのではないかという問いが出てくるはずです。そこから、では何が学べるのか、と」

「イングランド&ウェールズ、スコットランドと北アイルランドにとっての、そして、そのほかの地域にとっての教訓とは何か……地球規模のテロの脅威にさらされているのですから」


記事に出ていないインタビュイーとしては、マイケル・マコンヴィルはお母さんがインフォーマントと断定されてある日いきなり連れ去られ、何十年も経ってから白骨遺体と対面するという経験を語り、ダニー・モリスンは……なんだっけ。最初にジャーナリストにお茶を勧めたところしか覚えてない。(^^;) とにかく全体的に話がえぐすぎてよくわからなくなりました。結局は英当局のしたことは「多くの人命を救った」というジャスティフィケーションが行なわれているし。確かに、インフォーマントがいたことで爆弾や銃撃で失われる命は少なくなっていたかもしれないけれど、それがコミュニティに残した傷というものはね……それに、デニス・ドナルドソンを忘却したわけじゃあるまい。

というわけで、また番組を聞き直したら書き足すかもしれません。

興味がおありの方は、番組は聞けるうちに聞いておいたほうがいいと思います。

※この記事は

2008年11月11日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 14:49 | Comment(0) | TrackBack(0) | todays news from uk/northern ireland | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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