「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2008年11月08日

サヴィル・レポート、1年延期

私が2008年02月12日に書いたことから:
1972年1月30日、 20歳でアートスクールの学生だったマーゴ・ハーキンはその場にいた。そして、帰宅して見たテレビで報道されていたことと、自分が自分の目で見たことのあまりの違いにショックを受け、映画制作の道に進むことを決意した――北アイルランド映画祭のために来日しているマーゴ・ハーキン監督は、9日の上映後の質疑応答のときにそう語った。

「デリー・ダイアリー ブラディ・サンデーのその後」 Bloody Sunday - A Derry Diary
2007年、マーゴ・ハーキン監督・制作
http://www.niff.jp/films-derry.htm
http://www.imdb.com/title/tt0938609/

この映画は、事件から26年も経過した1998年に開始された「サヴィル・インクワイアリ」を追ったものだ。「サヴィル・インクワイアリ」とは、1997 年に成立した労働党ブレア政権下で実現した「ブラディ・サンデー事件」の真相究明ための公式なインクワイアリ(調査)である。膨大な数の証人から聞き取りが6年間にわたって行なわれ、2004年に調査の段階は終了したが、当初確か2006年8月には出るとの予定だった最終報告書は遅れており、いまだに出ていない。

このインクワイアリを実現させるまでの道のりは、決して平坦なものではなかった。……


それから約9ヶ月が経過した。

今ごろは、サヴィル・インクワイアリの最終報告書が出ているはずだった。

出ているはずだった……

Year's delay for Saville report
Page last updated at 21:41 GMT, Wednesday, 5 November 2008
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/northern_ireland/foyle_and_west/7711536.stm

orz ...

今年2月の北アイルランド映画祭で東京にいらしていたマーゴ・ハーキンさんは、作品上映時のトークで、「英国のマスコミはこのインクワイアリについていくら費用がかかっているだの、どのくらいの時間が費やされているだのということを繰り返しています」とおっしゃっていた。それがまた、長引くのだ。

証言量が膨大すぎるのと、事件が昔すぎるのと、撃たれた人の数が多すぎるのとで、整合性のある最終報告書が形にならないのだろうと私は認識している。そして、その元々の原因は、事件直後のウィジャリー・レポートの雑さにあったのだということも認識している。

それでもしかし、orz ...

※もうちょっとマトモなことは改めて書きたいと思います。とりあえず、メモ兼ご閲覧のみなさまへのお知らせ(アップデート)として。

記事クリップ:
http://b.hatena.ne.jp/nofrills/Bloody%20Sunday/

※この記事は

2008年11月08日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 21:52 | Comment(0) | TrackBack(0) | todays news from uk/northern ireland | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼















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