「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

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2008年11月02日

"talking to a dead man" ――ロング・ケッシュを経験した人の映画Hungerのレビュー

Hunger映画『Hunger』について、10月22日のガーディアンに、Ronan Bennettの記事が出ていた。かなり長くて、内容的に読むのがきつい記事だったのでプリントアウトしておいたのを、今ごろ読んでいる。

Life and death in Long Kesh
The Guardian, Wednesday October 22 2008
http://www.guardian.co.uk/politics/2008/oct/22/maze-prison-film-northernireland-hunger

筆者のローナン・ベネットは1956年生まれ。1974年、まだ学生だったときに警官殺害容疑で逮捕・起訴され、ディプロック法廷(北アイルランドだけで実施されていた陪審なしの法廷で、当時のNI自治政府がこれを合法化する法律を作った。現在も残っている)で有罪の判決を受け、ロングケッシュ(メイズ)刑務所に送られたが、翌1975年には控訴し、その結果、無罪判決を受けてメイズから出た。その後イングランドに渡ったが、1978年には爆発共謀の容疑で逮捕され、16ヶ月間拘置(この件も無罪)。それからロンドンのキングズ・コレッジで歴史を修め、後にPhDも取得。その後小説や脚本の仕事で高い評価を受けている。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ronan_Bennett
http://www.contemporarywriters.com/authors/?p=auth02B12L504012626559

私はこの人の小説はまだ読んだことがないのだが(すみません、怠惰で)、昨年大騒ぎになったマーティン・エイミスの不勉強な発言に対する緻密で冷静な反論が記憶に残っている。ガーディアンには昨年、新刊を出したときのインタビューもある。

というわけで、1974年に「ロング・ケッシュの中」を体験しているローナン・ベネットが、1981年のハンストに至る時期をスティーヴ・マックイーンが描いた映画『Hunger』をレビューしているのが、上記のガーディアン記事だ。(わかりづらいのでURL再掲)
http://www.guardian.co.uk/politics/2008/oct/22/maze-prison-film-northernireland-hunger

記事は、大まかに、前半がベネットの回想、後半が映画のレビューになっている。

ロング・ケッシュは、元々は英空軍の施設だった場所だ。それが、1971年の「インターンメント(一斉拘留)」で引っ張ってきたリパブリカン/ナショナリストの人たちを入れておく「収容所 detention centre」となり、「囚人」たちは空軍施設時代のニッセン・ハット(カマボコ型のあれ)に入れられていた (source)。ベネットがやってもいない罪で有罪となりぶちこまれていた1974年はまだそのままのような状態で、あの「Hブロック」はまだ存在していなかった。「囚人」を入れておく「房 cell」はなく、「檻 cage」だった。そして、1974年、英国の直轄統治下で導入されたSpecial Category Statusは、「囚人たち」は「一般の犯罪者」のステータスではなく、「特別なカテゴリ」の、つまり「政治犯」のステータスだと位置付けるものだった――少なくとも名目上は。BBCの特集ページによると、1974年末までに、ロング・ケッシュに収容された「政治犯」の人数は1,100人を超えていたそうだ。(その中にはジェリー・アダムズらも含まれている。)

ローナン・ベネットの記事は、ある日のロング・ケッシュの様子の描写から始まっている。私にはとても「翻訳」は無理だが(どうやってもベネットの言葉を殺してしまう)、ネタバレしてしまうと、1974年10月のある日、収容されている彼らがニッセン・ハットに火を放ち、「暴動」のような状態になった(→詳細)。そして運動場(サッカーのグラウンドになっている)にいた彼らの頭上から、ヘリがCSガス(あるいはほかのガス)を浴びせた。

CSガスについては、例えばデリーやベルファストの街で使われたときの様子の言葉による描写は多く読んできたが、ベネットのこの言葉は最も鮮烈な印象を与える。
The panic gas induces temporarily overthrows everything you think you are, or hope you might be. It's the violent desperation of a drowning man who will clutch at anything, even a child, even his own child. With gas, courage certainly goes. So does any sense of solidarity, the thing of which Long Kesh's republican prisoners were so proud. When you are fighting for breath, tears streaming down your face, snot in your nostrils and bile in your mouth, it becomes every man for himself. ...

どうやっても言葉を生かすことができないので、「翻訳」ではなく「内容の説明」だが、書かれていることはだいたいこんな感じだ――ガスのせいで、一時的に、自分らしさというものも、自分が保ちたい態度というものも吹き飛んでしまう。水に溺れて何にでも、子供にでもわが子にでもすがろうとするような感じになる。ガスを浴びせられると勇気など消し飛んでしまう。ロング・ケッシュのリパブリカンの被収容者の誇りであった連帯感でさえも消えてしまう。自分が呼吸することもままならず、涙が止まらず、鼻がつまり、口の中に変な味が広がって、自分のことしか考えられなくなる。

つまり、まさに「我先にと」という状態になる、ということだ。日ごろどんなに強くあっても。

そして、2面あったサッカーのコートの1面からもう1面の、まだガスが立ち込めていないほうへと人々がドアを通って殺到すると、ヘリはそのもう1面のコートにもガスを散布する。そして、また元のコートに戻ろうと人々が我先にと争う。元のコートに戻ればまたガス散布。

どんだけサドですかという。

英国政府は、当時、特に必要とされる法的手続き(逮捕、起訴)もないまま引っ張ってきて捕えておいた人たちに、Special Categoryというステータスを与えつつ、こういうことをしていたのだ。(まあ、インターンメントは英国政府じゃなくてその前のNI自治政府が強行して導入したものなのだけど、何のいいわけにもならんよね。)

ベネットは、この「ガス散布」→「逃げる」→「逃げた方にガス」→「また逃げる」→「またガス」……というのが何度繰り返されたかを思い出せないが、最後の方には誰かが転んでしまい、母親を呼んでいたのは覚えている、と書いている。そして、完全防備の当局側に対し、箒の柄などで抵抗し続ける囚人もいたが、結局全員降参し、全員がケージに連れ戻され、殴打が始まった、と。

その後、ベネットは次のように続けている。
私が学習したのは、収容施設を燃やすんなら春にやるべきだ、ということだ。これが起きたのは1974年10月で、その後数週間の間、私たちは屋根も壁もない、というか、残骸を寄せ集めて作ったひどく粗末な小屋にもならないようなもので過ごすことになる。髪は伸び放題で無精ひげもそのまま。用を足すには、マンホールの蓋をとって下水管に直接する。きっと体臭もかなりすごかっただろうが、全員がひどい臭いをさせているとあまり気にならないものだ。灰色の毛布の中央に切れ目を入れて頭を通し、ポンチョにした私たちは、寒さの中、互いに身を寄せ合って歌を歌い、ジョークを飛ばし、政治の話をいつまでもし、尽きることなく将来のことを語った。時にはただひたすらタガが外れたようになることもあった。ある夜など、一種の集団的同時多発バカが蔓延し、大の大人が鬼ごっこ&かくれんぼ大会で駆けずり回る事態となった。私はあまりにゲラゲラ笑いすぎていて走ることができず、真っ先に捕まってしまった。

そんなことがあってから、徐々に状況は改善し、運動の時間、面会、出廷、サッカー、アイルランド語の授業、読書の時間に性的欲求不満といったロング・ケッシュ暮らしのリズムも戻ってきた。新たに入ってくる奴もいれば出て行く奴もいた。釈放と逮捕が繰り返され、常にぐるぐると回っている状態になっていた。そんなこんなで私たちのケージに入ってきた中に、穏やかな口調で話すが内面ではとても固い意志を抱いたデリー出身の奴がいた。名前はパッツィ・オハラといった。パッツィはデリーのバリケードで英国人に撃たれたことがあり、今回が初めてのおつとめというわけではなかった。彼は、5年後の1981年5月21日、ハンストで61日間絶食ののち、23歳で死んだ。前の闘争も経験している30代や40代の人たち、私たち若い者から見れば老いぼれたよぼよぼの連中もいなかったわけではないが、ロング・ケッシュや(ベルファストの)クラムリン・ロードの男たちも、アーマー刑務所の女たちも、みな、本当に、若かった。

当時、インターンメントで引っ張られた人たちは、ベルファスト近くのロング・ケッシュと、ベルファスト市内のクラムリン・ロード(ここは19世紀からの刑務所)に入れられ、女性はアーマーの刑務所に送られていた。ダーティ・プロテストのときのアーマーの様子を描写した文章を見たことはあるが、私としては、読むのに挫折するほどすさまじいものだった。

パッツィ・オハラは1957年生まれだから、ベネットと1歳違いで、1977年に20歳、1981年にハンストで死んだときは23歳だ。基本的に健康なこの年齢の人間が、絶食して、自分の身体が内部から「食われて」いくのを実感しながら死んでいくというのはどういうことか、今は50歳を超えて、当時「30代や40代」の人たちのことを「老いぼれのよぼよぼ」と見ていたと書いているベネットの文の行間を、5秒でいいから読み取ろうとすべきだろう。

ベネットはここで書いていないけれど、ロングケッシュのニッセン・ハットには、ボビー・サンズもいた。ジェリー・アダムズもいた。そこらへんの街角を模したバックドロップの前で記念撮影、のふりをしたあの有名な写真も確かニッセン・ハットで撮影されたものじゃなかっただろうか(確認サボります)。

ベネットの文は、このあと、「Hブロックの建設」の時期のことに移る。

あるとき、それがいつだったのかは記憶していないのだが、何か不吉なことが起きているのに気付いた。刑務所が改築されていたのだが、前とは違うのだ。鉄骨を組んだところに、建設作業員が太いホースからコンクリを流し込んでいる。今建設されている新しい棟は、私たちがいたようなニッセン・ハットにケージではなく、壁のある建物だ。作業は急速に進んだ。同時に、英国政府は、私たちに与えられていた政治犯のステータスが――アイルランドの北部で起きていることは、犯罪が爆発的に発生しているせいではなく、政治的危機の結果であるということを政府が暗黙のうちに認めているということだったが――終えられようとしていた。1976年3月1日以降に有罪を宣告された囚人は、こちらのケージには入ってこない。房に入れられるのだ。囚人服を与えられるのだ。壁に囲まれるのだ。Hブロックに閉じ込められ、犯罪者として扱われるのだ。

当時の英国政府――(労働党の)ハロルド・ウィルソンが首相だったが――が、囚人を孤立させ囚人服を着せさえすれば折れるだろうと考えていたことは、英国が敵とするリパブリカンのことをいかに理解していなかったかを、彼らがアイルランドの歴史からろくに学んでいなかったということを、雄弁に語る。1974年10月のロングケッシュで示されたように、100人ずつ入れたケージが数十あって、コントロールできるものではない。しかし1つの房に1人だけなら、脅せばおとなしくなるだろう。これが公式な考えだったのだ。しかし国家は政治的なモチベーションのある囚人たちの決意のほどを見誤っていた。スペシャル・ステータス打ち切り後に最初に有罪となったキアラン・ニュージェントという若いリパブリカンの行動で、英国の考えがいかに救いがたいほどに浅はかだったかが示されることになる。彼は囚人服の着用を拒否し、最初の「ブランケットマン」となった。すぐにジャッキー・マクマランが続いた(ジャッキーと私は学校で同級生だった)。それから後、何百人もの囚人が囚人服を拒否して毛布をまとった。ブランケットマンは殴打されても虐待されても劣悪な環境に置かれても耐えた。……

このように、囚人服着用と囚人の孤立に抗議して1976年3月から始まった「ブランケット・プロテスト」は、やがて「ダーティ・プロテスト」に進み、1980年秋のハンスト、81年3月のハンストへと進む。

ここまできて、ベネットの文は、急に、しかし自然に、映画『Hunger』のことに移っていく。ベネット自身は、ブランケット・プロテストが始まる直前に釈放され、その後のロング・ケッシュのことは直接は体験していないが、「ライターとして私は、正直なところ、マクイーン監督の芸術とヴィジョンに、脚本を書いたエンダ・ウォルシュの素晴らしく、同時に独特のフレーミングに、トム・マカラーの秀逸なプロダクション・デザインに、そしてサンズを演じたマイケル・ファスベンダーの献身と完成度の高さに、感嘆せざるをえない」と書き、その後は同じフィールドで仕事をする立場から、この映画についての非常に丁寧な解説になっている。

そして、「説明」とか「解説」が一切欠落したこの映画は、監督と脚本家が、観客は見ればわかるという信頼があってこそできたものだ、と。実際、何がすごいってそこだと私も思う。日本で「社会派」と呼ばれるような映画の多くが「説明」のための「台詞」でこなしていることを省いて、「映像」と「音」と、ほんの少しの「言語」と、ごくごくわずかな「音楽」で綴ったこの映画は、一昔前なら「映像詩」として売り出されていても不思議ではない――そこに描かれる絵はあまりにグロテスクかもしれず、「映像詩」という言葉と実際のあの映画のギャップに、それを思いついて書いている私も違和感をおぼえるのだが。

以下、ベネットのレビューから、単に抜粋する。リーアム・カニンガムが演じた「神父」(出世の順番的に弟に先を越されたリパブリカン・サポーター)のモデルとなった神父さんについても書かれているが、そういった「バックグラウンド解説」ゆえにではなく、単に「ことば」というものにやられてしまった。淡々と、映画について説明をしていくこの文章の最後に。
... the actor's real achievement is in his reproduction of Sands' unsentimental idealism, resilience and determination. "A big engine" is how he is described by Liam Cunningham playing Father Moran (based on Father Denis Faul, the worldly, canny country priest who was first admired by republican prisoners but fell into disfavour after he condemned the movement for, as he saw it, manipulating the hunger strikers). The scene between Sands and Moran comes more or less in the middle of the film, when Sands has announced his intention to go on hunger strike and die if necessary. It's as unexpected as the squeegee scene. A two-shot lasting 20 minutes or more, two intelligent men with wary mutual respect, but with opposing moral and political standpoints, squaring up, jabbing, neither able to land the knockout blow, the sadness of what will shortly unfold hanging over them (Walsh's dialogue here is pitch perfect). Everyone who knew Sands understood that when he went on hunger strike he would go all the way. Moran is talking to a dead man.


Unsentimental idealism, resilience and determination.

A dead man.

ERASED BITS. (Father Moran said it was "suicide" in discussing what Sands was about to do.)

※この記事は

2008年11月02日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 22:55 | Comment(2) | TrackBack(0) | todays news from uk/northern ireland | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
昨日、デリーの映画館で"Hunger"を見ました。

mixiにちょっとした報告を書こうかと思って、事実確認のためにググってたら、偶然このサイトに行き当たりました。

北アイルランドに関して、これほど詳しく、事実に忠実に、しかも共感して読めたサイトは他になかったと思います。

私は連れ合いがボグサイト出身(生まれた家がマーティン・マクギネスんちの隣・・・)で(だから、発砲事件があったブッキーの記事の写真は「あら、あそこなの」と笑ってしまった)、どうしても交友関係はカトリック中心になるので、プロテスタント側、あるいは英国側からの記事や視点の紹介はとてもためになります。

それに英語力もまだまだ(というか、老化で頭に入らない)で、新聞読んでても「?}なところも多いんで、その解説も助かります。

これから少しずつ、前のブログも読ませてもらって、勉強します!
本当にありがとう。これからもよろしくお願いします。

(名前は本名を入れるべきなのか、わからなかったので、ちょっと迷いましたが、とりあえず。意味、わかります?(笑))

ところで、連れ合いが、「イランにボビー・サンズから取ったボビー・サンズ・ストリートがあるそうだ」と言ってるんですが、真偽のほどがわかりますか?
Posted by preabsanol at 2008年11月07日 18:19
preabsanolさん、
おおお、デリーですか。コメントありがとうございます。デリーで、お連れ合いさんがマクギネス家のお隣さんとは。。。

私自身、NIに足を踏み入れたこともないのにこんなことやってていいのかなとときどき思うのですが、「外部」の人間にしか持ち得ない視点があると思って、軸足を「英国のメディア」に置いて、ブログでNIについて書くことを続けています。それでもまだ、北アイルランドといえば「IRA」でしか語られない(何でもかんでも「IRA」ということにされてしまう。そしてその「IRA」が1921年のIRAなのか、1981年のIRAなのかの区別もされない)という状況には、ほとんど何もできていないのですが……ぼちぼちやっていきます。

テヘランの「ボビー・サンズ通り」については、さっきちょうど、日本の「小浜市」が「オバマ当選で沸いている」とかいうoddly enoughなニュースに関連して友人とのメールで話題にしたところです。下記をどうぞ。
http://www.indymedia.ie/article/75874
http://www.irlandinit-hd.de/sub_misc/bsands.htm

あと、以前このブログでも言及したような記憶があるのですが(自分でブログ内検索すればいいんですが)、英インディペンデントのテヘラン特派員だった人が下記のようなエントリを個人ブログにアップしています。私はどう反応していいのかわかりません。
http://angusmcdowall.com/?p=49

> 名前は本名を入れるべきなのか、わからなかったので、ちょっと迷いましたが、とりあえず。意味、わかります?(笑)

わかりません……なんだろう。
というわけで、また何かあればコメントください。今後ともよろしくお願いします。
Posted by nofrills at 2008年11月07日 23:31

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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