「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=


2008年10月12日

【訃報】ヨルグ・ハイダー(オーストリア政治家)

さっき、北アイルランドについてのBBC記事を読んでいて、記事の下部にある「今日の注目記事」みたいなコーナーに、オーストリアのヨルグ・ハイダーについて、"legacy" という言葉が使われているのに気付いた。



ハイダーは、つい先日の総選挙で当選しているはずなのだが、政界引退の表明でもしたのだろうか、と思ってクリックしてみたら……

Haider death stuns friends and foes
By Bethany Bell
BBC News, Vienna
Page last updated at 15:12 GMT, Saturday, 11 October 2008 16:12 UK
http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/7665319.stm

え。えええええー、deathって、何これ。

目を点にしたまま、記事の右側のサイドバーに目をやると:
Austria's Haider dies in accident
http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/7664846.stm

交通事故。記事から事実だけを拾うと、「ヨルグ・ハイダー (58) は、自身の地盤であるCarinthiaで車を運転中に道路を外れ、頭と胸に重傷を負って死亡した。警察の調べによると、車にはハイダーひとりしか乗っていなかった。彼はこの日、90歳になる母親の誕生パーティに向かうことになっていたと報じられている」。

※以下、書き足し。

事故の翌日、BBCで詳しいことが報道されています。

Haider 'was double speed limit'
Page last updated at 15:48 GMT, Sunday, 12 October 2008 16:48 UK
http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/7666065.stm

当局の調べでは、ヨルグ・ハイダーは制限速度70キロの道路を、142キロで走行していた。車はフォルクスワーゲンのフェートンV6 (Volkswagen Phaeton V6) という高級車で、乗っていたのはハイダーひとりだけ。車は何度か横転し、頭部、胸部と背骨を負傷していた。事故現場から病院へ搬送中に死亡した。

事故を起こしたのは、ナイトクラブから出てきた後だったが、検察はハイダーの遺体からアルコールが検出されたかどうかについてはノーコメント。

で、BBC記事には事故後の現場の映像がエンベッドされているのですが、記事には事故当時の天候についてなど付随的な状況については言及がなく、映像でも路面が濡れているとかいったことは確認できないので、この記事に書かれていることだけを元に考えれば、原因はスピードの出しすぎなのだろうと考えられます。なお、現場は見通しが悪いとか道路が狭いといった場所でもなく(だからこそ140キロも出せるんでしょうけれども)、ハイダーの車は、単に、車線から逸れて道路脇の林というか林の脇の草地というかそういうところのコンクリートの縁石に乗り上げて横転したみたい(壁や丈の高いフェンスはない)。途中で仮設のフェンスみたいなの(一時通行止めのときとかにも使うような、移動可能な金属の柵)を引きずり倒して、車の左側が大破した状態で、道路を通せんぼする形で車道の真ん中に停まっています。

また、AFPの報道では、車は新しいもので、異状はなかった (Haider's vehicle, a Volkswagen Phaeton V6, was new and in perfect condition) とのこと。
http://afp.google.com/article/ALeqM5jBinL6eeuEGBxW1WIoo0h2lmNkpw

なお、各報道によると、ハイダーの政党、The Alliance for Austria's Future (BZO) (日本語にすれば「オーストリアの未来のための同盟」)は、副党首だったStefan Petznerを党首とすることを発表、ハイダーの出身政党であるFreedom Party(「自由党」)とは別組織として続けていくみたいです。

9月下旬の総選挙で、これら極右(反EUで移民排斥を主張し、ナチス・ドイツを肯定)の両党は、合計で29%という得票率で(Freedom Partyが18.01%、ハイダーの政党が10.98%、これらはそれぞれUKの地方選挙でのBNPの得票率としてもやたらと生々しい)、(2つの党の得票を合算することの是非は措いておくとして、)第一党の中道左派、Social Democratsの約30%に迫る勢いだった。というか、Social Democratsと大連立で政権を担っていた(中道)右派、People's Partyの26%を抜いていた。(以上、数値はpreliminaryのものなので、最終結果は若干違うかもしれませんが。)
http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/7639805.stm

オーストリアでのこの「極右の躍進」については、BBCのベタニー・ベルが「人々が既存政党にうんざりしているから」といった方向で解説を書いていたし、それが一般的だと思うけれども、9月30日付のガーディアンのエディトリアルでは、「人々がうんざりしている、という説明では不十分」という方向で事態をとらえている。(実際、UKはそろそろ「極右が集票できるのは大陸での出来事」という見方を捨てる時期かもしれない。)

で、オーストリアでのこの「極右2党」は、元々はFreedom Partyひとつだった。ハイダーの政党は、いろいろあってそこから分派したものだ。

1999年、Freedom Partyが27パーセントを得票して政権入りしたときの同党の党首がヨルグ・ハイダーだ。このとき、オーストリアは「ナチス肯定の極右政党の政権入り」を理由にEUから制裁を受けた。2000年、ハイダーは同党党首を辞任、その後も実質的にはハイダーが党首という状態がしばらく続いていたようだが、英語メディアでfeudと書かれるような事態が起きたらしく(曖昧ですみませんが、英語版のウィキペディアを読んでも「アルファベット・スープ」状態で、頭に入ってこないし、このブログのためにこれを時間かけて咀嚼すべきとも思えないので飛ばします)、地元Carinthia州での支持は相変わらず強かったものの全国的には同党の人気は下がり、2005年にハイダーらFreedom Partyの主要メンバーが党を離脱して新党を結成、これがAlliance for the Future of Austriaで、この時点では「政権に食い込むまでになったオーストリアの極右もすぐに衰退した」みたいな受け止め方をされていたと記憶している。(もうちょっと詳しく書くと、「極右なんてどうせ脳みそ筋肉なんだからまともな政治ができるわけがない」という嘲笑もあった。これは事実に完全に反するわけではないかもしれないけれど、事実とは異なる見方で、極右についてこういう冷笑的な態度を取り続けるのはかなり危険なことだと私は思った。)

ハイダーは一時、この新党の党首の座を他の人に任せ、国政から引退したと考えられていたが、2008年9月の総選挙の少し前に党首として復帰、そして総選挙で10.7%を得票した。
http://en.wikipedia.org/wiki/J%C3%B6rg_Haider

この選挙で、ハイダーの党よりさらに多く、18.01%を得票したFreedom Partyは、1969年生まれのHeinz-Christian Stracheという人が党首で、この人は……まあ、いろいろありそうです。
http://en.wikipedia.org/wiki/Heinz-Christian_Strache

これら2党が今回の選挙でバカ勝ちとも言えるほど得票したのは、「反EU」感情にうまく乗ったからだという話。東の方に位置するオーストリアは、EU拡大で実際に「目に見える変化」にさらされていて、それが必ずしも「よい変化」と受け止められるものばかりではないし。

……というあたりまでを9月末から10月初めにかけてざーっと英語メディアで読んで、一度連立政権に食い込んで、その後支持をがくんと落とした極右が、また支持を伸ばしていることのバックグラウンドは何となくわかった気になった。

さらに、「Freedom Partyの党首であるStracheという人物はは、あのハイダーよりさらに下品だ」というような説明をどこかで読んで、そこからリンクされていた9月の選挙直前のハイダーのインタビュー(英インディペンデント)を読んで、ハイダーについて、かつてのような「ガチの極右」というより、「大連立がごちゃごちゃした状態になっているのに乗じて勢力を伸ばしたい国粋主義のポピュリストが、現実主義のふりをしているか、実際にやや現実主義的になっている」という印象が強いなあと思った。
http://www.independent.co.uk/news/world/europe/haider-is-back-just-dont-mention-the-war-942827.html
※この記事、結びのパラグラフが欧州極右についての簡潔なまとめになってます(ただしUKについてはここには何も書かれてない。インディはほかのところでUK極右についてはいろいろ書いてるはずだけど)。

で、ハイダーと、このStracheという人は、全然反りが合わなかったみたいで、すごく激しく対立していたようなのだけど、ハイダーの死で極右の2党がまた一緒になるのではないかという観測もあるらしい。ただし実際にそういう方向で動いていくかは別問題らしい。ドイツの英語メディアから:
http://www.dw-world.de/dw/article/0,2144,3706742,00.html

あと、イアン・ブルマも何か書いてる(まだ全文は読んでないけど):
http://search.japantimes.co.jp/cgi-bin/eo20081012a1.html

とりあえずはこんなところで。なお、「暗殺されたのでは」というようなことを書いている日本語のブログも数件目にしましたが、少しニュースを読めば合理的に判断できると思いますが、彼を「暗殺」する動機は、「外国」にはないでしょう。



追記@15日報道:
ハイダーの血液から、基準を大幅に上回るアルコールが検出されていることを、党が発表しました。

Haider 'drunk' in fatal car crash
Page last updated at 14:11 GMT, Wednesday, 15 October 2008 15:11 UK
http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/7671885.stm

"It is correct that... Joerg Haider was under the influence of alcohol at the time of the accident. I can and must confirm that," said Mr Petzner.

He said he had made the announcement because of widespread rumours that Mr Haider had been driving drunk.

引用文中、Mr Petznerとは、Stefan Petzner, the new head of Mr Haider's Alliance for Austria's Future (BZO) のことです。

※このエントリは、トラバを承認制にしておきます。「暗殺」説からのトラバは、そのエントリによほどの内容がない限りは非承認とします。また、トラバをいただいてもしばらく気付かない可能性もありますが、あらかじめご容赦ください。

※この記事は

2008年10月12日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 03:19 | Comment(0) | TrackBack(0) | 雑多に | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント

この記事へのトラックバック

【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

……全文を読む
▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼















×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。