「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2008年10月22日

その狂気――映画 "Hunger"

HungerA compelling and unforgettable portrayal of life within the Maze Prison at the time of the 1981 IRA hunger strike. An odyssey, in which the smallest gestures become epic and when the body is the last resource for protest.

【直訳】1981年のIRAハンスト時のメイズ刑務所の内部での生活を、力強く、忘れがたく描いた一作。ごくごく小さな動作がとてつもなく大きなものとなり、抗議のために残されているのは身体だけとなっている一大叙事詩。
http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Hungerposter.jpg

上記は、映画『ハンガー Hunger』の英語ポスターのキャッチコピーだ。実際に映画を見て、これは的確なコピーだなあと思う。

『Hunger』はとにかくディテールに満ち溢れていた。当時のロング・ケッシュ(メイズ)刑務所を語る「言葉」を――そのいくつかは私も読んでいるが――映像化する映画だった。「言葉」に「身体」や「物体」を与え、光と影と音で伝える映画だった。……以下、ネタバレ全開になりますので、少しクッションはさみます。これからご覧になるつもりの方で、事前になるべく情報を入れたくない方は、クッション部分から下はお読みにならないでください。

【クッションとして、いろいろリンク集】
■この映画について:
http://www.imdb.com/title/tt0986233/
http://en.wikipedia.org/wiki/Hunger_(2008_film)
http://en.wikipedia.org/wiki/Steve_McQueen_(artist)
http://en.wikipedia.org/wiki/Michael_Fassbender
↑主演のマイケル・ファスベンダー(英語読み)、母方がマイケル・コリンズとつながっているそうで……アイルランドってば。

■当ブログでの過去記事:
2008年05月26日 【速報】カンヌ映画祭でHungerがカメラ・ドール獲得
http://nofrills.seesaa.net/article/97989526.html
※映画概要、映像レポートなど。

2008年07月15日 「ターナー賞の歩み」展に出展されていたアーティストたちの映像作品について
http://nofrills.seesaa.net/article/102905992.html
※カンヌのときの映像レポートなど。

2008年10月16日 東京国際映画祭でHungerが上映されます(10月21日、24日)
http://nofrills.seesaa.net/article/108159546.html
※英語圏でのレビュー1件の紹介。

2008年10月22日 映画Hunger、あと一回上映があります。
http://nofrills.seesaa.net/article/108441931.html
※上映日程について、字幕について。

2008年09月24日 David Holmesの新作と、ベルファスト
http://nofrills.seesaa.net/article/107092476.html
※この映画で音楽を担当しているデイヴィッド・ホルムズについて。

■英語メディアの記事などのクリップ:
http://b.hatena.ne.jp/nofrills/film/Bobby%20Sands/
http://b.hatena.ne.jp/nofrills/?word=hunger

■「1981年のIRAハンスト」について、基本的な説明:
http://en.wikipedia.org/wiki/1981_Irish_hunger_strike
http://en.wikipedia.org/wiki/Dirty_protest
http://en.wikipedia.org/wiki/Blanket_protest
※出来事の順番としては、Blanket protest→Dirty protest→1980 hunger strike→1981 hunger strikeです。

■ボビー・サンズ:
http://en.wikipedia.org/wiki/Bobby_Sands
http://www.irishhungerstrike.com/bobbyswriting.htm
They will not criminalise us, rob us of our true identity, steal our individualism, depoliticise us, churn us out as systemised, institutionalised, decent law-abiding robots. Never will they label our liberation struggle as criminal.

I am (even after all the torture) amazed at British logic. Never in eight centuries have they succeeded in breaking the spirit of one man who refused to be broken. They have not dispirited, conquered, nor demoralised my people, nor will they ever.

―― Bobby Sands' Diary, Friday 6th March, 1981

I am making my last response to the whole vicious inhuman atrocity they call H-Block. But, unlike their laughs and jibes, our laughter will be the joy of victory and the joy of the people, our revenge will be the liberation of all and the final defeat of the oppressors of our aged nation.

―― Bobby Sands' Diary, Thursday 12th March, 1981


■「1981年のIRAハンスト」について、アルスター大学紛争データベース(CAIN)の目次:
http://cain.ulst.ac.uk/events/hstrike/hstrike.htm

■「1981年のIRAハンスト」について、当時のポスターの例:
http://cain.ulst.ac.uk/images/posters/hstrike/index.html

※本当は「1981年のIRAハンスト」は、「1981年のIRAとINLAのハンスト」なのだけれども(ふだんは殺しあう仲の両組織の共闘で、INLAからも餓死者が出ている)、ここではほかの用語法にならって、単に「IRAハンスト」として扱います。

【クッション部分、ここまで。以下はネタバレ全開です】

非常に限られた範囲のことしか明示していないのに、何とも多面的な映画だった。

『Hunger』はとにかくディテールに満ち溢れていた。当時のロング・ケッシュ(メイズ)刑務所を語る「言葉」を――そのいくつかは私も読んでいるが――映像化する映画だった。「言葉」に「身体」や「物体」を与え、光と影と音で伝える映画だった。面会での文書の受け渡し(小さく折り畳んだ伝言の紙を、口の中や鼻の中に入れて持ち運び、キスなどの身体的接触で受け渡しする)、それを阻止するために行なわれる面会者の身体検査、Hブロックでの看守による暴行、肛門検査(男性刑務所でああなら女性刑務所は……)、「ブランケット・マン」と「ダーティ・プロテスト(ノー・ウォッシュ・プロテスト)」、飲食を拒みやせ衰えていくサンズの枕元、というか鼻先に毎日事務的に置かれる、ほかほかのスクランブルエッグやら野菜サラダやら……(サンズの日記に、看守が嫌がらせのために鼻先に食べ物を置いていくが食うわけがないとかいった記述がある)。「ダーティ・プロテスト」中の房内のそこかしこにころころしている蛆虫。看守が家で食べる朝ごはんのパンくず。恋人の下半身に隠されて房内に持ち込まれた超小型のラジオ受信機。ボビー・サンズの聖書(タバコの巻紙として)。看守の着ける黄色いゴム手袋。

これらが、「主張」としてではなく「描写」として、ほとんど「淡々と」と言ってよいくらいに、次々と画面に映し出される。

映画が使っている「言葉」は極めて少なかったが、「少なすぎる」という感じでもなかった。アート系フィルムにありがちな「言葉の否定」でもなかった。むしろ、この映画での言葉の使用法は、かなり洗練されていた。看守の更衣室での下世話な噂話、二人一室の房内でのやり取り(ゲール語が理解できない新入り)、ラジオが伝えるニュースとサッチャーのスピーチ、面会室での家族や恋人とのやり取り……そして、例の「17分間の長回し」のシーンでの言葉の奔流。

言葉は控えめだったが、音はすごかった。冒頭、Film Fourのロゴやら何やらが出た後に黒い画面に重なる不快な金属音は、カトリック地域で、女性たちが「警察が来てるよ」といった合図のために路面にゴミ箱のフタを打ちつける音(これは映像で説明されるが、言葉では説明されない。後続の状況も生じない)。Hブロックの房の金網で手をすり足をすりしている一匹の蝿の羽音。そして、映画の中心が「ボビー・サンズのハンスト」に移行すると、どんどん「無音化」していく。サンズの呼吸の音が前景に出てくる。最後に、この映画で唯一使われている楽器、ハーディ・ガーディの音楽(デイヴィッド・ホルムズによる)。

映画はロング・ケッシュの中にいる何人かの人物の視点を順繰りに中心にしながら進んでいく。これは正直、いろいろと意見がある手法かもしれない。いわゆる「群像劇」のように、誰かの視点が別の誰かの視点に重なったりつながったりして展開するのではなく、流れてゆく。それゆえに「わかりづらい」部分はあると思う。それとは別に、ごくごく一般的な、いわば「神の視点」のような部分もある。(だから、東京国際映画祭で上映されても、次はあるかないか……ありうるとしたら人権問題についての関心が高い層をターゲットにするという方向だけど、それには「説明」が少なすぎる。第一、北アイルランド関連では『ブラディ・サンデー』でさえ劇場公開がなかったのだ。)

最初の「視点」となるのは、40歳くらいの看守だ(演じているのは、『眠れる野獣』でカイル役だったステュワート・グレイアム)。彼の自宅は小高い丘に広がる住宅街の赤レンガのテラストハウス。決して「ミドルクラス」ではない住宅街。道路に面する窓にはレースのカーテンがかかっていて、出勤前に彼が車の下をチェックする(爆弾が仕掛けられていないことの確認のため)のを、レースのカーテンを少し開けて、妻が心配そうに見守っている。カメラは、エンジンをかけても車が爆発しないことを、時間をかけて描く。(これは、そういう「日常」についてまったく予備知識がなく、この描写の意味が想像もつかない人にとっては、とても退屈なシーンに見えるだろう。)

朝、洗顔している看守は、低い声でうめく。手の甲の関節がすりむけていて、そこに水や石鹸がしみる。

(映画のラスト近く、ハンスト中のサンズの背中や腰にできた床ずれに医師が軟膏を塗る場面で、サンズがうめく。)

看守の手の傷の理由は、映画が少し進んだところで、映像で説明される。彼は「反抗的な囚人」を傷めつける担当だ――看守のいくつもの仕事の中でも、本当に誰もやりたくないであろう仕事。最も直接的に恨みを買う仕事。

雪の舞う中庭で、たった一人、立ったままタバコをくゆらせる彼の拳の傷に、ひとひらの雪が舞い降りる。

(映画の最後の方、死の時を迎えようとするサンズの病室に、鳥の白い羽が舞い降りる。)

この看守は、言葉らしい言葉を発さない。着替えのときも昼食のときも、他の看守たちが同僚と世間話などで盛り上がっているのに、彼はひとりだ。彼はユニオンジャックの柄のキーホルダーを使っている。彼は家から持ってきたサンドイッチをほおばり、それを包んでいたアルミホイルを、くしゃくしゃと丸めるのではなく、何度も何度も折り畳む。

神経の細かい人なのだろう。北アイルランドでなければ、裸の囚人を殴りつけるなどということは、していなかっただろう。背後から撃たれて認知症の母親の膝の上に崩れ落ちることもなかっただろう――直接の暴力の行使者であった彼は、IRAのヒットリストに載せられていた。そして、老人ホームにいる老母を訪問している最中に、老人ホームの明るい面会室でヒットマンに射殺される。おそらくは認知症で目の前に居るのが誰かももはや認識できず、身体も動かない状態の老母は、背後から頸部に一発撃ち込まれて膝の上に崩れ落ちた息子の血を浴びて、身じろぎひとつしない(できない)。

この看守はフィクショナルなキャラクターだ。でも同じようなことになった人は実在していただろう。「北アイルランド紛争」で殺された刑務所職員 (prison officer) は24人。ちょうど25年前の大脱走のときに刺された挙句に心臓麻痺を起こして死んだ人もいるが、多くはヒットリストに載せられた上で殺されている。

次に「映画の視点」となるのは、「ギレン Gillen」という名字の新入りだ(→プレス写真)。彼はまだ若いが、Hブロックに到着するなり囚人服の着用を拒否する宣言をし(おそらくIRAの「義勇兵」が暗記していた/暗記させられていたもの)、看守の責任者らしき人物のノートに「反抗的 non-cooperative」と書かれてしまう。そして無言の看守の「じゃあやることはわかってるだろう」という目にさらされながら、その場で着ているものをすべて、パンツまで脱いで、そして毛布を放り投げられ、次のカットでは頭皮から血をにじませて、ダーティ・プロテスト用の房に放り込まれる。

その房にはジェリー・キャンペル Gerry Campell という囚人が既に入っている。伸びた髪などを見れば、彼がここに長くいることは一目瞭然で、房内の壁には既に彼の汚物が塗りたくられている。(それが「汚物」であることは、映画の前の方で、看守が出勤するときに車内で聞いているラジオのニュースで説明される。)

ジェリーは新入りに「お前、ギレンっていうのか、どこの出だ、じゃあ誰それは知ってるか」というようなことを尋ねる。でもこの新入りはIRAでも新入りだったのか、ジェリーとの会話が続かない。ジェリーが「号令」で使うゲール語(アイルランド語)も理解できない。成立するのは、「お前、何年だ」、「6年」、「ラッキーだな、俺は12年だ」といったやり取り程度だ。(「6年」は銃器所持とかそんな感じで、「12年」は爆発共謀とかそんな感じだろうか。)

汚物が塗りたくられた壁に囲まれ、蛆がもぞもぞしている房内で支給されるメシを食い、ろくに話をする相手もなく、彼は、自分がなぜこんなところにいるのか、イマイチわからなくなっている。でも彼は、それが「闘争」なのだ、と自分を納得させているだろう。日曜の礼拝で集った機会に語り合う囚人たちと、誰も聞いていない礼拝の言葉(このシーンはかなり笑える)のなかで、彼は所在なげに立っている。

彼には「台詞」はないから、彼がどんな人で何をどう感じているかはすべて観客の解釈に委ねられる。基本的には、彼はHブロックでの「看守による囚人への暴力」を具体的に示すために――「暴力」に「身体」を与えるために、この映画の「視点」としての役割を与えられている。

そして、この新入りもさらされる「暴力」を受ける別の囚人として、ボビー・サンズが出てくる(彼はこれより前の面会室のシーンでも、赤ん坊を抱いて目を細めている――そして赤ん坊の服の中に入れられた連絡文書を受け取っている)。

彼がものすごい抵抗をしながら廊下を引きずられてゆき(このシーンでの「長髪に白い腰布」の彼は、図像としては明らかにイエス・キリストだ。ほかにもサンズにキリストの図像が重ねられているシーンは私でもいくつか気付いた。ピエタとか、わき腹の傷とか、背中の傷とか)、鋏が頭皮をえぐるのもお構いなしの看守によって長く伸びた髪と髭を強制的に刈られると(ここの鋏の音がすごい)、映画でサンズを演じている(というか、サンズになっている)ミヒャエル・ファスビンダー(英語読みでマイケル・ファスベンダー)の顔が現れる。サンズはバスタブに放り込まれて顔を水に沈められ、柄のついたブラシでごしごしと身体をこすられる。床掃除にでも使うようなブラシかもしれない。

東京国際映画祭の作品紹介ページにあるスチール写真は、この場面のものだ。(→クリップ



(明らかに視認できる床掃除の道具は、映画の後のほうでも出てくる。囚人の房から廊下に流された尿を、看守が掃除する場面で。消毒剤をまいて事務的に淡々と掃除をする看守は、当たり前のように、廊下に流れ出た尿を、房の扉の下の隙間から、房内に流し込む。画面の一番向こうから画面のこちらまで彼が進んでくるのを、カメラは説明も台詞も感情もなく、ただ映す。彼が廊下を通り過ぎたあとの房内からの反応も一切示されない。このシーンの「長さ」といったら、ほとんど革命的だ。)

汚物が塗りたくられた房内に清掃の人が来る。衛生状態が劣悪なので、毒物処理みたいな完全防備の服装だが、頭にかぶっているものを一瞬外したときに現れる顔は、ラテン・アメリカか北アフリカの人の顔だ。

こうして房が掃除され、映画では、「囚人たちの要求の一部が受け入れられる」シーンが続く。これは1980年秋のハンスト(1916年蜂起での「共和国宣言」署名者と同じ7人に揃えたため、サンズは参加していない)の後のことだ。

「受け入れられた」要求とは、彼らの「5つの要求」のひとつ、"The Right not to wear a prison uniform" だった。しかしこれは――2006年に私が書いたものから抜粋:
囚人たちが要求していたのは、「prison uniformを着ない権利」である。英国政府が認めたのは「civilian clothesの着用」である。相互に矛盾はない。しかし盲点がある。

囚人服の代わりに囚人たちが着用を許可されたのは、「私服 (their own clothes)」ではなく、「刑務所が支給する平服(civilian clothes)」であった。

『ホテル・ルワンダ』のテリー・ジョージ監督のフィクショナルな映画、Some Mother's Son(1996年)でのこのシーンがとてもわかりやすい。……

映画の中で、ボビー・サンズら囚人たちは「要求が通った!」と喜ぶ。彼らの家族は刑務所に私服を差し入れようとする。しかし刑務所では私服の受け取りを拒否する。そして、看守から刑務所支給の(もちろん全員が同じ)服を手渡された囚人たちは怒りに震え、裸の上半身に再び毛布をまきつける。画面切り替わって、英国の役人が「私服とは言っていない、平服と言ったんだ、嘘はついていない」と得意げに語る。

http://ch00917.kitaguni.tv/e256723.html

「英国らしい」ヘリクツだが、これは『Hunger』の中では言語では明示されない。「支給された平服」が房の中のベッドに並べられ、相変わらずブランケットを巻きつけただけのサンズや新入りのギレンたちがそれぞれの房で絶望したように座りこみ、そして怒りのあまり、房の中をめちゃくちゃにする。このシーンの「白い壁」の凄み。

そして機動隊がロングケッシュに派遣され、廊下に並んだ隊員たちが透明のアクリル板の楯を打ち鳴らす(冒頭の、「ゴミ箱の蓋」とのパラレル)。看守のひとりが黄色いゴム手袋をし、裸の囚人たちは看守の激しい暴力を受けながら、屈辱的な肛門検査を強制される。

このときに刑務所に投入される機動隊のひとりが、5月のカンヌ国際映画祭のときに書いたエントリでも少し触れたこの若い男性だ。彼のバックグラウンドは映画では示されない。名前も示されない。台詞らしい台詞もない。たぶん、彼は「反抗的囚人」のIRAのギレンのパラレルだろう、「現場は初めて」みたいな若い隊員だ。彼は裸の囚人たちを次々と警棒で殴りつける段になると、壁の影に隠れてカタカタと震えている。この場面は画面が中央で左右に分割される形になっていた。「壁の影で震える新人隊員」は実際の場面であるかもしれないし、心象風景的なものかもしれない(私は後者だと思った)。

いずれにせよ注目されるのは、射殺された看守も、新入りIRAのギレンも、この隊員もみな――つまり「体制側」も「反体制側」も、「人間」として丁寧に、なおかつ淡々と描かれている、ということだ。

「平服」騒動での英国(というかサッチャー政権)のあまりになめくさった態度によって、ついに1981年3月1日のハンスト開始が決断される。結果的に10人が餓死し、ほかに13人が食を断ったこのハンストは、サンズによって計画・指揮されたものだ。神父との面会でサンズがその決断を語るシーンが、例の「17分ワンカット」だ。

先日ここで言及したレビューを書いた人はこのシーンはあまり好きではなかったようだが、私は引き込まれた。17分もあったか?という感じ。

少し古い言い方をすると「圧倒的な映像美」ってやつだ。ああいうふうに引いたカメラで、窓からの明るい光とタバコの煙と2人の横からのシルエットに、この映画で初めてまともに出てくる「会話」で描写される「ボビー・サンズの狂気」。「狂気」といってもそれはmadnessではなく、fanaticismである。しかもそれには「身体」が与えられている。面会用にズボンだけは履いているが上半身は裸のサンズの腹部が、窓からの光に照らされて、白い輪郭線が彼が言葉を発するたびに動く。「身体」を与えられた「言葉」、「言葉」を与えられた「思想」もしくは「狂信/狂気」……IRAのphysical forceそのもの。

ドン(ドミニク)神父とサンズとの他愛もない世間話で、神父が「リパブリカン」寄りのスタンスであることが観客に示される。それでも、神父はサンズの「自殺」を止めようとする――「君にはまだ小さい子供がいるじゃないか」と。サンズは沈黙して、神父のタバコの箱に手を伸ばし、時間をかけてライターで火をつけ、煙をふーっと吐き出す。白い煙が二人の間に漂う。

実際、ロング・ケッシュの外では、つまりIRAの指導部では、1981年のハンストはよい方策とはみなされていなかったという。(ただし、どっかの誰かが、メディアがこぞって取り上げる「ハンスト」はパブリシティのために利用できるということも勘案していたのではないか、と私は認識している。なお、こういったことは映画には描写されていない。これはまったく「非政治的」な映画だ――「政治的」というのが「明確な効果を狙った言説を伴う」という意味である限りにおいて。くそ、何て頭のいい映画だ。)

サンズの演説は続く。前回(1980年秋)は一斉に何人もがハンストに入ったが、今度は2週間ごとに一人ずつハンストに入り、長期戦を行なう作戦だ、志願者には困らない、だから成功する、と。神父は「そんなことをしたらこうなる」ということを立て続けに指摘する。論争が続く。4年半もの間、看守からの暴力にさらされ、自らの糞尿で抗議をしてきた彼について、神父は「あまりに長い時間、inhumaneなものにさらされてきたことによって、君の考え方はおかしくなっている」と指摘する。神父の言葉のいくつかに、サンズの感情は揺らいでいるが、サンズの決意は揺るがない。ああいえばこういう、という状態だ。そして、神父の口からついに「自殺 suicide」という言葉が出たときに、サンズは感情的に反駁する――「自殺だって? それは立場を変えれば殺人だ」。

サンズは自分の「正しさ」を信じて揺らがない。IRA(やUDAなど)が言う「正当なターゲット legitimate target」論を連想して、私は気持ちが悪くなった。

「殉教者になりたいのか」という神父に、サンズは即座に「ノー」と答える。しかしその後で、「ジーザス・クライストが自分たちのバックボーンだ」と彼は言う。何を言っているのか、もちろん北アイルランド弁が聞き取れないせいもあるし、キリスト教というものがわかっていないせいもあるのだけれども、私にはほんとにわからない。この映画の作り手は、明らかに非常に意図的に、サンズとイエス・キリストを重ねているというのに。私は混乱する。神父は何度かstupidという言葉を口にした。

ここでようやく「17分ワンカット」が終わり、サンズと神父の顔が交互にクローズアップになる。マイケル・ファスベンダーの目の強さ。

神父が去ろうとするとき、彼が持ってきたタバコをサンズは「置いていってくれ」と要求する。神父はタバコの箱をテーブルの上を滑らせてサンズに渡す。そして、サンズは、「聖書を(巻紙に使って)燃やされるよりいいだろ?」と言う。これが、この20分ほどの「神父とサンズ」のシークエンスのサンズで、唯一、「人間」がしゃべっていると思ったところだ。

そして1981年3月1日、サンズのハンストが開始される。この日付には意味があるのだが、そのことは映画では語られない(と思う。神父との会話で言及されていたかもしれない)。(その5年前の1976年3月1日、政治犯のスペシャル・カテゴリーのステータスが廃止となった。)

食を拒み、自力で動くこともできず、ベッドの上でただやせ衰えていく彼の「身体」の執拗な描写がなされる。(このために、マイケル・ファスベンダーは医師の監督のもと、摂取カロリーを1日600キロカロリーにしてガリガリに痩せた。)浮かび上がった肋骨、床ずれといった外見的な変化や、聴覚視覚が失われていくさまが、映画として(解説なしで)表現される。言葉で説明されるのは、「ハンストをするとどうなるか」ということについての医師の説明だけだ――81年ハンストの生還者が語っていたのだが、脂肪や筋肉が生命維持のためのエネルギーとして使い果たされたあとは、内臓や脳が徐々に「食われて」いく。身体が中から崩壊していく。映画はそれを、時間をかけてゆっくりと、描写している。

Hブロックの病棟のスタッフは、床ずれの痛みを少しでも和らげようと、シーツの下にふかふかの毛皮を敷く。傷から滲み出した血やリンパ液の染み込んだマットレスを裏返す。毛布が身体に直接接触しないように、開腹手術後の人が使うようなカマボコ型のあれ(←この道具の名称を知らない)をベッドに載せる。ガリガリに痩せたボビー・サンズの裸の身体が、白い病室内で陽光にシルエットで浮かぶ。呼吸するたびに胸が上下するが、既に「生命」は感じられない。陰毛だけがただ生々しいばかりに陽光に透ける。

視覚も聴覚も衰え果てて昏睡状態に陥るサンズは、子供のころのクロスカントリーの経験を回想する。神父と話をしているときに、アイルランドのクロスカントリーの大会で、「ベルファストから来た」彼はほかの子たち(つまり共和国の子たち)からばかにされた体験を語っていた。このシーンで、「コークの子たちがいろいろ言うんだが、訛りのせいで互いに意思疎通ができなかった」と言うのが、この映画の中で、唯一、「誰でもくすりと笑える」シーンだろう。

ボビー・サンズが獄中から英下院議員に立候補して当選したことや、サンズのあとさらに9人が1981年のハンストで死んだことなどは、映画の本編が終わって画面が暗転したところで、文字で表示される。そしてハンストの後で、「誇り」高い英国政府が、いろいろと言い訳と言い換えをしながら、「我々はIRAに屈したのではない」という体裁を崩すことなく、実質的には彼らの要求を受け入れた、ということも、短く皮肉な文で、画面上で説明される。

CAINから抜粋:
Tuesday 6 October 1981
James Prior, then Secretary of State for Northern Ireland, announced a number of changes in prison policy, one of which would allowed prisoners to wear their civilian clothes at all times. This was one of the five key demands that had been made at the start of the hunger strike. Prior also announced other changes: free association would be allowed in neighbouring wings of each H-Block, in the exercise areas and in recreation rooms; an increase in the number of visits each prisoner would be entitled to; and up to 50 per cent of lost remission would be restored. ...

http://cain.ulst.ac.uk/events/hstrike/chronology.htm


Pathe UKの公式チャンネルにアップされている、UK版の予告編:

予告編で使われているピアノのミニマルな音楽は、エンドロールで使われていた。この予告編を見ると、映画が「IRAの誰かが主人公」だというだけでめちゃくちゃけなしていた右派メディア(デイリー・メイル、デイリー・テレグラフ)が、この映画については賛辞を贈っているということに気付かされる。皮肉なことだが、メイルなどで「反IRA」の旗振り役だった映画ライターがしばらく前に亡くなって、「とりあえず(見てもいないのに)けなす」ということがなくなったらしい。(ソースはこのブログの過去記事のどこかにリンクしてあるはず。掘り出すのサボりますが。)



映画では明示はされていなかったが、サンズら10人が死ぬ1981年のハンストの前、1980年のハンストについて、自分のところの過去記事から:
【ダーティ・プロテストが行なわれていた】同年【1980年】、彼ら囚人の代弁者が欧州人権法廷に訴えたが、「勝手にやっていることだ(self-inflicted)」として、訴えは却下された。そして10月27日、メイズで第一回目のハンストが開始された。当初の参加者7人。

同年12月15日にはメイズおよびその他の刑務所で新たに23人がハンストに参加した。そのころには最初からハンストしていたショーン・マッケンナは死に瀕しており、他の6人も病院棟に送られていた。冒頭に引用したブレンダン・ヒューズが「自分の体が腐っていくのがわかる」といっているのは、この頃のことだ。

同月17日、カトリックの聖職者がハンストの停止を呼びかけ、18日には正式にハンストが中止された。開始から53日目のことだった。このときは、死者は出なかった。

(なお、ロイヤリストもこのときリパブリカンとは別にハンストを行なっていたという。「政治犯としての待遇の要求」は、セクタリアン・ディヴァイドを超えて、共有されていた。これは後に「政治犯の刑務所内での自治」につながっていく。)

http://ch00917.kitaguni.tv/e256723.html


ブレンダン・ヒューズは今年2月に亡くなった。
http://nofrills.seesaa.net/article/84692395.html
ブレンダン・ヒューズが指揮した1980年の第一次ハンストも、第一次よりも参加者を増やして実行されたボビー・サンズが指揮した1981年の第二次ハンストも、上記の「5つの要求」を求めての抗議行動だったが、10人もの死者を出した第二次ハンストのしばらく後、「要求」のうち「刑務所での作業」をめぐるものを除いてすべてが通った。最後まで残された「作業」の件も、1983年に刑務所の作業所がいろいろあって畳まれたことで「通った」形になった。

ヒューズは1986年にロング・ケッシュから釈放され、その後はベルファストで生活していた。1980年のハンストで損なわれた健康は完全に回復することはなかったという。

社会主義の立場をずっと貫いていたヒューズは、1998年のグッドフライデー合意(ベルファスト合意)後のシン・フェインにはかなり批判的で、「大義」のためにファイターとして戦い、投獄された獄中で健康を損ない、刑務所から出たあとも満足な仕事を得ることのできない「元ファイターたち」の視点から、「政治」を考えて、いくつか非常に考えさせられることばを残している。


ヒューズの死に対し、シン・フェインがどのように反応していたかなどは、書きたいと思っているのだがまとまらないままだ。

サンズのハンストにつながる流れの起点にいたIRAの囚人、最初のブランケット・マンのキアラン・ニュージェントは、2000年に、酒びたりの生活の末に亡くなった。シン・フェインは彼ら「プロテスター」を言葉では礼賛し、英雄化しているが、それだけだった、ということだ。

ボビー・サンズは生きてロングケッシュを出ることはなく、その悲惨な最期は「我々のための英雄的な死」として今なお讃えられている。NIの外の人間がサンズについてインスピレーショナルだとかなんとか言うのと、シン・フェインが彼を英雄化しているのとは、「意味」が違っていて、というのは第一義的にはシン・フェインは当事者としての責任があるからなのだけど(そのほかにもいろいろ……Real IRAのルーツは何か、とか)、私がもう一度この映画を見る前に知りたいのは、彼らがこの映画――ボビー・サンズを「英雄」扱いしていない、むしろ「狂人、狂信者」と扱っていながら同時にキリストと重ねているこの映画に、どのように反応しているか、ということだ。

ブリテン島では「1980年ごろの北アイルランドでこのような暴力があったということに驚きました」といった反応もあるのだが、シン・フェインはそういう反応は絶対にしない。アブ・グレイブでの「虐待」が明るみに出たときに、「ベルファストはあれを見てもショックは受けない」と書いていたのは、ほかならぬ、ジェリー・アダムズだ。彼自身が、ロング・ケッシュなど北アイルランドの刑務所や拘置所での暴力を、直接、いやというほど経験している。そしてそれは、アダムズに限った話ではない。

※この記事は

2008年10月22日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼















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