「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2008年11月08日

「兵士たちは質問も何もせず、ただいきなり撃ったんです。息子は教師だったのに」

ジュミ・カセレカは母親に、ツチの反乱勢力の兵士は何もしないから大丈夫だ、と言った。だって僕は兵士じゃなくて、学校の教師だよ。それに、マラリアで動けやしないんだし。だから母さんは、みんなを連れて街から脱出してくれないか。

ローラン・ヌクンダの反乱勢力がキワンガ (Kiwanga) の街をフツ武装勢力から奪い、住民に街から出て行くよう命令していた。

だが、(母親の)フェリスタ・マスカは出て行こうとしなかった。数時間後、ヌクンダ配下の兵士のひとりが、土と小枝で作られたこの家のドアを押し開け、そして、一言も口にせずに、26歳の学校教師を外に引きずり出した。兵士は、彼の頭を撃ち抜いた。

「兵士たちは質問も何もせず、ただいきなり撃ったんです」。昨日、息子(の遺体)が毛布の上にのせられて埋葬のために運ばれたとき、マスカはそう語った。「きっと、若い男は全員片付けるというのが目的なのでしょうね。息子はね、教師だったんですよ。わたしはそう言おうとした。でも兵士は息子を撃ったんです」。


これが、14年前のあのひどい出来事の回想だったら、どんなによいだろう。ここ数日、この地域について目を通すのはそんな記事ばかりだ。

「世界」が、「アメリカ合衆国初の黒人大統領」が誕生するかどうか、「選挙戦の終盤」に目を注いでいたころ、サラ・ペイリンが「ひとつの国」だと思っていた「アフリカ」のある場所で、マラリアで寝込んでいた26歳の学校教師が、母親の目の前で射殺されるようなことが起きていた。

africa-mapsdrc.png「ある場所」とは、コンゴ民主共和国(DRC; 旧ザイール)の東部、ルワンダ、ウガンダとの国境のほうだ(縮小したのでわかりづらくなってたぶんかなりズレてると思うけれど、地図で赤い点をつけたあたり)。このあたりはコルタン、スズなど天然資源に恵まれている。そして、この地域でローラン・ヌクンダ将軍と彼の傘下の兵士たち(DRCの中央政府に対する「反政府勢力」)が「ツチのコミュニティを守る」として武装活動を――「武装活動」などという言葉はヌルすぎるのだが――行なっている。DRC政府は彼らを「ルワンダの回し者」と見ている。それがあるところに、今回のひどい「戦闘」、いや「攻撃」が起きているのだが、BBCの解説ではこうなった原因については「はっきりとはわからない」としている。

というところで、ガーディアン掲載、クリス・マクグリール記事。このエントリの書き出しの部分は、マクグリール記事の冒頭2パラグラフの、「(過度に)原文に忠実」ではない翻訳である。マクグリールの文の凄みを私の日本語が伝えることができるとは思わないが、ないよりはましだろう。

今回のDRCでの事態の背景なんか把握してなくたってかまわない、『ホテル・ルワンダ』とか『ルワンダの涙』とかいった映画をみて、「1994年にあんなひどいことがあったなんて」とか「あんなにもひどかったのか」と思った人は、辞書と首っ引きで時間かけてでも、読むべき記事だ。ていうか読んでくれ。(私も全体像をしっかり把握してから読んでいるわけではない。こういうのを読みながら少しでも知ろうとし、できる範囲で細かいことをひとつひとつ確認しながらこれを書いている。間違ってるところがあったらコメントください。)

'The soldiers didn't ask any questions. They just shot him'
Chris McGreal in Kiwanga
guardian.co.uk, Saturday November 8 2008 00.01 GMT
http://www.guardian.co.uk/world/2008/nov/08/tutsi-rebels-congo-laurentnkunda

ガーディアンでは、昨日まで「オバマの笑顔」が連発されていたトップページの「写真」のスペースに、このエントリで触れたクリス・マクグリールの記事の写真を持ってきている――キャプチャ画像では縮小してあるが、非常にショッキングな写真だ(縮小されていなくても、そんなにはっきりとした写真ではないのだが)。

drc.png

マクグリール記事の3パラから8パラ:
ヌクンダが住民は出て行けと命令したキワンガでは、街に残っていた成人男性はシステマティックに殺されているという証言がほかにもある。寝込んでいて歩けないからといって、ベッドから引きずっていかれた人もいるという。

ツチ武装勢力は、街に残っていた男性は、マイマイ団や1994年のジェノサイドを行なったルワンダのフツ勢力のメンバーを含む敵なのだ、と言う。

確かに戦士もいた。しかし、殺された人々の多くは――赤十字社はその数は数百にものぼるだろうとしているが――教師や国連職員、健康状態が悪くて出て行こうにもできなかったり、自分には反乱勢力は何の恨みも抱いていないと思い込んでいた高齢の農民だった。キワンガの裏通りを移動すると、熱帯の気温で腐敗していく人間の肉のあの独特のにおいが、閉ざされたドアの向こうから漂ってくる。死体が路上に放置されたままになっていることもあるし、埋葬のために街に戻ってきた家族によって運ばれていった死体もある。舗装されていない道の表面に血だまりの跡が残されている。

街から戦闘の音がしてきたとき、ジョルジュ・ヌバヴモヤは畑で野菜の世話をしていた。彼は58歳の農学者で、国連食糧農業機関でスーパーバイザーを務めており、地域で尊敬される人物だ。他の農夫たちは畑の中で身を伏せたが、彼は家に残してきた2人の娘の身の安全が心配で、街に戻っていった。

家族の話によると、ヌバヴモヤがドアから入ってくると、ヌクンダの兵士が1人入ってきてカラシニコフをヌバヴモヤの鼻に当て、ひきがねを引いたという。ヌバヴモヤの後頭部は吹き飛ばされた。昨日、彼は一家の敷地の一角に埋葬された。

彼の娘たちは、10代と24歳の学生であるが、行方がわからなくなっている。

マクグリールの記事はまだまだ続く。少し先に行くと、「路上に放置された死体は、ふつうのズボンの上に軍パンを履いている。コンゴの暑さでそんな服装は不自然だ。地域の人々は、ヌクンダの兵士が(死体に)軍パンを履かせていると言う。死体の身元は地元の人にもわからないというから、この辺の住民ではないのだろう」といった記述もある。ヌクンダの勢力がキワンガを押さえた経緯についても書かれている。

そして最後には、「フランス語」と「英語」についても。



クリス・マクグリールは現在、ガーディアンのアフリカ特派員。元々商船乗組員をしていたそうだが、BBCのメキシコ・中米特派員としてジャーナリストとなり、インディペンデントを経て1992年からガーディアンで南アフリカを拠点に活動。2002年から4年間、エルサレム特派員となるが(このころの仕事もすごい)、2006年に南アフリカに戻り、現在に至る。
http://www.guardian.co.uk/profile/chrismcgreal

上に紹介した記事の前日、11月7日には、「コンゴのツチ反乱勢力が一般市民を殺害しているとの非難」という記事:
http://www.guardian.co.uk/world/2008/nov/07/congo-tutsi-hutus-kiwanja-rwanda
The UN peacekeeping mission, which did not intervene from its nearby base despite its mandate to protect civilians, said it was investigating the killings.


その前からずっと、正確には10月末に戦闘がひどいことになってから、マクグリールはコンゴに入って取材している。下記に主要なものだけ。

Between rebels on the rampage and army on the run
Oct 31 2008
http://www.guardian.co.uk/world/2008/oct/31/congo-crisis-laurent-nkunda-un

Miliband flies to Goma as rebels advance
Nov 1 2008:
http://www.guardian.co.uk/world/2008/nov/01/congo-david-miliband-united-nations

'While I was away, five of them came to my house and killed my son'
Nov 2 2008:
http://www.guardian.co.uk/world/2008/nov/02/congo-goma-refugees

FAQ: Crisis in the Congo
Nov 2 2008:
http://www.guardian.co.uk/world/2008/nov/02/congo

Fresh Congo fighting forces aid workers to withdraw
Nov 5 2008:
http://www.guardian.co.uk/world/2008/nov/05/congo-aid

10月末以降、BBC Newsのトップページ (international edition) でも、「リセッション」関連か「オバマ」関連でよほど大きなニュースがなければ、「DRコンゴ」がほとんど常にトップページのトップ記事になっていた。

現時点で最新、8日付のBBC記事は、ケニアの首都ナイロビでアフリカ7カ国の政治指導者と国連事務総長の緊急会合が開かれ、即時停戦、国連治安維持部隊の権限拡大、人道支援のルート確保などの呼びかけがなされた、と報じているのだが、戦闘はますますひどくなっているらしい。
Unnamed UN officials say Angolans are fighting with government troops.

New clashes between government and rebel forces have broken out near Goma.


※記事クリップは下記に:
http://b.hatena.ne.jp/nofrills/Congo/



バラク・オバマについて調べていて、次のようなことを知った。International Rescue CommitteeというNGOのサイトから:
http://www.theirc.org/news/the-irc-welcomes-new-us-law.html
The IRC Welcomes New U.S. Law on Congo

05 Jan 2007 - The IRC welcomes the passage of a new U.S. law calling for a clear and comprehensive federal policy toward the Democratic Republic of Congo.

The IRC worked closely with the bipartisan group of U.S. senators who sponsored the Democratic Republic of the Congo Relief, Security and Democracy Promotion Act, which was signed two weeks ago by President Bush. The act ... authorizes bilateral U.S. aid to Congo, requests the continued presence of United Nations peacekeepers in the volatile eastern part of the country, and calls for appointing a U.S. special envoy to help end the ongoing conflict in the east.

...

... The bill was first introduced in December 2005 by Senator Barack Obama (D-Illinois) together with a bipartisan group of co-sponsors, including Senators Sam Brownback (R-Kansas), Dick Durbin (D-Illinois) and Mike DeWine (R-Ohio).

英語版ウィキペディアにソースつきで記載されているのだが、この法律は、バラク・オバマがlawmakerとして初めて実現させたものだそうだ。(In December 2006, President Bush signed into law the Democratic Republic of the Congo Relief, Security, and Democracy Promotion Act, marking the first federal legislation to be enacted with Obama as its primary sponsor.)

米国とDRコンゴという二国間関係を前提としたこの「支援」のプログラムは、外交としては定石なのかもしれないけれども、何かをするのに別なことを「口実」として(例えば、ほんとは資源利権を押さえたいときに「わが同胞の安全を確保する」など)いくつもの勢力が入り乱れているときには、どうなのだろう……とふと思う。いろいろと、いやなものが頭をよぎる。政府側民兵の支援、とか。かつては冷戦の「ソ連という脅威」を理由/口実にしていたものが、今は「民主主義」とか「自由」、「人道」といった抽象的概念を理由/口実に……とか。うむー。



追記@11月9日:
国連がDRCでのこの事態について「戦争犯罪」という言葉を使いました。ローラン・ヌクンダの武装組織についても、政府支持の武装組織(民兵組織)についても、です。

UN alleges war crimes in DR Congo
Page last updated at 18:24 GMT, Saturday, 8 November 2008
http://news.bbc.co.uk/2/hi/africa/7717720.stm

【要旨のメモ】※翻訳ではなくメモですが、引用でくくっておきます。
今週、ヌクンダの勢力がキワンジャ (Kiwanja: ガーディアンではKiwangaという表記) を制圧した際に、複数の民間人が殺されたということが報告されている。国連は、調査官が調べているが、何が起きたのかはっきりしたことはまだわからないとしている。

8月以降、政府側と反乱勢力との戦闘で、推計で25万人が家を失い、難民化している (displaced)。

国連DRCミッション (Monuc) トップのアラン・ドスは、州都ゴマの北80キロに位置するキワンジャでの事態について、「別々の武装勢力によって一般市民が標的とされ殺害されている」と述べ、"We condemn them, we deplore them" という言葉を使い(「非難する」、「遺憾である」の厳しい英語)、「事態に関与するそれぞれの集団に対し、この点について国際法ははっきりしているということを改めて強調しておく。これらは戦争犯罪であり、我々はこれを看過することはできない」(AFPの取材に対し)。

国連の調査は、HRWが一般市民が自宅で殺されているとの報告に続いて行なわれた。これらの殺害は、政府側武装組織がキワンジャの街を取ろうとしたときと、街から去ったときの両方で行なわれている。

少なくとも26人が殺されたことが判明しており、UN軍スポークスマンはBBCに対し、交戦の巻き沿いになった人もいるだろうが、標的とされて撃たれた人もいると述べている。

反乱勢力は、自分たちが攻撃したのは、武装した政府側民兵だと述べているが、殺された人たちが戦士であるということを示す証拠はないと報告されている。

一方でケニアの首都ナイロビでは、アフリカ諸国のリーダーの会合が行なわれ、即時停戦とUN平和維持部隊の権限拡大、人道支援のルート確保が求められた。DRコンゴの政府は、UN平和維持部隊が反乱勢力が民間人を殺すのを止めることができなかったと批判している。また、ルワンダが反乱勢力を支援しているとの非難があるが、ゴマで世界各国のメディアの取材に応じたUN平和維持部隊に参加しているウルグアイの軍人は、DRコンゴ政府側はアンゴラの軍によって補強されていると指摘している。彼の話では、4日前にアンゴラ軍が到着しているという。また、このほかに2人の目撃者が、BBCに対し、アンゴラ軍を現地で見たと語っている。

アンゴラは(DR)コンゴの同盟国であり、DRCのカビラ大統領から軍事支援の要請を受けている。しかしアンゴラ政府は直接的介入はしないとしている。アンゴラはジンバブエとともに、1998年から2003年の戦争でDRCを支援した。

DRCミッションでの国連の平和維持部隊は17,000人、これは国連平和維持活動で世界最大の規模である。しかしこの事態の影響を受けている地域にはUN平和維持部隊は数百名しかいない。国連が殺戮 (killings) を予防できていないとの批判は、人権団体からもあがっている。

※この記事は

2008年11月08日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 20:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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