kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2008年07月04日

70年代に誰からも無視された殺人の真相が、the Historical Enquiries Teamによって掘り起こされる

先月分のブックマークの整理をしていて、これはやっとかないとと思ったので。

'Collusion' in teenager's murder
Page last updated at 11:11 GMT, Wednesday, 18 June 2008 12:11 UK
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/northern_ireland/foyle_and_west/7460768.stm

1973年8月9日、アントリム州で、一台の車(ヴァン)をロイヤリストのガンマン(UVF)が襲撃、当時16歳のヘンリー・カニンガムが殺された。カニンガムはアイルランド共和国のドニゴール州、カーンドナーの人だった(共和国内とはいえ、ドニゴールは歴史的アルスターの一部だし、事実上「北アイルランド」といえる地域)。しかしながら彼はカトリックではなくプロテスタントだった。彼の車はなぜ襲撃され、彼はなぜ殺されたのか――。

今から35年前のこの事件について、HET(the Historical Enquiries Team:超訳すると「昔の事件を改めて調べるチーム」。2005年発足)が調べたところ、今回新たに、ヘンリー・カニンガムを殺した武器が、UDR (Ulster Defence Regiment) の基地から持ち出されたものだという証拠が見つかった、ということを報じているのがBBCの記事だ。

まず、ヘンリー・カニンガムの事件について、アルスター大学のデータベースから:
http://cain.ulst.ac.uk/sutton/chron/1973.html
09 August 1973
Henry Cunningham (17) Catholic [sic]
Status: Civilian (Civ), Killed by: Ulster Volunteer Force (UVF)
Shot during gun attack on his firm's van, from bridge over the M2 motorway, near Templepatrick, County Antrim.

※ヘンリーの年齢が、BBCでは「16歳」、CAINでは「17歳」になっているが、同一人物であることは確か。CAINで「カトリック」とあるのは誤りで、実際には「カトリックと誤認されたプロテスタント」である。

事件のあった場所:

大きな地図で見る

「UDR」ことUlster Defence Regiment(日本語では「アルスター防衛連隊」と訳される)は、1970年(「北アイルランド紛争」が始まったあと)に、旧来のB Specials(「警察予備隊」、准軍組織)が改組されてできた組織というか、「准軍組織」という説明もあるのだが、Regimentという名称の通り明確に「英軍の一部」で(ただし設立当初の要員は志願者でパートタイムだった。1976年にフルタイムも導入)、要するにUVFのような「武装組織(テロ組織)」ではない。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ulster_Defence_Regiment

当時、英軍はアルスター警察(RUC)を支援するために北アイルランドに入っていた。UDRはその英軍を脇から支える「その地域出身者の隊」で、メンバーは「プロテスタント」だけだった。(カトリックが志願してUDRに入ることはありえなかった。)

UDRの使っていた銃器類は、もちろん、英国の(英軍の)ものだ。具体的な銃器類の名称は下記参照。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ulster_Defence_Regiment#Weaponry_and_vehicles

1973年8月9日、ヘンリーとハーバートとロバートの3人のカニンガム兄弟は、会社の車で帰宅中、M2道路でUVFに襲撃された。ヘンリーは死亡、運転していたハーバートは負傷し、ロバートは無傷だった。

この事件では誰も起訴されていない。カニンガム家の人たち(というか、車に乗っていた2人の兄弟)は、事件について十分な捜査が行なわれていないと考えている。そこに、今回のHETの「新証拠」だ。

According to the report, one of the weapons used in the attack had been stolen from a UDR base in Lurgan in 1972.
【要旨、以下同じ】報告書によると、この攻撃で用いられた武器のひとつは、1972年にラーガンのUDR基地から持ち出されたものである。

The HET found evidence of collusion between loyalists and the security forces in the raid on the base.
HETは、この基地の強制捜査において、ロイヤリスト(武装組織)と治安当局の関係(癒着)の証拠を発見した。

Both murder weapons were recovered by the RUC in separate incidents in 1974, but despite being linked to a number of unsolved serious crimes, they were later destroyed by the RUC.
1974年の別々の事件で、RUCが両方の【原文ママ。原文で何か抜けているようでなにがbothなのか不明】武器が押収されたが、何件もの未解決事件と関係があるにもかかわらず、それらは後にRUCによって廃棄された。【つまり、殺人に用いられた銃器類を、RUCは押収していながら、廃棄してしまった、ということ。ありがちありがち。】

The HET also said that declassified documents noted that "there were high level concerns regarding RUC elements 'too close to the UVF' and 'too ready to hand over information', and worries that loyalist extremists had heavily infiltrated the UDR."
HETはまた、機密指定が解除された書類に、「RUCの中には『UVFに近すぎる』人物や『情報をあまりにやすやすと流してしまう』人物がいるとの懸念、UDRはロイヤリスト過激派にひどく浸透されているのではないかとの懸念が、上層部にあった」ということが示されているとも指摘した。


HETについてはウィキペディア英語版の説明がすっきりしていて非常に読みやすい。2005年に設立され、2008年2月に、「北アイルランド紛争(1968〜1998)」での死亡事件すべて(2,516件、死者数3,268)を調査 (examine) の対象とすることが英国会でコンファームされた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Historical_Enquiries_Team

なお、PSNI(北アイルランド警察)のサイトにHETのページもあるが、報告書類は上がっていない。ウィキペディアで誰かが追加してくれるBBCなどの記事をフォローしていくのがよいだろう。

ヘンリー・カニンガムの事件についてのBBC記事に戻ろう。

HETの報告書には、「1973年8月9日の、ヘンリー・カニンガムとその家族であり職場の同僚である人々(つまり3兄弟)に対するUVFの攻撃は、事前に計画されたものであり、3人は標的として特定されていた(つまり意図的に狙われた)」とあるそうだ。(原文は、The report concluded that Henry Cunningham, other members of his family and work colleagues, were "specifically targeted as a group by the UVF in a pre-planned attack on 9 August 1973".)

彼らが「標的」とされたことについて、報告書では、「車(ヴァン)のナンバープレートがアイルランド共和国のものだったこと、毎日同じパターンでM2を走行していたこと」による可能性が高い、また、カニンガム兄弟は「建築現場で働くカトリック」と誤認されていた、としている(根拠は、現場仕事をしているカトリックが殺された事件とカニンガム事件との弾道が酷似していること)。実際には、襲撃された車に乗っていた人々の中には、カトリックもいればプロテスタント(プレスビテリアン、つまりスコットランド系)もいた。

BBC記事はここまでである。

で、もう少し調べてみたくなった。まず、「ヘンリー・カニンガム」(あるいは「ハーバート」であれ「ロバート」であれ)は、いかにも「英国系」の名前で、少なくとも「アイリッシュ」の名前ではない。とはいえ、「名前」で宗派が完全に判断できるほどアイルランドは簡単ではないのだが、襲撃された車には「カトリックもプロテスタントも」乗っていた、という。

"Henry Cunningham" で検索すると、例によって学者さんとか職人さんとか、19世紀の人とかがずらずらと表示されるだけなので (^^;)、事件に関係のあるキーワードを補ってみたところ、「当局とロイヤリストの協同関係(癒着)」については最高の情報量を有する「パット・フィヌケン・センター」(ここは法律専門家が運営している)のサイトに掲示されている記事が見つかった。2005年8月、事件から32年後のアイリッシュ・ニュースの報道だ。

Family want to know why UVF murdered Protestant
Seamus McKinney, Irish News, August 10, 2005
http://www.serve.com/pfc/misc/050810in.html

Thirty-two years ago Henry Cunningham, a 16-year-old Presbyterian from Co Donegal, was shot dead by the UVF as he travelled home from work in Belfast. ...

やはり、ヘンリー・カニンガムはカトリックではなく、プロテスタントだった。

この記事によると、事件から3週間後には事件は解決済みとされ、家族のもとにアルスター警察(RUC)から連絡が入ることはなかった。(ひどいな。)

ヘンリー・カニンガム(当時16歳)は、「北アイルランド紛争」で857人目の死者となった。ドニゴール州の人としては5人目の死者である。

彼は、ベルファストの北、M2道路沿いのグレンゴームリーというところで仕事をしていた。その日、仕事帰りのヘンリーとハーバートとロバート、さらに義理の兄らを乗せたヴァン(ナンバープレートはアイルランド共和国)は、M2道路のテンプルパトリック(Templepatrick)近くのダンウィリー橋(Dunwilly Bridge)で襲われた。

その夜、同じ車に乗っていた5人は、アントリムのRUCで状況を説明したが、それっきりだった。その後の32年間、誰も――北アイルランド警察も、アイルランド共和国警察も、あるいは英国政府関係者も共和国政府関係者も、誰もヘンリーの死について、カニンガム家の人たちに話をしていない。また、検視陪審inquestが行なわれたのは事件から3週間後という異例の早さであった(ベルファストのCoroner's court検死陪審法廷によれば、被疑者逮捕がない事件の場合は通例は8ヶ月から12ヶ月)。

……明らかに「あー、やっちゃった」っていうときの処理だ。いくらあの時代であれ、16歳の男の子がこんな形で殺されて――「ボムの巻き添え」とかではなく「標的を定めた襲撃」で――、しかも「人違い」というか「標的違い」で(プロテスタント過激派が、プロテスタントを殺した)、たぶん責任をIRAにおっかぶせることもできなかったのだろう。(<推測)

3週間でインクェストが行なわれたという事実について、パット・フィヌケン・センターは、「捜査はまったく行なわれていなかった」ということを示している、という。

アイリッシュ・ニュースの記事によると、事件当夜の事実関係は次の通りだ――問題の車はベッドフォード社のヴァンで、運転していたのはハーバート(ヘンリーの兄)。その兄のロバートは、自分のバンドのライヴの予定があったので、後部座席で寝ていた。だからヘンリーが助手席に座っていた。

カニンガム兄弟は、デリーのCreggan and Shantallow地区(ここはBloody Sunday事件関係の資料にも出てくるのだけど、カトリック地域)の会社で仕事をしていた。当時その一帯はno-goエリア(英国の警察、軍などが立ち入れない、IRAなど武装組織の支配地域)だったけれども、1970年代初めには彼らがそこに行くことには何の問題もなかった。ロバートは、「クレガンで作業をしてると、数ヤードしか離れていないところでIRAが訓練をしていた。でもこちらとしては淡々と仕事を続けるだけだった」と語る。

その後、デリーで仕事がなくなって、会社がグレンゴームリーに移ると、カニンガム兄弟も自宅から200マイルも離れたグレンゴームリーで仕事を続けた。(カニンガム家は息子8人、娘5人だそうだ。)事件があった8月は、彼らの仕事がグレンゴームリーに移って3ヵ月というタイミングだった。

……つまり、カニンガム兄弟の車は、アイルランド共和国のナンバープレートで、デリーのno-go areaに日常的に出入りしていたことがあり、その後、3ヶ月にわたって、グレンゴームリーに日常的に出入りしていた。それだけでUVFなどプロテスタント過激派組織の目に留まるには十分だろう。「建設作業員として働きながら情報を集めるIRAメンバー」の可能性を疑われたのだろう。

事件のその日のことを、ハーバートは32年経過しても鮮明に覚えている。5時半まで仕事をして、M2道路に乗ったのは午後6時ごろ。そして陸橋の上に3人の男の姿が見えた。その男たちが車を銃撃した。

ハーバートは、「宗教のことも政治のことも考えたことなどなかった。うちの車はカトリックだけとかプロテスタントだけということはなかった」と語る。

陸橋の男たちが発砲し、銃が火をふいて車に弾丸が当たるのをハーバートは見た。するとヘンリーが「やられた」と言って崩れ落ちた。「こときれるまで少しあった」のだそうだ。

インクェストで、ヘンリーは2発被弾していたことがわかった(1発は脚に、もう1発は心臓に)。

ショックを受けながらもハーバートは運転を続けた。その夜警察が彼に語ったことによると、3マイル進めていたどいう。そして車を停めて野原を走り、一軒の民家に駆け込んだ。非番の看護士が呼ばれて手当てをしてくれたが、ヘンリーはすでに死亡していた。

発砲は33発あり、うち14発が車に当たっていた。同乗していた同郷のパッキー・ドハーティも撃たれ、6週間入院した。

警察はすぐに現場に来たという。車に乗っていた兄弟たちはその夜、アントリム警察署で陳述書を作成すると、帰宅してよいと言われた。そしてそれっきり、アルスター警察からは何の話もない。アイルランド共和国筋からも連絡はなく、さらにひどいことに、彼らの教会(プレスビテリアン)からもこの事件についての連絡は一切ないという。

……教会もひどいが、政府筋はもっとひどい。16歳の子が殺されて複数の人が負傷しているのに、捜査の進展状況の報告すらなかった、ということだ。32年間もだ。(日本なら時効だ。)

もちろん、「陸橋の上のガンマン」がUVFであったことも、彼らは知らされなかった。っていうか仮に警察がそれを把握していたとしても、明らかにしようとしなかったのだ。

事件の当事者であるハーバートやロバートが、あれはUVFの犯行だと知ったのは、1999年、デリーのSt Columba's church(カトリックの寺院で、デリーの観光スポットでもある)で作業をしているときに、人から「この本を見てみなさい」と薦められてのことだった。

184018227XLost Lives: The Stories of the Men, Women, and Children Who Died As a Result of the Northern Ireland Troubles
David McKittrick
Mainstream Publishing 1999-10

by G-Tools


※このLost Livesという本は、NIとアメリカのジャーナリスト4人が、「北アイルランド紛争」のすべての死者について調査し、まとめた1600ページ強の大著で、さすがにいいお値段だし(abebooks.comなどで探せばそうでもないかも)場所もとるので私も入手していないのだが、どういう本なのかはamazon.co.ukのレビューでわかる。

助手席に乗っていた弟が心臓を撃ち抜かれてほぼ即死した事件の犯人を、警察や政府機関の説明でではなく、仕事先で人に薦められた本で知るなんて、あまりにひどすぎないか。

しかも被害者とその家族は、北アイルランド人ではなくアイルランド人で、その上にカトリックではなくプロテスタントだ。カトリックならば、映画『デビル The Devil's Own』のフランキー(aka ローリー)のように、IRAに入り、その理由について「目の前で家族を殺されて、それでも黙っていろというのか」と訴えることもできたかもしれないが(それを「肯定」するわけではないが)、そんなことすらもできない。その「絶望」はどれほど深かっただろう。

ヘンリーたち兄弟のお父さんは、ヘンリーがなぜ殺されたのかわからないまま、事件の7年後、1980年に亡くなった。

1999年にLost Livesを薦められて事件の背景をしったカニンガム兄弟は、その後パット・フィヌケン・センターに連絡を取り、PFCからPSNIに新設されたHETに連絡が行った。それが2005年のことで、今回BBCで記事になったのは、そのHETの調査報告書が上がった、というタイミングでのことだ。(3年近く要しているが、HETは仕事をした、ということだ。)

HETという部署の新設には、Lost Livesのような地道な取り組み(こういう取り組みには、私が所有しているアルドイン地区の死者記録書のような地域単位でのものもあるし、ブラディ・サンデー事件の真相究明運動や、オマー爆弾事件の真相究明運動のような事件単位のものもある)が重要な役割を果たした。

(そういうのまで「ブレア政権の成果」みたいに扱われてるっぽいのが個人的には「えー」という感じではあるが、実際、ユニオニスト政党とがっつり結びついている保守党政権のもとではなかなか難しかったかもしれない。)

カニンガム兄弟のように、自分の身内が誰に何のために殺されたのかがわからないまま何十年も経過している、という人たちはほかにもたくさんいる。武装組織のメンバーなら「あれは『戦争』だった」と言葉にすることで落ち着けるのかもしれないが(それを「肯定」はしない)、そうではない人たちもたくさんいる。

PFCサイトにある記事から:
What compounds Robbie and Herbie's grief and pain and what is driving them to seek answers is the fact that Henry was forgotten by the state and police forces just three weeks after he was murdered.

Herbie, who now suffers from MS, wants to sit down with the men who murdered his brother and ask them two questions: "Whey [sic] did you kill my brother and what good did it do?"

ロバートとハーバートの悲しみと苦痛をさらに深め、彼らを真相究明に突き動かしているのは、ヘンリーは、殺されてからわずか3週間後に、国家からも警察からも忘れられてしまったという事実である。

ハーバートは、現在多発硬化(multiple sclerosis)を患っているが、弟を殺害した人物と一緒に座って、2つのことを尋ねたい、という。つまり、「なぜあなたは弟を殺したのか。そしてそれによって何かよいことがあったのか」

ハーバートは、2005年1月にベルファストで起きたロバート・マッカートニー殺害事件について、北アイルランド人(基本的に英国人。ただしアイルランド国籍も持てる)である被害者の家族に対し、アイルランド共和国政府がいつになく熱心に動いたことに複雑な心境を隠さない。「マッカートニー姉妹を批判する気持ちはまったくないが、(アイルランド共和国の)政府は、(アイルランド国民である)私たちには何もしなかったのに」と。

悲しいことだけれども、ヘンリーがカトリックだったら、あの時代なら共和国政府も何らかの形で動いていたかもしれない。ヘンリーがカトリックでナショナリストだったら。でも彼はプロテスタントで非政治的な16歳の子供だった。

Robbie is a lot angrier. He has no time for the Irish or British governments.

"There's more than one to go to jail, there's three of them that day. If the UVF has any evidence to say they were involved, let them spit it out," he said.

Robbie does not want to meet the killers although Herbie wants to look them in the eye.

一方ロバートは、ハーバートよりずっと大きな怒りを抱えている。彼はアイルランド共和国政府と英国政府をストレートに批判する。

「誰かひとりが投獄されればよい、というわけではない。あの日、そこには3人いたんだ。UVFが関わっていたという証拠をUVFが持っているのなら、それを吐かせるべきだ」

ハーバートは犯人の目を見てやりたいと言うが、ロバートは犯人に会いたいとは思っていない。


ハーバートが多発性硬化症と診断されたのは20年前(1985年)。そのとき「母は座り込んで泣いていた。私も座り込んで泣いていた。母はあの日、ヘンリーが殺されたあの日、あなたはあんな目にあったのに、まだこんなことになるなんて、と言った。母は、私が生きてる間には無理かもしれないけれど、あなたが生きている間には何かがきっとわかる、だって殺人に嘘はないのだから、と言った。殺人事件はいつだって光の下に来るものだから、と。今年になるまで、私はそのことをそれ以上考えはしなかった」。

記事には、もちろん、真相究明を求め続けるという兄弟の決意は固いのだけれども、兄弟が真相究明を進めた結果どういうことが明らかになろうとも、ヘンリーの殺害実行犯は決して捕まらないだろう、と考えている、とある。これは記事には説明はないのだけれど、1998年のグッドフライデー合意で決まっていることだ(つまり、紛争時の政治的暴力については特赦されることが決まっているので、逮捕・起訴がありえない)。

微妙なのは、治安当局(警察、情報機関、軍)の関与があった場合のことだ。カニンガム兄弟は、弟を殺した事件には治安当局の関与があったと信じている。その根拠は、事件翌日、ヘンリーの遺体をドニゴールの自宅につれて帰るときに、霊柩車とロバートの車の間に「謎のバイク」が割り込んできたことにある。

霊柩車はデリーの町を抜けてドニゴールに向かった。ボーダーの軍の検問所に到着すると、そこに停まっていたバイクが霊柩車と後続のロバートの車の間に割り込んで、そしてそのまま自宅までの約20マイルをついてきて、自宅から200ヤードほどのところでようやく離れた。バイクの運転手はそこでバイクを降り、家に霊柩車が入っていくのを見送ると猛スピードでバイクで去っていった。

この「謎のバイク」は、非番の警官(RUC)か、あるいはUVFのメンバーではないか、と彼は考えている。でなければ検問所であんなふうに割り込んできたことの説明がつかない、と。一般人が割り込んだりしたら検問所で「こらこら何をしている」と言われるのだから、と。

状況証拠としてはもう……。RUCなのかUVFなのかは全然わからないけれど、おそらく、ヘンリーの家の周辺に「怪しい動き」がないかどうかを偵察しにきたんだろう。ドニゴールといえばRUCの手の届かないIRAの拠点のひとつだ。

こういう事件がほかにいくつあるのか、私には見当もつかない。誰かが政治的暴力で殺されたときに行なわれたのは、「捜査、逮捕、起訴」であるというよりも、「パラミリタリーによる暴力での報復」だった。そうやって、どこの誰がどうやって殺したのかがはっきりしない事件は、3,600件を超える事件のうち、どのくらいあるのだろう。そのうち英当局もしくは当局関係者が関与したものは?(もちろん、IRAが拉致して拷問して殺してそのへんに遺棄したために遺体が発見されない事件のようなものもあるのだが。)

ともあれ、HETが組織され、真相究明のために活動しているのは、一歩前進ではある。今後もときどき、HETの報告書のことがBBCなどでも報じられると思うが、気がついたらせめてメモくらいはしておきたいと思う。

はてなブックマークのほうに「HET」のタグを作っておこう。
http://b.hatena.ne.jp/nofrills/HET/


本文で言及した映画:
B0015UBSP0デビル
ハリソン・フォード, ルーベン・ブレイデス, ブラッド・ピット, アラン・J・パクラ
ソニー・ピクチャーズエンタテインメント 2008-06-11

by G-Tools


映画としては「しょぼーん」なんですが(さらに、アラン・J・パクラの最後の作品がこれ、というのも「しょぼーん」)、冒頭のフランキーがIRAに入るきっかけとなった事件の描写など、いくつか非常に力強いシークエンスがあります。

※この記事は

2008年07月04日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 21:27 | Comment(0) | TrackBack(0) | todays news from uk/northern ireland | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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