kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2008年07月20日

【訃報】サラ・コンロンさん

1970年代、夫と息子が「ギルフォード爆弾事件」でのいいかげんな捜査とでたらめな裁判で投獄され、夫は獄中で持病のために亡くなってしまうというあまりに過酷な経験を余儀なくされ、それでも冷静さを失わず、夫と息子の名誉回復のために運動を続け、ついには2005年、英国の首相に公的に謝罪させたサラ(セアラ)・コンロンさんが、82歳で亡くなった。癌で長く闘病していたそうだ。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/northern_ireland/7515960.stm
http://www.rte.ie/news/2008/0719/conlons.html

「ギルフォード爆弾事件」での冤罪についての経緯は、ジム・シェリダン監督の映画、『父の祈りを』(原題:In the Name of The Father →IMDB) に、非常に力強く描かれている。
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私は最初にこの映画を見たとき、冒頭のベルファストの描写の映像にショックを受けて、それだけでぼーっとなったことを覚えている。1993年の映画で、当時私にとっての「北アイルランド」とか「IRA」というのは、「地下鉄のボムスケア」とか「商店街のゴミ箱の爆弾」とか「閉鎖された駅と警察の非常線」といったものでしかなく、「彼ら」がどういう環境に生まれて育っているのかは想像しても想像できるものではなかったのだ。

この映画については、ソフトはレンタル屋にもたいがいはあるし、1500円くらいで入手できるので、映画を見ていただくのが一番なのだが、概略は下記URLなどのレビューを参照。
http://www.muffy.jp/log/2003/a031009.htm#sub2
この映画は実話を基に作られている.北アイルランド紛争 the troubles で英国本土への爆弾テロを繰り返したIRAの構成員とされ,1974年に起きたGuildfordのパブ爆破実行犯とされたGuildford Fourが1989年に無罪を勝ち取るまでをデイ=ルイス演じるGerry Conlonを中心に描いた映画だ.Guildford Fourの爆弾テロを手伝った罪で彼らととともに逮捕された,いわゆるMaguire SevenのひとりがConlonの父親Guiseppeであり,彼は獄中で人生を終えることになる……


http://www.breast.co.jp/cgi-bin/soulflower/nakagawa/cinema/cineji.pl?phase=view&id=038_inTheNameOfTheFather
ベルファストの貧困なカトリック地区で生まれ育ち、軽犯罪歴があり、はみだしもののヒッピー。当時ロンドン在住のアイリッシュ、ジェリー・コンロンは格好の餌食であった。コンロンは共犯者に仕立てられた三人の友人と共に、恫喝と暴力による尋問の末、自供書に無理矢理署名させられてしまう。憎悪に満ちたイギリスのマスコミは彼らに「ギルフォード・フォー」の呼称を与えた。

コンロンの叔母アニー・マグワイヤーや父ジュゼッペまでが逮捕され、犯人検挙に躍起なイギリス警察による乱暴な捜査は、殆ど魔女狩りの様相を帯びてゆくのであった。


ギルフォード爆弾事件が起きたのは1974年10月5日。ロンドンの南方にあるギルフォードという町にある2軒のパブに、IRAが爆弾を仕掛けた。ギルフォードには英陸軍の兵舎があり、IRAにボムられたパブにはScots Guardの兵士が飲みに行っていた。夜のにぎわう時間帯に爆発した爆弾は、まったくの民間人1人と英兵4人を殺し、65人を負傷させた。
The bomb in the Horse and Groom caused the most casualties when it detonated at 8.30 p.m. Paul Craig, a 22-year old plasterer and four off-duty teenage soldiers of the Scots Guards and the Women's Royal Army Corps were killed in the blast. The Seven Stars was evacuated after the first blast, and so nobody was seriously hurt in the explosion there at 9.00 p.m.
http://en.wikipedia.org/wiki/Guildford_pub_bombing


# そういえば先日、赤道ギニアのクーデター計画で禁錮30年超という判決を受けたサイモン・マンは、スコッツ・ガードだった。

この事件の前後、イングランドではIRAによる爆弾攻撃が立て続けに発生していた。で、政治的にもいろいろな状況があったのだが(ギルフォード爆弾の5日後に総選挙があったり)そういった話は後回しにして簡単にまとめると、ギルフォード事件の1ヶ月ほど後にはウリッチで爆弾事件があり2人死亡、28人が負傷し、ギルフォードの1ヵ月半ほど後の11月21日にはバーミンガムでも爆弾事件があり、これが21人死亡、182人負傷という大惨事で、英国政府および治安当局としては、いわば相当「焦っている」状態だった。そういうときに、ギルフォード事件のときにロンドンにいた「ベルファスト出身のアイリッシュ」の「不良」が「容疑者」として浮上した――「何となく怪しい」ということのほかには特に根拠はなかったらしいが。(なお、バーミンガム爆弾事件についても、ギルフォードと同様の「まったくの冤罪」が発生している。)

1974年11月30日、ベルファストに戻っていたジェリー・コンロンが、「ギルフォード事件の容疑者」として逮捕され、警察の無茶苦茶な尋問で嘘の自白をしてしまった。友人3人も逮捕され同じく無茶苦茶な尋問→嘘の自白(彼ら4人が「ギルフォード・フォー」)、さらには息子が逮捕されたためにイングランドに来ていた父親のジュゼッペ・コンロン(<通称)と、彼の親戚筋のマグワイア夫妻とその息子たちおよび親戚・友人の合計7人が、爆発物をIRAに渡したとして逮捕された。そして彼ら11人全員が起訴され、無茶苦茶な裁判の結果、1975年と76年に有罪判決を受け投獄された。「マグワイア・セヴン」には4年から14年の刑が、「ギルフォード・フォー」には無期刑が宣告された。もちろんど真ん中の冤罪なので、全員が控訴したが、あっさりと棄却された。
http://www.searcs-web.com/conlon.html

実際には、ギルフォード事件をやったのは、ギルフォードから1年以上後の1975年12月に右翼政治活動家(ギネス・ブック創始者でもある)を暗殺した挙句、バルコム・ストリート立てこもりというど派手なことをやらかしてSASに制圧され、逮捕されたIRAのユニットだった。1977年、当時起訴されていたそのIRAユニットが「ギルフォードをやったのは自分らで、投獄されている彼らはまったく潔白」と語っているのに、そこにいるその「真犯人」はギルフォード事件では起訴されず、まったくイノセントな人たちが獄中にいて無罪を訴えている、という、まるで中学生が書く不条理劇のようなことが、1970年代の英国で現実に起きていた。

息子がイングランドで逮捕されてしまったということで急遽駆けつけて巻き沿い的に冤罪被害者となってしまった父親のジュゼッペ・コンロンは、1980年1月、無実の罪で投獄されていた獄中で、肺の持病のため、死去した。

ジュゼッペと一緒に逮捕されたマグワイア家の人たちは、逮捕当時14歳だった息子が4年、17歳だった息子が5年、父親と母親が14年というような刑期を満了してから出所した。

マグワイア・セヴンが出所したあとも、ギルフォード・フォーは獄中にあった。ジェリー・コンロンらが真犯人ではないということは80年にはすでにはっきりしていたのだが、その後も英当局はまったく動く気配がなく、1987年には内務省が「彼らがIRAだとはありえなさそうだが、それだけでは控訴の証拠にはならない」とさえ言っていた。

彼らの潔白が証明される道が開かれるには、1989年に、この件について調べていた人が、4人のひとりの供述を記録した警察の調書がひどく編集されていたことを物証(タイプライターで打った紙)として突き止めるまで待たなければならなかった。最終的には1989年、逮捕から15年後にようやく、「ギルフォード・フォー」は自由の身となった。
http://news.bbc.co.uk/onthisday/hi/dates/stories/october/19/newsid_2490000/2490039.stm

その2年後の1991年には、マグワイア家とジュゼッペ・コンランら7人に対する有罪判決が撤回された。

ジェリーの釈放から16年後の2005年2月、トニー・ブレア首相は、彼らはまったくの潔白であったと認め、公的に謝罪した。(その前、2000年に書簡で謝罪してもいるが。)
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/northern_ireland/4220901.stm
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/northern_ireland/4249175.stm

その過程でたゆまぬ努力をしてきたのが、ジュゼッペ・コンロンの妻でジェリーの母であるサラ・コンランだった。

RTEから:
http://www.rte.ie/news/2008/0719/conlons.html
The Guildford Four were freed in 1989 and eventually, after Mrs Conlon spent 16 years campaigning, they received a public apology in 2005 from then Prime Minister Tony Blair.


BBCから:
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/northern_ireland/7515960.stm
Gerry Conlon said his mother bore no anger or bitterness about what had happened to him and his father.

"She was remarkable in the fact that she didn't bear any ill will towards the people who first arrested us and then tortured us and framed us," he said.

"And while I was in prison, every letter ended the same: 'Pray for the ones who told lies against you and pray for the judge who sentenced you. It's them who needs help as well as yourself.'

"That was just my mum. She was quiet, reserved, unassuming, but a giant in her own way. Very principled and very caring, and loving as a mother."

【要旨】
ジェリー・コンロンは、サラ・コンロンは息子と夫に起きたことについて、何ら怒りや恨みを抱いていなかった、と語った。「そもそもの始まりに、私たちを逮捕し、それから拷問にかけ、濡れ衣を着せた人たちに対し、母はまったく悪意を抱いていませんでした。私が投獄されていたときに受け取った母からの手紙には、いつも、最後に『あなたについて嘘をついた人たちのために祈りなさい。有罪判決を下した判事のために祈りなさい。あなたと同じように、その人たちも、助けを必要としているのですから』と書かれていました。そういう人だったんです。物静かで謙虚で控えめで、でも大きな人でした。筋が通っていて情が深く、母親としての愛が深い人でした。」


政界からは、ブレアの謝罪を確実にする上で中心的な役割を果たしたSDLPのマーク・ダンカンの弔辞が、RTEとBBCの両方に掲載されている。RTEのほうが長く抜粋されているので、RTE:
SDLP leader Mark Durkan, who was central in securing the apology, described Sarah Conlon as a true heroine of our age.

'Of no-one can the words 'patience of a saint' be more true and she was not just distinguished by her patience,' Mr Durkan said.

'This small lady of frail frame had huge reserves of faith, fortitude and remarkable forgiveness.

'What Sarah, Guiseppe and Gerry Conlon and their family had to endure physically, psychologically and personally would have given Sarah more cause to hate than most.'

...

Mr Durkan said Sarah Conlon fought her campaign with dignity, decency and determination for her son and late husband.

'When Sarah and Gerry asked me to secure an apology from Tony Blair it was clear that she needed it for Gerry, and Gerry needed it for her. But they both wanted it for Guiseppe,' the SDLP leader said.

'In her dignity, determination and decency she was a shining example to us all.'




ギルフォード・フォーの裁判を、当時記者として傍聴していたBBCのポール・レイノルズが、2005年2月、ブレアの好適謝罪の数日後に、回想する形で記事を書いている。
IRA trials: A reporter's memories
Last Updated: Wednesday, 9 February 2005, 19:05 GMT
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/4251483.stm

【要旨】
司法の誤りについて、首相からコンロン家に対して謝罪が為された。1974年にドナルドソン判事がベルファストの3人の男性と1人のイングランド人女性に判決を言い渡してから、長い道のりだった。

私は判決の日、オールドベイリーの傍聴席にいて、判事が被告に判決を申し渡すのを見ていた。イングランド人女性のキャロル・リチャードソンは、判決の瞬間、泣き崩れた。彼女のボーイフレンドだったパトリック・アームストロングとポール・ヒルは感情を表さなかった。ジェラルド(ジェリー)・コンロンは諦めきったように見えた――枯れは法廷内を見回し、そして報道陣の傍聴席を見やった。まるで「ほら、やっぱりこうなったでしょ」といわんばかりに。

ポール・ヒルはその前に、ベルファストで兵士を銃撃したとして有罪判決を受けていた(のちにこの判決は逆転されたが)。ドナルドソン判事は「被告人は高齢もしくは病気を理由にしてのみ釈放される」と告げた。しかしヒルは何年か後に釈放され、その後、ロバート・ケネディ(注:JFKの弟)の娘と結婚した(→参考。2006年に別居しているとのこと)。

兵士が常連客として訪れていたウリッチとギルフォードのパブが爆弾でやられたとき、事前の警告はなかった。そして、彼ら4人が有罪判決を受けることになった裁判での証拠は、ほとんどすべてが、サリー州警察での自白から成っていた。その自白は、まったくの偽であると判明している。

そのことを、私たちは今は知っている。

公判で、4人の被告は全員そう主張した。しかし陪審員は彼らの言うことを信用しなかったのだ。

ベルファストから来た若い男が3人、ロンドンでスクウォット(注:空き家などに特に手続きなしで住み着いてしまうこと。現在は違法だが90年代半ばまでは合法だった)で共同生活をしている。IRAの爆弾の恐怖は広まりつつあり、IRAについては実はよくわからない。そういうときに署名のある自白調書があったのだ。

しかしながら、当時でさえ、この事件には妙なところがいくつかあった。それが後に、判決を覆すことになるキャンペーンに発展していく。

第一に自白の件。非常に曖昧模糊としたものだった。「車に乗って、パブのテーブルの下に爆弾を置いてきました」というのとさほど違いはないものだった。被告人のだれひとりとして、犯人なら知っているであろう細部についての供述はしていなかった。

こんにちでは私たちは、とりあえず今の苦痛から逃れたくて仕方ない人はニセの自白をするものだ、ということを知っている。だが当時はそういうシンドロームについてはほとんど何も知られていなかった。弁護団もそれについて何も言わなかった。

被告は4人全員、法廷で、調書にあるようなことは自分は言っていないとか、殴られたのでそう言ったのだと述べていた。しかし検察側は万全だった。

検察側のトップは法務長官(注:日本でいえば法務大臣)本人だった。彼は検察側の事件概要説明で、最初に、自白には事実もあれば、巧妙に作られた虚偽もある、と説明した。これは、「どちらに転んでも私たちの勝ちだ」ということを言い表す方便である。自白にあることが、既にわかっていることと一致した場合は「事実」となる。そうでない場合は捜査を撹乱するために「巧妙に作られた虚偽」ということになる。

この論理的な不整合について、弁護側が誰も指摘しなかったことに、私は驚きを覚えた。

検察側はほかにもいろいろとしている。そのひとつが、陪審団だけではなくマスコミも、死体の写真を見るようにしたことだ。法務長官本人が、私たち記者に写真を手渡したのだ。

今でもそのうちの2枚のことを鮮明に覚えている。1枚はまだ年若いスコッツガードの兵士で、下肢を吹き飛ばされて遺体安置所に寝かせられていた。もう1枚はウリッチでの爆弾の犠牲者のもので、片脚が完全になくなった兵士だった。

おそらく、法務長官は、このように重要な裁判ではこうするのがマスコミを正しく考えさせる方法だと考えたのだろう。

法務長官は特にジェリー・コンロンに対して敵意を抱いていた。あるとき、長官とコンロンとが激しくやりあったことがあるが、それはベルファストの裏町の出の若者との文化の衝突だった。

確かに、検察側は被告が犯人だということに疑いを抱いていなかった。サリー州警察はIRAの事件がほとんどまったくなく、やはり彼らが犯人だと確信していた。ある日、オールドベイリーの近くで昼食のケバブを食べながら、サリー州警察の刑事のひとりが私に、彼ら4人を逮捕した理由を説明してくれたことがある。えっと驚くようなことだが――しかし彼に嘘はなかったと私は確信している――女の容疑者のモンタージュ写真を見て、ベルファストの警官がポール・ヒルのことを思い出したのだ、という。彼は当時、非常に長い髪をしていたのだ。

ヒルからたどって彼らはコンロンに行き着き、証拠によれば、コンロン自身がロンドンの「アニーおばさん」の家で爆弾を作ったことを話した、という。

これは非常にセンセーショナルで、当時の新聞の見出しになった。このことがまた、まったく無実の女性、アニー・マグワイアの逮捕につながった。彼女(を含むマグワイア・セヴン)に対しても、ブレア首相は謝罪を行なった。

コンロンの父親もまた捜査の網にひっかかった。これもまったく的外れだったのだが、彼は獄中で死亡した。

司法/正義(justice)には悪い時代だった。この裁判を取材した記者たちは、何度も、裁判のダメさを指摘するためにもっとできたのではないか、と考えている。

実際、公判の期間中に一度試みたのだ――だがそれは間違いだった。そのせいで記者たち自身が判事の前に立つようなことになりそうになったのだ。

弁護側証人の中に、リサ・アスティンという女性がいた。彼女は、事件の夜、キャロル・リチャードソンは、(ロンドン市内の)エレファント&カースルのダンスにいた、と証言した。それを証明する写真もあった。

サリー州警察は、ギルフォードに行ったとしてもその時間には間に合うと主張した。私は当時その路線に住んでいたが、とても間に合いそうにないと思った。私たち記者3人でリサ・アスティンに会い、もっと詳しいことを聞こうとした。しかし皮肉にも、弁護団がこの予定の話を聞いて、記者が裁判に干渉しようとしていると解釈した。そして私たちは警告を受けることになった。もしもあのまま進めるようにと促されていたら、真相はもっと早くに明らかになっていたかもしれない。






映画『父の祈りを』は、ジェリー・コンロンが無罪を勝ち取ったあとにまとめた手記をベースにしている。下記の本だが、現在は入手困難。古書専門のサイトで探したほうがいいかも。私もこの本は持っていない。(90年代前半にネットがあってオンライン書店があれば、たぶん取り寄せていただろう……。)

0140230629Proved Innocent
Gerry Conlon
Penguin Books Ltd 1994-03-02

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『父の祈りを』は、「実話」が映画化されるときにつきものの「見ている人をひきつけられるよう、ストーリーを豊かにするためのフィクショナライゼーション」はあるのだそうだが(例えば父親と子の関係、ジェリー・コンロンとIRAの関係など)、例えば『マイケル・コリンズ』や『ブレイブハート』のような「それはない(笑)」という類の意味不明の恋愛ストーリー(こういうのは大概プロデューサーが「女性受け」を狙って作るのだそうだが)などはないので、そういう意味では落ち着いて見ていられる。ただし、映画では「人間ドラマ」に重点が行っていて、一番えぐいところ(英国の警察や看守が、「アイリッシュ」をどう扱っていたか)はミュートされている、とのことだ。

レビュー:
http://www.mouthshut.com/product-reviews/Proved_Innocent_-_Gerry_Conlon-925033656.html
「学校の課題で映画を見たあとに本を読みました。本に比べたら、映画は話の流れを追っているだけのように思えてくるほどすごい本です」という学生さんの短文レビューと、丁寧に書こうとして文字数制限をオーバーしたので半分に削って投稿したという(だから改行がなくて非常に読みづらい!エディタにコピペして読んだほうが楽です)、情報量の非常に多いレビューの二本立て。

あと、英語圏のamazonにもレビュー多数。上が米amazon、下が英amazonです:
http://www.amazon.com/Name-Father-Gerry-Conlon/dp/0140230629
http://www.amazon.co.uk/Name-Father-Gerry-Conlon/dp/0140230629

ところで、『父の祈りを』の脚本はジム・シェリダンとテリー・ジョージの共同執筆だ。テリー・ジョージは『ホテル・ルワンダ』が有名な映画監督・脚本家だが、北アイルランド出身で、若いころにINLA(IRAの分派)に少し関わったことがあり、「カトリックで20歳くらいの男はとりあえず勾留しておく」というインターンメントを経験し、やがて北アイルランドを離れて渡米、そのまま米国に生活の拠点を置いている。北アイルランドについては、1981年のIRAとINLAのハンストから着想を得たフィクション映画、Some Mother's Sonを1996年に作っている。テリー・ジョージについては、この映画がカンヌに出たときのインタビューに詳しい。
http://www.iol.ie/~galfilm/filmwest/25terry.htm

テリー・ジョージといえば、今週末から新作が日本で公開されますね。『帰らない日々』(原作は1998年に出版されたジョン・バーナム・シュワルツによる同名小説、だそうです)。(見に行くかどうかは微妙。)
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD12676/index.html
http://www.eigaseikatu.com/title/21270/



で、「1981年のハンスト」といえば、まだ英国でも公開されていないというのにこないだっからあれこれ書いているSteve McQueenの "Hunger" という映画が今年のカンヌでほんとに「絶賛」されたのだが(新人賞もとった)、その「絶賛」のコンテクストとして、「IRAもの」の映画というだけで「IRAのプロパガンダだ」ときぃきぃ叫んでいるイヴニング・スタンダードの記者が、2003年に鬼籍入りしたという事実がある、というのをどこかで読んでいた。上記、Some Mother's Sonのときのテリー・ジョージのインタビュー記事の冒頭にある "the Evening Standard journalist, Alexander Walker" というのがそのイヴニング・スタンダードの記者だ。興味がおありの方は、オビチュアリをどうぞ(あえてガーディアンですが、オビチュアリは非常に好意的です)。ここにかかれてないことを短くまとめると、バックグラウンドは北アイルランドのプロテスタント、つまり「IRA」は前提として「敵」、ということなんですが。

なおこの方、非常に頭がよく知識も豊富で(元々は学者で、専門が歴史と政治思想)話もおもしろかった、とオビチュアリにはあるのですが、『ノッティング・ヒルの恋人』に黒人が出てこないのはいかがなものかという評(これはまったく妥当。当時の、地価高騰前のノッティング・ヒルはアフロ・カリビアンの街でもあった)に対し、「『カサブランカ』にはアラブ人が出てこない」と応じたというのは、ただの○○だと思うなあ。だって『カサブランカ』は戯曲の映画化で、アメリカの反枢軸プロパガンダ映画で、米国内のセットで撮影されてて、当時の「カサブランカ」を描くことを必要とした映画ではないし、そういう目的の映画ではない。一方、『ノッティング・ヒル』は、「これがリアルなロンドン、観光客ウェルカム、ミレニアムのイベント盛りだくさん」って方向で英国政府がキャンペーンを仕掛けたときの映画。比較にならない。(でも「人種」を基準に話をすると、こういうことになるのかもね。ああうんざり。)

※この記事は

2008年07月20日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼