「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2008年08月14日

オマー爆弾テロ事件、「真相究明」を阻むのは何か

明日でオマー爆弾テロ事件から10年になります。10年目の明日、BBC Oneではドキュメンタリー番組を放映するとのことで、3分程度の予告編がBBCのサイトに上がっています。

Omagh remembers 10 years on
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/northern_ireland/7559686.stm

1998年8月の病院での映像から始まります。この男の子は当時9歳、内臓などがひどくやられていて医師は助からないと思っていたが一命を取りとめたスティーヴン・コイル。10年後の今、彼は元気にしています。

次に映像に出てくるのが「息子が死んでからの10年は私にとって失われた10年」と語る女性。ドニゴールからたまたまオマーに行っていて巻き込まれたジェイムズ・バーカー(当時12歳)のお母さんです。

次はドキュメンタリーを制作したイアン・ウェブスター監督のコメント。「事件の傷は、完全に癒えるものではありません。」

ここでカメラはスペインに行き、バーカーと同じ団体でたまたまオマーにいたフェルナンド・ブラスコ・バセルガ(当時12歳)のご家族のご様子。「つらいけれども、人生は前進していかなければならない。」

その次の女性は、事件で失明したクレア・キャラハー。彼女の人生は前進している、というナレーションと、彼女の結婚式の様子。

――オマー爆弾は、「個人の人生に与えた影響」という点だけで語ってしまってよいものかどうか、私にはわかりません。

ひとつ前の投稿に、「事件前に当局は攻撃計画を察知していた」という点についての言及がありますが、これについて詳しく。

・・・ごめんなさい、書きかけ。あとで書き足します。

※この記事は

2008年08月14日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 23:28 | Comment(0) | TrackBack(0) | todays news from uk/northern ireland | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼















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