「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2008年08月14日

「10年目」を前に、北アイルランド、オマー。

※以下は、しばらく前に書きかけていたのをようやくアップしてもいいかなという状態にできた、というものです。基本的に、最新の内容ではありません。それと、なるべく1ページにまとめておきたいのでいろいろ書き込んであるため、長いです。これでも半分も書けていませんが……この事件は「民間人を大量に殺傷した卑劣なテロ」であると同時に(というかそれ以上に)、英当局(とアイルランド共和国の当局とアメリカ合衆国の当局)は何をしていたのかという問題でもありますが、後者については、書きかけているものがいつまでたっても書き終わらない。以下、本文。



7月末に、「オマーの爆弾事件のメモリアルが完成した」ことを書いたが、事件から10年になる今年、そのメモリアル・パークで行なわれる追悼の式典に、被害者家族のマイケル・ギャラガーさんたちの団体、Omagh Support and Self Help Group が、出席を拒否することがBBCで報じられている。

Omagh families boycott memorial
Page last updated at 06:19 GMT, Friday, 8 August 2008 07:19 UK
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/northern_ireland/7548671.stm

この記事には、会長のギャラガーさんではなく、副会長のケヴィン・スケルトンさん(夫人を亡くされた)の談話が掲載されている。いわく、被害者家族・遺族はこのメモリアルを快く思っていない。その理由は、BBC記事には記されていないが、簡単に言うならメモリアルを作る計画の段階で「被害者」がまったくカヤの外に置かれていたことによる。

Omagh Support and Self Help Groupは、ポール・グリーングラス(『ブラディ・サンデー』など)が2004年に制作・発表した映画『オマー』で描かれていたように、事件の真相究明のために本当に地道で困難な作業を積み重ねてきた人たちである。それでもいろんな方面に極めて都合の悪い「テロ」であった(可能性が極めて高い)あの事件についての真相究明を求める彼らの活動は、10年が経過しようというときになっても、「実を結んだ」とは言いがたい。

そのような中で、自治体主導で――オマーの議会はシン・フェインが第一党だそうだが――「記念公園」が作られ、「10周年記念行事」が計画され、あれは「テロリストの爆弾」だったという文言を刻むまでにもさんざんもめて(シン・フェイン的には、たとえ分派であっても「テロリスト」という言葉はは受け入れられないのだろう)……結局「遺族が式典ボイコット」と書かれてしまう事態。まったくやりきれない。

BBC記事から:
Speaking on Friday, Mr Skelton said: "I am not happy with the memorial garden, but what's done is done.

"I am not in favour of some of the characters that will be there.

"I can't stop them coming, I can't stop certain politicians coming.

"The politicians have done nothing for the families of the Omagh atrocity and it doesn't matter what side they come from. They have done nothing for us."

「メモリアル・ガーデンのことは快く思っていません。作ってしまったものは、それはそれとするよりありませんが。式典出席者の中には、どうしても支持できない人たちもいます。その人たちに来るなということはできません。特定の政治家を来させないようにはできない。彼らはオマーの悲惨な事件の被害者家族のために何もしていない。どの側であれ関係ありません、とにかく何ひとつしてこなかった人たちです。」


金曜日の公式の「式典」は自治体が主催する。自治体では、式典はあの爆弾事件に影響された人々すべてが集う機会として企画したものだが、「ご家族にとってはつらい時期であると理解している」とのステートメントを出している。

……とまあ、BBCでは非常に控えめというか、文脈すら曖昧な中途半端な記事だが、RTEがもう少し詳しい記事を出している。

Omagh families to boycott anniversary
Friday, 8 August 2008 11:13
http://www.rte.ie/news/2008/0808/omagh.html

この記事によると、金曜日の式典への出席を拒否するのは29人の死者のうち、少なくとも10人の家族ら。彼らは日曜日に独自で追悼のイベントを行なうことにしている。

ケヴィン・スケルトンさんは、「どうにも折り合いがつけられないことがいろいろとあります。メモリアルに刻む言葉の件から、式典に来るであろう政治家まで――カウンシルの進め方にも問題があって混乱しっぱなしです。追悼式典について、私たちには何も相談がありませんでした」と語っている。

で、上のBBC記事にはなく、このRTE記事に書かれているのだが、あの事件は「非主流派リパブリカンの爆弾テロ」だったという文言を刻んだ碑は、メモリアル・ガーデンから取り除かれてしまっているのだそうだ。その文言を刻むことで決着したのも最近なのに(昨年冬だっけな)。被害者家族はその碑を元の場所に戻すことを求めている。

そして、マーケット・ストリートの事件現場(爆弾を積んだ車が停められていた場所)に立てられたガラスの碑には、その言葉は刻まれていない。その代わりに、少し離れたメモリアル・ガーデンの壁にその言葉を刻むのだ、ということで議会は一致したのだそうだ。ばかばかしい。

彼らは、「非主流派リパブリカンのテロ」という言葉を、人の多く通る事件現場には出したくないのだ。

一度に一般市民29人を殺したオマーでのあの事件から10年、「実行犯」はいまだ不明である(組織のリーダーは有罪判決を受けて投獄されているが)。

昨年ベルファストでひとりの男が「実行犯」として起訴されたが、公判で明らかになったのは、警察が「証拠」をいかに杜撰に管理していたか、あるいは証拠品にごちゃごちゃといらんものをつけていたか、ということだけだった。被告には無罪判決が下され、判決では警察への批判が展開された。

実際に彼は事件とは関わっていないのだろうけれども、ではあの爆弾を作ったのは誰なのか、あの場所に置いたのは誰なのか。あれが本当に「Real IRAの犯行」だとして、オマーという街を標的にした理由もよくわからないままだ。なぜなら、誰も、何も明らかにしようとしていないのだから。

しかし、1998年8月15日に英国首相だったトニー・ブレアは、2008年には元首相となり、「北アイルランド和平」を「世界の紛争解決のプロトタイプ」として宣伝している。(それ以上に「私の実績」として宣伝しているのだが。)

そんな状態で10年も経過し、そして「メモリアル」を作って「記念式典」をやって、事件を「過去のこと」と片付けてしまう現場に、何も明らかにしようとしない連中と一緒にいることは、出席を拒否する被害者のご家族には耐えられないことなのだろう。

ご家族の方々が「出席拒否」を表明する前の7月半ば、ガーディアン/オブザーヴァーにマイケル・ギャラガーさんらのインタビューを中心とした、「10年が経過するが、オマーは私たちにとっては『終わったこと』ではない」という長い記事が掲載された。

'Ten years on, and Omagh is far from over for us'
Tracy McVeigh, chief reporter
The Observer, Sunday July 13 2008
http://www.guardian.co.uk/uk/2008/jul/13/northernireland.northernireland

取材が行なわれたとき(7月上旬)、メモリアルのピラーはまだ立っておらず、爆発の現場の近くの商店街にはNextの店舗があり、ティーンエイジャーの姿が多く、通りは買い物客が行きかい、次の週末のお祭りを控えて街は賑やかだ――という描写が記事の冒頭。

以下、要旨。
その土曜日の午後、ドラムクィン在住のケヴィン・スケルトンはゲーリック・フットボールの試合で審判をつとめるはずだったが、試合が中止になった。そこで、妻のフィロミーナ(ミーナ)が車を出してくれないかしら、娘たちと一緒にオマーまで買い物に行きたいんだけど、というので彼はオマーに行った。あと2週間で夏休みが終わるという時期で、新学年の準備のため、オマーのマーケット・ストリートの店に買い物に、ということだった。一家はまず、旅行代理店を訪れた。彼らは以前ルーマニアの子供を受け入れたことがあり、その子をもう一度受け入れたいと希望していたのだ。ミーナはそのルーマニアの子供を養子にできればという願いを抱いていた。

その日、オマーの街は人出が多かった。爆弾の通報があって、警察が人々をマーケット・ストリートの坂の上の裁判所から坂の下に避難させたが、整然と避難というわけにはいかなかった。

9月から修道院の学校に行く13歳の娘のショーナ・スケルトンは茶色い靴を買わなければならなかった。「その靴を探してマーケット・ストリートを行ったり来たりして、ようやく1軒の店にあったかと思えば、妻はこれじゃあ12ヶ月も持ちそうにないからこの店じゃなくてあの店にしましょうと言い、そのころには私はうんざりして、隣のギーさんの店で家の飾り物でも見ようかと。でも『しまった、ミーナに金を渡してないじゃないか』と思って引き返した、そのときに爆発が。」


「おかあさんと娘の買い物に付き合わされてうんざりしたおとうさん」というあまりに平凡な「土曜日の午後の買い物」。何もなければ、「帰りの車の中で『だいたいいつもお前は』と険悪なムード」とかいった、平凡な展開になっていたかもしれない。しかしその日、オマーのその商店街に止められていた「平凡な乗用車」は「平凡」なものではなかった。

予告電話で言っていた「通りの上手」から警察に誘導された人々が「通りの下手」に歩いてきていた。午後3時10分、その乗用車に積まれていた肥料爆弾は、商店の窓やらドアやらを吹き飛ばした。スケルトンさんは瓦礫の中にうつ伏せで倒れている妻を発見したが、即死状態だった。39歳。

スケルトンさんの15歳の娘は自分で歩いて母親の倒れているのを見つけ、脈を確認していたが、13歳の娘は、数時間後、病院で見つかった。顔の半分が吹き飛ばされていたが、生きていた。


「血の色は同じです、プロテスタントだろうとカトリックだろうと」とスケルトンさんは言う。「今では、(1972年の)ブラディ・サンデーが北アイルランドでのトラブルズ(紛争)を始め、オマーでのあの土曜日がそれを終わらせた、と人々は言います。しかし、10年になりますが、私たちにとっては全然まったく終わってなんかいない。私たちはまだ待っているのです。あの爆弾が本土でのことだったら、犯人は投獄されているでしょう。トニー・ブレアもビル・クリントンもここに来て、何でもするからと約束していった。しかし結果はゼロです。」

「利益を得た人たちもいる。オマー・ファンドで金が注ぎ込まれたので、この街の財界人は得をしている。昔と同じじゃないんですよ。1998年には今にも瓦解しそうな街だったのに、ファンドのおかげで潤って。パイプ・バンド(バグパイプ楽団)まで分け前にあずかっているんです。」

「うちの娘たちには、母親を失ったことで、£7,000の小切手が郵送されてきました。うちには息子もいるんですが、息子はあの日は釣りに行っていてオマーには来ていなかったので何もなしです。母親を失ったのは息子だって同じなのに。この家族のために何かをしてくれたのはうちの親くらいなもんです。ミーナの葬儀の日にはソーシャルワーカーだのなんだのが大勢来ましたよ。でも棺が行ってしまうとそれっきり、ソーシャルワーカーはもう訪ねてもきませんでした。」


スケルトンさんは、ウサギ狩りに行って帰宅したところで自殺をしようとしたこともあったという。

しかし、スケルトンさんの人生は、オマー爆弾後にもっと劇的に変化した。あの日、旅行代理店で確認をした「ルーマニアの子供」アンドレアは、当時聞いていたように孤児ではなかった。非常に貧しい家の子だった。爆弾事件後にその子供の母親と連絡を取るようになったスケルトンさんは、2005年に、彼女とオマーで結婚した。

「こうなったのにもミーナが大いに関係していると思いますが、それでもまだアンドレアに英国のパスポートを取ってやることはできていないんです。それこそがミーナへの追悼になるはずなんですが。それが達成できたらようやく一息つけるんですが。」

彼がそう述べるのは謙遜と言える。というのは、オマーの被害者家族は多くを達成してきているからだ。そしてそれでもまだなお彼らは戦い続けている。

事件が起きたとき、英国のブレアも、アイルランドのアハーンも、米国のクリントンも、声高に非難した。シン・フェイン党首のジェリー・アダムズも、リパブリカンの攻撃・リパブリカンの集団(Real IRA)を初めて非難した。事件は、1998年5月に住民投票の結果発効した和平合意に反対する勢力が、和平プロセスを脱線させようとして起こしたものだ(と考えられている)。ブレアは涙を浮かべて、この小さな町にこのような蛮行をはたらいた犯人は必ず捕らえて法の裁きを、と述べ、事件で生き残った人たちの手を握りながら「申し訳ない、申し訳ない」と何度も何度も繰り返した。


ここに名前が出てきているような人たちの事件後のコメントの抜粋は、下記で一覧できる。
http://wesleyjohnston.com/users/ireland/past/omagh/responses.html

オブザーヴァーの記事は続く――オマー爆弾は、30年続いた北アイルランド紛争の流血のなかでも最もひどいものだった。そもそも誰か特定の「標的」を狙った爆弾ではなかった(つまり「無差別」の攻撃だった)上に、1つの爆弾での死者数が最多である(2つの連続爆弾でなら1974年のダブリン・モナハン爆弾のほうが多くの生命を奪っている)ほか、死者は本当に「一般人」ばかりだった。
母親が7人、ティーンエイジャーが6人、幼児が2人、アイルランドのドニゴールから来ていた学童が2人、スペインの学童が1人、その引率の先生が1人、ユニオニストの役人とその息子、モルモン教の学童、おなかの中に双子がいた女性。負傷者は300人以上。ひとりの女の子が失明し、手や足を切断された人は数多い。

しかしながら、やがては政治の意志も国際的な注目もすっかり冷めてしまい、結局今に至るまで、殺人で有罪となった者は誰もいない。(実際、昨年12月の無罪判決でいろいろと明らかになったように、爆弾製造者の刑事訴追は絶望的となっている。)

結局、真実を求める活動は被害者家族や事件で怪我をした人たちの手に任されている状態である。そして彼らの活動が報われているとはいいがたい。

警察オンブズマンは、情報当局は事前に爆弾計画を察知していたことなどを明らかにした。しかし当時の警察責任者のサー・ロニー・フラナガンの反応は、その批判が本当なら今すぐに私は自ら命を絶ちますよ、というだけだった。(この男は、本当に、最低だ。しかも北アイルランド警察を退いたあとに出世。)

2007年に爆弾実行犯として起訴された被告に無罪判決を言い渡した判事は、警察の捜査が筋道だったものではなかったことを指摘し、証拠の捏造で2人の警官の名前を挙げた。

2002年には、オマー爆弾に関連して共謀の罪でコルム・マーフィーが有罪となっているが、彼は爆弾犯に携帯電話を貸しただけで、判決も二審で覆され、現在は再審を待っているところだ。

現在も続いている真相究明の努力といえば、殺された29人全員の家族らがReal IRAとそのメンバー(シェイマス・マッケンナ、マイケル・マッケヴィット、リーアム・キャンベル、コルム・マーフィー、シェイマス・デイリー)を相手取って起こしている民事訴訟だけだ。

家族が真に求めているのは、英国からもアイルランドからも独立した立場で為される国際的なインクワイアリーだ。シン・フェインのマーティン・マクギネスは、事件当時警察の捜査を拒んでいたが、この独立国際インクワイアリーにはリパブリカン(シン・フェイン、PIRA)も参加することに同意している。


でもこれ(独立国際インクワイアリー)、実現の目途は立ってないんだよね。

ガーディアンのこの記事には、結局ギャラガーさんたちが出席を見合わせることにした「公式の追悼行事」をめぐる状況についても書かれている――彼らが行事をボイコットしたのは、どうせ「決意を新たに」云々の口先だけの約束があふれるだけだからだ。遺族は遺族で、これまで毎年やってきたような追悼行事を行なう。

マイケル・ギャラガーさんは、人口22,000のオマーのことを、「ASDA(スーパーマーケット)に行くにも必ず、事件の被害者の家族の誰かに会うことになる」ほどの小さな街だと語り、妻のパッツィさんと2人の娘とともに「公式行事」に出席を拒否して、日曜日に家族らがふさわしいと思えるような追悼式典を行なう、と語る。彼は、「非主流派リパブリカンに殺害された」という文言を慰霊碑に刻みたがらなかったカウンシルや政治家たちは彼らの式典をやり、スピーチをすればよい、家族はこれまでの10年間と同じように愛する者を追悼するだけだ、と言う。

ギャラガーさんのこの言葉の背景にある「幻滅」はとても大きなものだ。

息子のエイダンがあの爆弾で殺されて以来、自身の人生も前とはまるで別のものになってしまった (his life change beyond recognition) というギャラガーさんは、政治家の態度を批判する。

映画『オマー』で「再現」されていたシーンのひとつに、ギャラガーさんら遺族とジェリー・アダムズの「対話」のシーンがある。アダムズがどう言うのかを私は映画を見る前から知っていたが、それでも、映画を見て絶望的な気分になった。アダムズは、言葉数は多いが、恐ろしいほどに、何も言わないのだから。
「いったい何度、被害者の母親が『うちで最後にしてください』と言うのを聞きましたか。被害者は常に、政治家にとっては厄介な問題です。オマーでは政治家はリップサービスをしてきただけです。しかし私たちは今でもなお、自分たちだけですべての重さを背負って進んでいかねばならないのです。苦しむのは死んだ人だけではありません。家族全体がその後ずっと苦しむのです。娘は、『オマー』と口にするなら紙に書く、と言っています。これは人々には理解できないことでしょう。」

「私は紛争で弟のヒューイーを亡くしています。1984年6月3日にIRAに暗殺されたのです。当時26歳で、幼い子供が2人ありました。あれ以上に悪いことなどありえないと思っていたのですが、その14年後、今度は息子のエイダンが死んだ。弟の家から自分の家に戻れば、そこでは誰も欠けていなかったのに。」


事件後、多くの家族がオマーにいることに耐えられなくなって引っ越していった。ギャラガーさんたちもそれを考えはしたというが、エイダンのお墓はここにある。それに「まだ終わっていない仕事がある」から、引っ越さずにオマーに暮らし続けているのだ、と彼は語る。彼は、元々はこういう活動に熱心に取り組むようなタイプではなかったが、「他の選択肢はなかった」と言う。そして、家族は大変な思いをした。(このことも映画『オマー』で描写されていた。弟をIRAに殺されているにもかかわらず、政治的なこととは距離を置いて、淡々と、自分の自動車整備工場での仕事をしている「堅気のお父さん」だったマイケル・ギャラガーが、テロ事件被害者のロビイ団体の中心となっていく経緯と、そこでの葛藤。)

「中には殺された家族の名前を口にすることも耐えられないという人もいますが、うちでは毎日エイダンの話をしています。身長は6フィート2インチ、明朗快活で車好き。週末になると友達と出かけて楽しく過ごしていました。親に心配をかけることもそんなにない子でした。政治にも興味はなく、テレビではニュースより『フリントストーン』を見ているような子でした。グッドフライデー合意のレファレンダムでは、家族全員で投票所に行ったのですが、エイダンはどの政党が『Yes』派なのかも知りませんでした。」


1998年8月15日の土曜日、エイダン・ギャラガーは親友のマイケル・バレットと一緒に服を買うためにマーケット・ストリートに行った。午後3時10分、エイダンとマイケルは並んで歩いていて、エイダンは死亡し、マイケルは重傷を負ったが生き残った。

「マイケルは、どうして自分が生き残ったのだろいうという罪悪感に苦しんでいました。火傷で3週間入院していましたが、退院して最初に足を運んだのはうちでした。その後何年間かは毎日来ていました。」

マイケル・ギャラガーさんがエイダンが死んだことを知ったのは、爆発から14時間後のことだった。「病院でのあの惨状、あの混乱、脳裏に焼きついています。連絡があるまでここでお待ちくださいと言われて控えていたレジャーセンターでは、スペイン語が耳に入ってくるので、頭がおかしくなったのだと思いました。」被害者の中には、たまたまオマーに来ていたスペインの学童と引率の先生が含まれていた。

「陸軍の兵舎が遺体安置所になっていました。そしてエイダンが運ばれてきた。身元のわかるものが残っていたので私はラッキーだったんですよ。」

「兵舎から車を出すと既に夜明けで、家に戻って、エイダンはもう戻ってこないよと告げるのだと思うと、何のことだろうかと。息子はこの夜明けを見ることはない、どうしてだろう、と。」

事件から10年が経過し、商店街は新しくなっているが、あの事件のランドマークはそのまま残っている。家族控え所だったレジャー・センターも、遺体安置所だった兵舎も、爆弾予告があった裁判所も。「この街は前進しようとしているのです」とギャラガーさんは言う。

「10年前に、あなたはこういう人に会うことになる、こういう場所に行くことになる、と告げられていたら、自分にそれができるとは思わなかったでしょう。しかし、死んでいった人々のために、誰かが彼らのために尽力しているのだということを示さなければ、と私は思ったのです。」


10年前、事件のときはまだ私も自宅でネットにつないだばかりで、BBCのサイトを見る、という発想がなかったような気がする。事件を知ったのは新聞でだった。その数ヶ月前に「和平合意」が成ったので、「これでロンドナーはボム・スケアを口実に会社をサボることができなくなる」と、在英経験のある友人たちと笑い話のネタにしていたのに、またか、と思った。たぶんそれだけだ。

「涙を浮かべて詫びるブレア」の写真や映像を見た記憶はない。10年目の今年、資料映像として探せば出てくるだろうか。

コソボ空爆、アフガニスタン空爆、イラク戦争――あの「街角の平凡な乗用車」とは規模も法的バックグラウンドも異なる殺戮を経た「10年目の夏」に。

そのしばらく後、2000年から2001年にロンドンでReal IRAが暴れて(BBC前自動車爆弾、MI6本部攻撃未遂、ハマースミス・ブリッジ爆破計画、イーリング爆弾テロ)、「今度のIRA」はやることが派手だなあなどと思っていた。そして2001年9月11日になって、ニューヨークのツインタワーに旅客機が突っ込むという信じられない光景をテレビ画面の中に見て、その後は「ロンドンでのReal IRAの爆弾」についての多少なりともシリアスなニュースは聞いていない。

そもそもリパブリカンがイングランドを「戦場」としたのは、「イングランドで何かがない限りは誰も目を向けないから」だった。



マイケル・ギャラガーさんたちについて、13日付でロイターが記事を出している。

Families of Omagh bomb victims struggle for closure
Wed Aug 13, 2008 2:48pm BST
By Anne Cadwallader
http://uk.reuters.com/article/topNews/idUKLD32237020080813

【概要】
【オマー発】――10年前に息子のエイダンを失って以来、マイケル・ギャラガーは今もまだ正義を求めて闘っている。1998年8月15日、オマーの街での爆弾でエイダン(当時21歳)を含む29人が殺され、200人[原文ママ:実際には300人とも]が負傷した。

爆弾を設置したのはReal IRA、アイリッシュ・ナショナリスト・ゲリラ (Irish nationalist guerrillas) の分派である。

被害者の家族らは、誰一人として裁判で有罪になった者がいないことに憤りを隠さない。「裁判という方法でやろうともしたのですが、だめでした。痛みは常にここにあります」とマイケル・ギャラガーは言う。

(昨年の)12月、ベルファストでの刑事裁判で、判事は(検察側から)提出された証拠の質を批判し、オマーの自動車爆弾を作ったとして起訴されていた被告に無罪を言い渡した。

被害者の親族らは、爆弾事件の背後にいると考えられる5人を相手取って民事訴訟を起こした。同時に彼らは、英国政府・アイルランド共和国政府に対し、合同のインクワイアリを開始することを求めている。

英国政府は、警察の捜査についての調査が今年開始されており、政府としてはその結果を待っている、と述べている。

2001年の警察オンブズマンの報告書では、治安当局の責任者らが捜査に失敗し、攻撃が迫っている、オマーが標的になりうるとの警告があったにもかかわらず適切な行動を取らなかった、としている。

被害者の家族の多くは、事件から10年となる金曜日に行なわれる追悼行事に参加できる心境にはない、という。この行事にはIRA本体 (the main IRA: Provisional IRAのこと)の司令官をしていたこともあるマーティン・マクギネス自治政府副首相も参列を予定している。

「暴力を支持してきた人たちと並んで立つことは私にはできません」とキャロル・ラドフォードは言う。彼女は兄(または弟)のアラン(当時16歳)を事件で亡くしている。家族らは日曜日に、自分たち自身で追悼集会を行なう。

オマー市議会では、8月15日は被害者家族にとってはつらい時期だということは認識している、と語っている。

「あの悲劇に決着をつけられずにいる人たちはたくさんおられます」と市議会議員のジョゼフィン・ディーハンは言う。「ですが、別な面をみれば、悲劇的な出来事がカタリストとなって、共同体がひとつにまとまり、街を変化させたともいえます。」

事件現場は既に再建されている。地域の看護士、Jacintha Hachett(56歳)は「少なくとも今は平和があります」と語る。「私の世代はそれ(紛争)を乗り越えることはできないでしょう。でも若い世代には、もっとよい生活があるはずです。」


このロイターの記事中にコメントのあるジョゼフィン・ディーハンは、検索してみたところ、SDLPの所属。

ロイターでもシン・フェインの議員のコメントを取らないのか、取れないのか……。


※この記事は

2008年08月14日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 18:35 | Comment(0) | TrackBack(0) | todays news from uk/northern ireland | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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