Monday 9 August 1971
Internment
In a series of raids across Northern Ireland, 342 people were arrested and taken to makeshift camps. There was an immediate upsurge of violence and 17 people were killed during the next 48 hours. Of these 10 were Catholic civilians who were shot dead by the British Army. Hugh Mullan (38) was the first Catholic priest to be killed in the conflict when he was shot dead by the British Army as he was giving the last rites to a wounded man. Winston Donnell (22) became the first Ulster Defence Regiment (UDR) solider to die in 'the Troubles' when he was shot by the Irish Republican Army (IRA) near Clady, County Tyrone. [There were more arrests in the following days and months. Internment was to continue until 5 December 1975. During that time 1,981 people were detained; 1,874 were Catholic / Republican, while 107 were Protestant / Loyalist. Internment had been proposed by Unionist politicians as the solution to the security situation in Northern Ireland but was to lead to a very high level of violence over the next few years and to increased support for the IRA. Even members of the security forces remarked on the drawbacks of internment.]
http://cain.ulst.ac.uk/events/intern/chron.htm
1971年8月9日。当時の北アイルランド自治政府(ユニオニスト独占政権)の首相、ブライアン・フォークナーの命令で、「デメトリウス作戦」が開始された。
http://en.wikipedia.org/wiki/Operation_Demetrius
http://cain.ulst.ac.uk/events/intern/index.html
この作戦は、作戦名でよりむしろ、大文字で書き始める「Internment インターンメント(強制収容)」として知られている。簡単に言えば、「カトリックで『それ』っぽい連中は片っ端からしょっぴいてロングケッシュに入れておく」(ゆえに「強制収容」)ということ、もう少しだけかたい言い方をすれば、「具体的な容疑で起訴するなどの見込みのない段階で『テロ容疑者』(である/になる可能性のある者)の身柄を拘束し、施設に拘置しておく」ということが、北アイルランドで1971年8月9日に始まったのである。
北アイルランドの当時の「自治政府」(という名目のアパルトヘイト政権)という存在は、1972年1月30日のデリーでの非武装デモ隊殺傷事件(ブラディ・サンデー事件)後の1972年3月24日に終わりを告げた(英国の「直轄統治 direct rule」となった)が、「インターンメント」は英国の直轄統治下においても継続された。
この作戦での「インターンメント」が1975年12月5日に終了するまでに拘束・収容されたのは1,981人。うち1,874人がナショナリスト(カトリック)で、ロイヤリスト(プロテスタント)で拘束されたのは107人だった。もちろん、107人のロイヤリストの拘束は、「完全にカトリックだけを拘束している」との事実を作ることを回避するための方便にすぎなかった。まったく英国的なヒポクリシーだ。
しかし、当局が本当に拘束したかった主要な「テロ容疑者」(つまりIRAメンバー)はデメトリウス作戦開始前に情報を得ており、8月9日に一斉拘留が始まったときには既に脱出していた。
身柄拘束は、RUC(「アルスター警察」、つまり当時の北アイルランド警察)のスペシャル・ブランチがまとめたリストに基づいて行なわれたが、このリストがめちゃくちゃだった。
http://cain.ulst.ac.uk/events/intern/sum.htm に、ティム・パット・クーガンの本からの抜粋が掲示されている。
... it relied on lists drawn up by the RUC Special Branch. There were 450 names on the lists, but only 350 of these rendered themselves available for internment. Key figures on the lists, and many who never appeared on them, were warned before the swoop began. The lists were weighted towards the Officials, who, despite being the more pacific of the two IRA wings, were regarded by MI5 as the more dangerous adversaries because of their Marxist orientation. Hence their potential was assessed in cold-war terms, rather than in an Irish context. The names included people who had been interned previously, or had been active in the IRA decades earlier, but who, despite Republican sympathies, were no longer active. They also included people who had never been in the IRA, including Ivan Barr, chairman of the NICRA executive, and Michael Farrell. What they did not include was a single Loyalist. Although the UVF had begun the killing and bombing, this organisation was left untouched, as were other violent Loyalist satellite organisations such as Tara, the Shankill Defenders Association and the Ulster Protestant Volunteers. It is known that Faulkner was urged by the British to include a few Protestants in the trawl but he refused.
Coogan, Tim Pat. (1995) The Troubles: Ireland's ordeal 1966-1996 and the search for peace. London: Hutchinson. [Page 126]
つまり、RUCのSBがまとめたリストは、「武装闘争」を推進していたプロヴィジョナルIRA(PIRA, いわゆる「IRA」)ではなく、オフィシャルIRA(OIRA, 1969年のIRA分派でProvisional IRAに分派された昔のIRA)に偏っていたが、それは手違いではなく、OIRAがマルクス主義だったからで、まあ実際当時のOIRAは少しは活発だったにせよ、「武装闘争」的にはそれ以上にPIRAだ、ということがMI5にはわかってなかったらしい。「アイルランドのナショナリズム」というものを表面的にしか認識していなかったのだろう。
そして、昔IRA(分裂前)にいたことがあるがもう活動していない人とか、それで逮捕されたことがある人とかを拘束対象にした。
それだけではなく、20歳前後の若い世代もがんがん拘束したし、IRAとはまったく一切の関係のない人たちもがんがん拘束した。NICRA(北アイルランド公民権運動の主導団体)の議長、後に冤罪被害者のために活動したマイケル・ファレル、Official Sinn Feinのアイヴァン・バー(彼は後に (Provisional) Sinn Feinに所属するが)といった人たちが、インターンメント初日に持ってかれた342人の中にいる(はず。確認をちょっとさぼります)。
なお、アイヴァン・バーは今年5月に急死しているのだが、その死を報じるBBC記事には、彼がインターンメントでやられたことは一言も書かれていない。
そして、ロイヤリストの武装組織、UVFは当時既に殺人やら爆弾攻撃やらを行なっていたし、そのほかのロイヤリスト武装組織も活動していたにもかかわらず、RUCの逮捕リストには彼らの名はなかった。それについて特にぞっとするのは、「フォークナー(NI自治政府首相)は英当局から、プロテスタントも何人か入れるようにと進言されていたが、それを拒否した」という部分。「ぞっとする」というのはフォークナーについてではない。英国についてだ。上に書いたように、「完全にカトリックだけを拘束している」との事実を作ることは回避しなければならない、ということを、英国政府は熟知していたのだ。まったく英国的なヒポクリシーだ。
さらにこの「インターンメント」は「テロ容疑者の無期限・起訴なし拘置」だっただけではない、ということを書いておかなければならない。
「それ」を体験した(体験させられた)人たちに話を聞いてまとめられた本は、The Guineapigs というタイトルをつけられている。Guineapigs, つまり「モルモット」だ。
この本は、アルスター大の紛争研究資料サイトで一部が読めるようになっている。北アイルランド紛争に少しでも興味のある人は、なぜ、マージナルな存在にすぎなかったIRAがメインストリームとなることが可能だったのかを知る/考えるためにも、目を通しておくとよいと思う。
http://cain.ulst.ac.uk/events/intern/docs/jmcg74.htm
英当局は、連行してきた「被疑者」に、頭から袋をかぶせ、ホワイトノイズを浴びせ、壁に向かってつらい姿勢で長時間立たせ、睡眠を奪い、食事と水を与えずに長時間を過ごさせた。「5つのテクニック」と呼ばれるこの「尋問手段」は、英国としては "ill-treatment" とは呼んでも "torture" とは呼ばなかったものである。
実際、1976年にアイルランド共和国が「5つのテクニック」の「被害」にあった人たちを代表して(アイルランドは島全体でひとつ、という憲法があるので、北アイルランド人もアイルランド人である)欧州人権委員会に訴えたときには、この「尋問手段」を組み合わせて用いることは「拷問」の域に達しているとの結論が出された。
http://en.wikipedia.org/wiki/Five_techniques#European_Commission_of_Human_Rights_inquiries_and_findings
しかし、英国政府がそれを不服としたために行なわれた欧州人権裁判所での審理では、「欧州人権条約に反する非人道的行為であるが、拷問という語が表すような苦痛をもたらすものではない」という結論となった(1978年)。(こういうぬるい結論になった背景には、「英国政府」対「EC」のいろいろな駆け引きがあったらしい。)
http://en.wikipedia.org/wiki/Five_techniques#European_Court_of_Human_Rights_trial_Ireland_v._the_United_Kingdom
この、問題ありまくりの「インターンメント」を導入したブライアン・フォークナーは、欧州人権裁判所の結論を耳にする前、1977年に、キツネ狩り中に落馬して死亡している。
http://en.wikipedia.org/wiki/Brian_Faulkner
「北アイルランド紛争」というと「IRAのテロ」ばかりが語られるのだが、1960年代後半に情勢が急速に悪化したのは、ロイヤリストによる暴力がひどかったためだ――たとえそれが「自衛」のためであったという彼らの言い分を額面どおりに受け取るとしても、それが「暴力」であったことに変わりはない。(ピーター・テイラーがロイヤリストやその周辺の人々にインタビュー取材してまとめた本などを読むと、その「暴力」がどのような「心理」に裏打ちされていたかがはっきりわかる。)
しかし1971年、北アイルランドの「自治政府」や英国政府が作戦の対象としていたのは「IRA」でしかなかった。
1972年1月30日に英軍からの銃撃にさらされたあのデモ隊が訴えていたことには、「インターンメントの停止」も含まれていた。
映画『ブラディ・サンデー』のラストで、アイヴァン・クーパー議員(ジェイムズ・ネスビット)が唇を噛みながら、「今日のこの事態は、IRAを増長させるだけだ。もはや彼らは志願者に困らない」と語る。実際に、1971年8月のインターンメントと「5つのテクニック」の「人体実験」によって、「英国」を「敵」とするという彼らの「大義」は、もはや「一部のファナティックな連中」のものではなくなっていたところに、デリーでのあの殺戮があった。何かがあったら、あるいはこの不正義にどうしようもない怒りを感じたらIRAに入り銃を取る、という選択肢が、身近なものになった。
直接の「敵」であるロイヤリストは、ナショナリストに対して銃撃を行ない爆弾テロを行なっても捕まらない。それどころかRUCに情報を流すなど当局と協力関係にある。
北アイルランドでは、「テロ」の原因は「貧困」ではなかった。構造的な不正義とシステマティックな暴力だった。構造的な不正義はもちろん、「貧困」という形で表出していたけれども。(「アイルランド人」に対する雇用差別があったのだから、「カトリック」の人々は貧しかった。たまたま見つけたのだけれども、テレグラフのこの記事のコメント欄に、「1965年に就職面接を受けたときに、手を聖書に置いて英女王への忠誠を誓わなければならなかった。当時、イングランドやスコットランドやウェールズでこういうことをしなければならなかった人はいないだろう。それがあってすぐに私はNIを出た」という投稿がある。こういう話はほかにもどこかで読んだことはある。)
一方で、「カトリック」というか「ナショナリスト」で当時唯一の「声」を有していた政党、SDLPは、公民権運動の中核となり、不正義と差別と暴力について地道な取り組みをしていたのだけれども、「プロテスタント」の過激派のイアン・ペイズリー(当時は「政治家」なんかじゃなかった。煽動家だったし、狂信的なプロテスタント、つまりカトリック全否定の反ローマ教会の活動家だった)とその周辺が「カトリックのアイルランド共和国と一緒にならされるくらいなら、アルスターは独立してやる」と怪気炎をあげていたので、その道を封じるためにも、英軍の駐留継続を求めた。
それは事態を悪化させた。でもそこで英軍が引き上げていたら事態はよくなっていたのかというと、わからない。
※この記事は
2008年08月09日
にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。
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