kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=


2008年09月03日

イングーシ、続報

ロシア政府批判のニュースサイト運営者が謎の「事故死」@9月1日の続報。

ロシアのメドヴェージェフがイタリアのRAIテレビのインタビューで、グルジアのサアカシビリについて「もう政治的に死んでいる」(<直訳)と述べたそうで、ますます『北斗の拳』に近づいているような気もしなくもないのだが:
http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/7594860.stm

「反政府ニュースサイト運営者が、警察に連行される車内で、なぜかこめかみに一発被弾し、病院前で車から放り出されて、手術室で死んだ」という不思議な「事故」が発生したイングーシでの「反政府抗議行動」と、それに対する警察の対応について、BBCに記事が出ている。記事はあるが、写真はない。

Police 'break up Ingush protest'
Page last updated at 12:14 GMT, Tuesday, 2 September 2008 13:14 UK
http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/7593877.stm

記事の内容は下記のような感じ(より正確な情報が必要な方は必ず原文をご覧ください):
イングーシの主要都市であるナズランで、亡くなったMagomed Yevloyevさんの葬儀の最中に始まった反政府抗議行動は、警察に鎮圧されたと伝えられている。

報じられるところによると、抗議行動参加者は警棒を振り回す警官によって解散させられたという。しかしながら、イングーシの内務省職員は、警察が実力を行使してデモを解散させたということは否定している。

人権団体MashrのMagomed Mutsolgovさんは、ナズランのメインの広場に50人ほどの男性が集まっており、警察は早朝現場に到着してその人たちを解散させた、その後、警察と軍の車両が出動し、広場へ近づけないようにした、としている。

彼の説明は、ロシアのRen TVでのナズランの記者からのレポートと一致している。

それでも内務省の広報担当者は、抗議行動参加者は平和的に(=武力なしで)その場を去った、と主張している。「逮捕を行なってすらいないのです」と広報担当者は述べている。


BBCだから、トーンをおさえた記事、というか「だれそれはこう言っている」のつぎはぎのような記事だが、BBCよりも勇ましいメディアや、BBCよりも派手に書き立てるメディアでは違った風に書かれているかもしれない。

そこまでの確認はしていられないので(時間的に)、とりあえずこんなところで。

なお、BBCの記事は、上に内容を書いた部分のあとにはMagomed Yevloyevさんの「謎の死」の概略説明と、イングーシでの小規模なインサージェンシー(つまり武装勢力の活動)についてのごく短い説明がある。
タグ:ロシア

※この記事は

2008年09月03日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 08:52 | Comment(0) | TrackBack(0) | 雑多に | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント

この記事へのトラックバック





【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

……全文を読む
▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼