「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

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2008年10月06日

ボビー・サンズについての事実誤認があまりにもひどい。

鼻からお茶ふいたわ! アンド、かなりアタマに来たので以下、記述は雑です。パクるとデタラメになったりするかもしれないから気をつけてね!

唐沢俊一検証blogさんの10月5日エントリ、「適当すぎてIRAIRAしてくる」:
http://d.hatena.ne.jp/kensyouhan/20081005/1223176224

『トンデモ事件簿』P.164〜165
 それはともかく、マウントバッテン卿の殺害を受け、鉄の女・サッチャー首相(当時)はこの事件に徹底して報復を行うと宣言、IRAを撲滅すると意気込んだ。IRAも反撃。テロと攻撃の連鎖が止まらない。IRAの闘士ボビー・サンズは捕らえられるが、獄中立候補をして下院議員に当選するが議会に出られず、抗議のためにハンストを始めた。

 しかし、そんなことでひるむサッチャーではない。サンズの要求を無視。メシを食わないなら勝手に食うな、と放っておいたら本当にサンズは餓死してしまった。する方もする方、される方もされる方である。

 この文章、時間の前後関係がメチャクチャである。まず、マウントバッテンが暗殺されたのは1979年8月27日。しかし、ボビー・サンズが逮捕されたのは1976年10月なので、サンズの逮捕とマウントバッテン暗殺とは何の関係も無い。そして、ボビー・サンズはハンガーストライキの最中に下院議員に当選しているのだ。……


ええと……「する方もする方、される方もされる方である」って、何様? あんた、IRAのあのハンストの何を知ってんの?

あたしゃIRAは嫌いですよ、ええ。ボビー・サンズについても彼を「英雄」と見る向きにはかなりの抵抗を覚えます。つまりあたしはIRAサポではないわけですよ、んなことはここを読んで下さっている方にはおわかりでしょうけれども一応書いておきます。

でもね、事実がどうかということは、サポかどうかには関係ないんですね。で唐沢さんのこの記述は、検証ブログさんが指摘なさっている通り、まったくめちゃくちゃ。唐沢さんの手元には年表もないのか、という。手元になくてもウィキペディアにあるけどね!

さらに年表的なことだけじゃない。IRAおよびシン・フェインについてまったく何も理解していないことが明らかすぎ。サンズは登院を拒否されたから抗議のハンストをしたわけじゃない。(そう書いてあるように読めるよね、唐沢さんの文章。)

で、北アイルランドなんていう微妙な問題についてこんなにてきとーなことが、てきとーに(確認もしないで)書けてしまうという神経が、私にはとてもじゃないけど信じられない。飲み屋で話すとかなら別にいいんだけど(それでもほんとはよくないけど)。

だいたい、今でもまだ、現在進行形なんですよ、北アイルランド紛争は。BBC NIを見てみればわかるでしょうに。そりゃ最盛期に比べたら報道は減ってるし、ブリテン島でのアイルランド・ナショナリストの組織の武装闘争活動は、2001年8月のイーリング爆弾事件を最後に、大きなものはなくなっているけれども。

とにかく、「俺って物知りでしょ」っていうことを誇示するために、北アイルランド紛争について、基本的なことを確認すらせず、知った顔をしてデタラメを書き散らすなんて恥ずかしいことはやめてほしい。



1970年代は北アイルランド紛争が最も激しかった時期で――1971年8月のインターンメント導入とか、1972年1月のブラディ・サンデーとか、1973年のサニングデール合意の失敗とか、1975年のバルコム・ストリート事件とか。

1954年に生まれたボビー・サンズは、10代の終わりから20歳になるくらいまでをそういう中で過ごした世代のひとりで、彼と同世代の多くの「カトリック」の人たちと同様に、20歳になるころにはIRAに入って活動するようになっていた。彼が拳銃所持で最初に逮捕されたのが1972年10月(ただし本人が持って歩いていたのではなく、彼が滞在していた家に拳銃があった)。翌73年4月に懲役5年の判決を受け、76年に釈放。そしてまたIRAで活動するようになり、1976年10月の北アイルランドでの爆弾事件と銃撃戦で容疑者として逮捕される(ただしこの事件では有罪にならず)。翌77年9月に「銃器所持」で有罪となり、懲役14年の判決。そしてロング・ケッシュ刑務所に入った。
http://en.wikipedia.org/wiki/Bobby_Sands

要約すれば、サンズは当局から目をつけられていたIRAの活動家で、1976年に逮捕され、1977年に判決を受けて刑務所に入った、ということになる。

このとき、マーガレット・サッチャーはまだ首相になってない。サッチャーが首相になったのは1979年5月の総選挙でのことで、その前は労働党のジェームズ・キャラハン(1976年4月〜1979年5月)、その前も労働党のハロルド・ウィルソン(1974年3月〜1976年4月)、その前が保守党のテッド・ヒース(1970年6月〜1974年3月)。(NI的にはやな名前が並びますな。)

で、労働党がIRAおよびシン・フェインとある程度近い、なんてのはサッチャー政権があまりに強烈だったので後からついてきたことで(サッチャー政権下で労働党が「市民的自由」などを理由にシン・フェインと近くなったことは事実だし、労働党サポの若い世代がそれを支持したのも事実、トニー・ブレアがオクスフォード大学でシン・フェイン支持のビラを配ってたとかいうのも事実)、キャラハンもウィルソンも「IRA撲滅」の方針はとっていた(同時に交渉窓口も確保されていたのが事実だけど)。ただサッチャーのやり方があまりに強烈で、かすんでいるだけだ。

でもIRAは「撲滅」などされなかった(これが今、UKの外務省筋が取っている「テロ対策」の根底にあることは確実)。そしてマーガレット・サッチャーが首相となって何ヶ月もしないうちに、マウントバッテン伯爵暗殺事件が発生した(1979年8月)。

この事件は、サッチャー政権下で初めての深刻なテロ事件で、これに対してサッチャーが強硬姿勢を打ち出したのは何の不思議もない。

実際に、当時のイングランドは(IRAはイングランドは攻撃したが、スコットランドやウェールズは攻撃していないからここでは「イングランド」と書いておく)「IRAの爆弾でぼろぼろにされるのでは」という不安がかなり現実的なものだったという。

しかしながら、1979年にはボビー・サンズは獄中にいたので、マウントバッテン事件とは直接の関係はない。

つまり、唐沢さんの記述で、「マウントバッテン卿の殺害を受け……サッチャー……はこの事件に徹底して報復を行うと宣言、IRAを撲滅すると意気込んだ」→「IRAの闘士ボビー・サンズは捕らえられる」という流れは、決定的におかしい。(検証ブログさんの指摘の通り。)

ついでにいうと、「……IRAを撲滅すると意気込んだ。IRAも反撃。テロと攻撃の連鎖が止まらない」ってのも微妙だ。1979年だとまだshoot to killの時代じゃないし、英当局は「攻撃」してたか? 「弾圧」はしていたけれども。(なお、実際に爆弾だの銃撃だのを行なった者を摘発する行為は、私はrule of lawとして正当なものだと思うので、それらは「弾圧」とは位置付けていない。「弾圧」については……このブログでさんざん書いているんで過去記事あさってください。)

そして、IRAおよびシン・フェインについて何も知らないで書いているんだなと思わされたのが次の一節。
……ボビー・サンズは捕らえられるが、獄中立候補をして下院議員に当選するが議会に出られず、抗議のためにハンストを始めた。


ええと、このテクストってそのまま読むと、「獄中立候補をして当選したが議会に出られなかったことに抗議するためにハンストを始めた」ってことに読めるよね。

事実無根にもほどがある。

サンズは何に抗議したのか――というか、サンズだけじゃなく、1981年のハンストで死んでいった10人のIRAメンバーとINLAメンバー(IRAとINLAは別組織で殺しあう仲だがこのときだけは共闘した)、およびハンストから生還した人たち、そしてサンズの前に誰も死ぬことはなかったハンストを決行した人たちは何に抗議したのかというと、刑務所での「政治犯」の待遇 (special category status) を奪われたことなんです。

サッチャーが "There's no political violence." と述べたのは、まあ、非常に有名ですな。それ知らずに北アイルランド紛争について書くってのは、ありえません。大学生のレポートじゃあるまいし。

この話は前に書いてると思うんで、ブログ内検索してください。今年のカンヌで新人賞をとった映画 "Hunger" も基本的にその話(を台詞なしで描写する)だし。ウィキペディアでは下記かな。もうね、ダーティ・プロテストとか、朝から考えるにはちょっときついんで。
http://en.wikipedia.org/wiki/Special_Category_Status

で、サンズが立候補したのは、北アイルランドの選挙区の議員が心臓麻痺で急死したからだった。このときシン・フェインは「シン・フェイン」としてサンズを候補者に立てるのではなく、刑務所内でリパブリカンの囚人に対し、いかに非人道的なことが日常的にシステマティックに行なわれているかを訴えて、そういう訴えをサポートしてくれと呼びかけるような形で、ユニオニストの候補を相手に選挙戦をたたかった。そして勝った。サンズは当時英議会最年少の議員となった。

でも彼が登院できなかったのは獄中にあったからばかりではない。シン・フェインから出ていたらどうせ議会に当選しても登院はありえないのだから。下記参照。アーサー・グリフィスまでさかのぼらなくても、ジェリー・アダムズで十分だ。ていうかこの話もこのブログで何度も書いてる。直近ではこれ
http://en.wikipedia.org/wiki/Abstentionism

んで、このことは、北アイルランド紛争とかIRAとかを扱うなら常識中の常識というか、これも知らずにNIについて物を書くのはやばいだろう、という話だ。

そういう感じなのに、「本当にサンズは餓死してしまった。する方もする方、される方もされる方である」と書ける神経。こういうのは、ユニオニスト側の発言によくあるから慣れてはいるのだけど(そして、「そうじゃない」というナショナリスト側の主張もたくさん見ているのだけれど)、ユニオニストがボビー・サンズについて無知なのと、日本の「雑学」本の著者がボビー・サンズについて無知なのとは、意味が違うからね。



ボビー・サンズを議員として当選させた選挙区では、それから27年も経過した今も、あの選挙によって生じたコミュニティの傷が残っている、という記事が、つい先日、BBCに出ていた。

Sands vote still border raw nerve
Page last updated at 06:28 GMT, Friday, 26 September 2008 07:28 UK
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/northern_ireland/foyle_and_west/7636841.stm

唐沢さんの文がどういうつもりで書かれたものなのかはわからない。政治的な意図があるとは考えられないし(ナショナリストだろうとユニオニストだろうと関係ないからね、日本には)、自分の知識をひけらかすつもりにしてはお粗末過ぎるし(まあ、北アイルランドなんて日本ではそんなに多くの人が知ってることじゃないから、ちょっとだけ知ってれば、たとえ知識の中身がデタラメでも「誰もついてくることができない」とでかい顔できるのかもしれんが)。

しかし、とにかく失礼だ。

ボビー・サンズの妹のバーナデットは、兄と同じくIRAの活動家で、結婚相手もIRAの活動家だった。そしてこの夫婦は1998年、ジェリー・アダムズらの推進した「和平」に反対してSinn FeinとProvisional IRAを離脱し、分派を結成した。これがReal IRAとthe 32 County Sovereignty Movementだ。彼女は今はその活動からは距離を置いているのだと思うが(夫はアイルランドで獄中)、彼女がそういう道を選択した根底には、兄がああいう形で死んだことがあるわけで、それは「する方もする方、される方もされる方である」なんて話ではないのだ。

↑とかって書いたらいつの間にかパクられて「ハンストで死んだボビー・サンズとReal IRAの意外な関係」みたいな記事に仕立てられたりするかもしれんけどね。:-P

※この記事は

2008年10月06日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 09:43 | Comment(0) | TrackBack(1) | todays news from uk/northern ireland | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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『唐沢俊一の古今東西トンデモ事件簿』連載最新回でパクリ発覚。
Excerpt:  nofrillsさんにトラックバックしていただきました。10月4日の記事と10月5日の記事を受けて、より詳しい解説を書いています。いやあ、専門家ってすごいなあ。この「唐沢俊一検証blog」では、ヒ..
Weblog: 唐沢俊一検証blog
Tracked: 2008-10-06 12:36

【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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