「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2008年11月02日

ベルファスト中心地を英軍がパレードする日

Hear Nothing, See Nothing, Say NothingAnd still men and women drag out their lives in misery
The nightmare continues
Blinded, disfigured and mentally scared

―― Discharge, The Nightmare Continues


イラク、アフガニスタンから帰還した英陸軍the Royal Irish Regiment (RIR) の「ホームカミング・パレード」が、現在、ベルファストで行なわれている。

イラクやアフガニスタンがどういうことになっていた/なっているのかをほんの少しでも考えて、「ベルファストでのパレード」というものをそこに置くと、個人的に頭が爆発しそうになるので、この「パレード」についてはなるべく考えないで淡々と読むようにしている。

今日、ベルファストで行進する若い兵士たちは、「バスラ」や「アマラ」や「ヘルマンド」は知っているとしても、「ベルファスト」や「デリー」は知らないだろう。兵士たちの上官は知っているかもしれない。英軍の最高幹部は確実に知っている(今では既に引退しているが、サー・マイク・ジャクソンは、1972年1月30日、デリーでの血の日曜日のあのときにそこにいた)。

シンフェインも、そのほかのリパブリカンも、ベルファストを英軍がパレードするということに抗議して、抗議行動を予定していた。が、シン・フェインは予定のルートを変更し、また英軍は予定していた航空パレードを2日前に中止する決定をした。(両者の間に明確な関連があるのかどうか、私ははっきりとは知らない。記事を読んでもわからない。でも「ない」と考えるのはバカだけだろう。)

シン・フェインとは離反したリパブリカン(つまり「非主流派リパブリカン」)は、シン・フェインとは別に抗議行動を予定している。それに応じて、ロイヤリスト武装組織の動きも気になる。

こんなことを思うのは「偽善」だとわかっていても、とにかく、今日誰も怪我をしたりしないように祈るしかない。

ベルファスト・テレグラフから:
Massive security operation for Army homecoming parade
Sunday, 2 November 2008
http://www.belfasttelegraph.co.uk/news/local-national/massive-security-operation-for-army-homecoming-parade-14027626.html

Sinn Fein Assemblyman Gerry Kelly said: "We will not allow any group - either so-called dissident republican or some loyalist elements or English fascists - to hijack the protest of the victims of British state violence.

"The history of the British Army in Ireland is one of great cruelty and hurt.

"Victims of collusion and British state violence are particularly offended and incensed by Sunday's march.

"The Sinn Fein protest on Sunday is intended to highlight our opposition and to do so in a peaceful and dignified way."


ジェリー・ケリーが言うか、というのがほんの少しあるだけでも気が紛れる、という著しい皮肉。「『非主流派リパブリカン』と呼ばれる勢力であろうと、ロイヤリストの勢力であろうと、英国(イングリッシュ……これはEnglandのという意味だとは断定できない)のファシストであろうと、とにかくどのような集団に対しても、英国が国家として行なった暴力の被害者の抗議行動を乗っ取ることは赦さない。」

「英国が国家として行なった暴力の犠牲者」イコール、シン・フェインとその支持者。

「非主流派リパブリカン」の切り離し。

そして、共感はしないわけではないが聞き飽きたというような、「アイルランドにおいて英軍は残酷な行為を行なってきた。英国が国家としてなした暴力、そして(英国とロイヤリストの)結託によって被害を被った人々は、軍のパレードに不快感を抱いている」といった言説。

そして、「シン・フェインは軍パレードに対し、平和的な抗議」を行なうとし、「平和的でない抗議」を牽制。

誰もが「そういうもの」として聞いているであろう言葉でしかない。しかし、ジェリー・ケリーがこれを言うか。

これが2008年だということはもちろんわかっている。わかっているけれども、とても飲み込みづらいのだ。

BBC Newsから。刻々とアップデートされているから下記の記述は消えてるかもしれないけど:
Thousands gather for city parade
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/northern_ireland/7704650.stm
A separate dissident republican counter parade has been stopped from marching into the centre of Belfast.

Police in riot gear blocked 200 people involved in this demonstration at the the bottom of the Falls Road.


シン・フェイン直送で、An Phoblachtの10月31日記事にあるジェリー・アダムズの言葉は画像クリックでどうぞ(原寸大キャプチャです):
www.anphoblacht.com/news/detail/35952

長くはないコメントだけど、非常に多弁で、いくつもの要素が入っている。ひとつは、「危険な状況から帰還した兵士がご家族と再会するのが喜ばしいということはもちろんだ」ということ。2つ目は、「しかしそのためにベルファストのシティセンターで軍がパレードをする必要はない」ということ(帰還した兵士らのために教会で宗教儀式が行なわれるのだから、それで十分だろう、ということ)。3つ目は、「英軍がアイルランドで、またベルファストで行なったことにより、リパブリカンもナショナリストも苦しめられたし、ワーキングクラスのユニオニストとロイヤリストも英軍の行動の矛先を向けられていた。実際にロイヤリストのガンマンが英軍を撃ったこともあった」ということ。4つ目が「だからユニオニスト/ロイヤリストの(パレード支持の)立場には矛盾がいろいろある」ということ。そして5つ目が「イラクとアフガニスタンでの戦争で英国政府と英軍が行なったことを祝うパレードというものがおかしい」ということ。6つ目が「それぞれの人がそれぞれの意見を言える環境」のこと。つまり暴力的ではなく平和的な意見表明をしていく、ということ。すなわち、なにやらもぞもぞしていたらしい「非主流派リパブリカン」についての牽制(といっても彼らはアダムズやシン・フェインの影響下にはないのだが)。

……あー。

※「考えない」ようにしているのでdumbなことを書きますが、私はシン・フェインの支持者でも共感者でもありません。だからといってアダムズの上記のことばに反対する必要もないと思いますが、とにかく、主張と防御との混ざり具合がすごい、ということで。

※この記事は

2008年11月02日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 22:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | todays news from uk/northern ireland | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼