「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2008年06月26日

あの「大脱走」から25年、だそうです。

アイルランドでのリスボン条約(を締結することで必要となる憲法改定)の是非を問う国民投票で、シン・フェインとすごい右翼とすごい左翼と富豪くらいしかやってなかった「No」キャンペーンが「成功」してしまったことに、何ともいいがたい衝撃を受けてから10日……23日に、私のメールアドレスに、また「シン・フェインからのお知らせ」が届いた。(シン・フェインの機関紙のオンライン版を見るために読者登録してあるので、シン・フェイン・ショップからの新商品や新刊書籍、セールのご案内が来る。別に必要ではないのだが、解除するのもめんどうなので放置してある。)だがこの「お知らせ」メールを、「お知らせ」メールであると認識することは、ちょっと難しかった。何しろ件名がこれなのだ。


メール本文より:


つまり、今年はロングケッシュ刑務所(メイズ刑務所)からの「大脱走」から25年だから、記念Tシャツ作りましたよ、という「お知らせ」だ。

記念Tシャツのお姿……ははは。

というわけで、1983年の「大脱走」について、ちょっと調べて書いてみよう。(このとき脱走した "POW ", つまり "prisoner of war" のひとりが、1998年のグッドフライデー合意のときに交渉担当として大きな役割を果たし、現在はシン・フェイン所属の政治家であるジェリー・ケリーなのだが、英国の言う「紛争解決/紛争転換のプロトタイプとしての北アイルランド和平」にはこういうことも含まれている。)
http://en.wikipedia.org/wiki/Maze_Prison_escape

以下、上記ウィキペディアによると:
メイズ刑務所は欧州で最も脱獄が難しい刑務所のはずだった。周囲を取り囲むフェンスの高さは15フィート、(リパブリカンの囚人が収容されている)H-ブロックは高さ18フィートのコンクリートの壁で囲まれ、その上には有刺鉄線、門は頑丈な鋼鉄製で、スイッチを入れないと開閉できないものだった。

この刑務所は、現在は一部を残して取り壊されてしまったのだけど、壊される前の一般公開のときに訪問した人たちがflickrに写真をアップしている。下記(私のブログの旧アドレス)からどうぞ。
http://ch00917.kitaguni.tv/e189142.html

特に、フェンス:
http://flickr.com/photos/stillburning/45852201/

H-ブロックの門:
http://flickr.com/photos/stillburning/46448457/

敷地を二重に取り囲む壁:
http://flickr.com/photos/stillburning/46547916/

この厳重な刑務所からの脱獄は数ヶ月間にわたって計画されていた。ジェリー・ケリーとボビー・ストーリーはH7棟の用務員の仕事を始めていたので、刑務所のセキュリティ上の弱点を突き止めた。そして、拳銃6丁が密かに持ち込まれた。

9月25日、午後2:30すぎ、囚人たちは刑務官らを銃で脅して人質にとり、2:50にはH7棟は囚人が完全制圧していたが、警報は作動しなかった。囚人たちは刑務官の制服を奪いそれに着替えて、車の鍵も奪った。

3:25に、食料を運んでくる業者のトラックがH7棟の前に到着。トラック運転手らに銃を突きつけて人質にとった囚人たちは、3:50に人質全員を連れてトラックに乗り込んだ。4:00少し前にはトラックは刑務所の正門に向かい、看守の制服を着て銃やノミを持った10人が門の脇の守衛詰所に乱入して守衛を人質にとった。4:05にひとりが警報装置のボタンを押したが、銃を突きつけられていたので、インターコムでは「うっかり間違って押してしまった」と言うほかはなかった。

一方で、守衛詰所には夜シフトで出勤してきた刑務所職員も続々と人質として加わり、相当なカオス。人数が増えすぎて囚人たちの目が行き届かなくなった隙を見て、職員1人が脱出、警報装置のスイッチを入れようと歩行者専用のゲートにダッシュで向かうが、その前に3度刺されていて、警報装置にたどり着かないうちに倒れてしまった。この職員を追いかけていた囚人は、歩行者ゲートの守衛詰所も制圧(守衛を刺し、出勤してきた2人も刺したらしい)、これを監視塔の兵士が発見して軍の作戦室に連絡。そこから刑務所の非常事態室に連絡が入るも、「さっきの警報はうっかり鳴らしたのだと連絡が入ったんで大丈夫っす」との応対……orz

これは「映画」だなあ。そりゃ後々の酒飲み話にもなりますわ。

4:12に正門の守衛詰所で人質となっていた1人の職員が警報を鳴らしたが、そのころには囚人たちは正門を開けることに成功しており、トラックは脱獄者全員が乗り込むのを待っていた。

このとき、2人の職員が車で出入り口をふさいでいたため、トラックは諦めて車を乗っ取ったりフェンスを越えたり、門から脱出したりということになった。何人かは取り押さえられたが、最終的には4:18に正門が閉められるまでの間に、35人が脱獄に成功した。この脱獄は英国史上最大、欧州でも第二次大戦後最大のものである。

刑務所の外には、IRAが車で迎えに来ている手はずだったが、時間の計算ミスがあって迎えがおらず、囚人たちは走って逃げたり、通りかかった車を乗っ取って逃げたりした。4:25には英軍とアルスター警察(RUC)が非常線を張って車両の通行を監視(非常線はこの時期のNIではたぶん日常茶飯事)、11:00には脱獄者1人を捕らえた。

この脱獄劇で刑務所職員20人が負傷した(13人は殴る蹴るの暴行を受け、4人が刺され、2人が撃たれ、歩行者専用ゲートのところで警報を鳴らそうとして失敗した職員は、心臓発作で死亡した)。

で、この大脱走の責任追及がどうなったのかはウィキペディアでご確認ください。(そこは飛ばします。)

その後、1日のうちに15人の脱獄者が捕らえられ(忍者の水遁の術のように水中に潜んでいた人が4人もいたとのこと)、次の2日のうちにさらに4人が捕らえられた。そして残った19人の脱獄囚のうち18人はサウス・アーマー(IRAの拠点)経由で安全なところに逃げ、IRAの武装闘争に戻るか、新たな仕事と名前などを得て渡米するかの選択肢を与えられた。

その後も、脱獄したIRAメンバーの追跡は続いた。

1984年12月、SASの襲撃を逃れようとした1人が川で溺死。(ほかに1人が射殺。)

1985年6月、1人がスコットランドで身柄確保。(このとき一緒に逮捕された中に、ブライトン爆弾事件のパトリック・マッギーがいる。)

1986年4月、1人がSASによって射殺。

1986年12月、オランダに潜伏していたところを逮捕されたジェリー・ケリーとブレンダン・マクファーレンが、英国に引き渡される。

この時点でまだ逃亡を続けていた脱獄囚は12人。

1987年5月、1人がSASによって射殺。(このときはほかに7人のIRAメンバーが一緒に射殺された。)

1987年11月、アイルランドに潜伏していたポール・ケインとダーモット・フィヌケン(脱獄計画の首班。89年にロイヤリストに射殺されたパトリック・フィヌケン弁護士とは兄弟)がアイルランド共和国で逮捕され、英国から引き渡し令状が出される。

1984年にダブリンで身柄を拘束されていた1人は、1988年4月にNIに身柄引き渡し。(うむー、80年代のアイルランド共和国と英国の関係ってのも、非常にやっかいですな。)

ポール・ケインも1989年4月に身柄引き渡し。

ただし1990年3月、アイルランド最高裁はダーモット・フィヌケンとジェイムズ・ピウス・クラークの引き渡しを拒否する決定を下した。その根拠は「NIに戻されれば刑務所で虐待 ill-treatmentを受けるおそれが高い」こと。

(ははは、英国が一面では「マグナカルタの国」でありつつ、一面では「人権人権とうるさいんじゃゴルア」な国家だというのは、むちゃくちゃにひねくれたユーモアでよくお題になるけどね――メジャーなところではジョン・レノンとか。なお、このときは保守党サッチャー政権だけど、サッチャー政権の前の保守党政権のときに、英国はアイルランドの提訴によって欧州人権裁判所でぎゅうぎゅう言わされている。)

1992年と1994年に、4人が米国で逮捕。以後長期にわたって「身柄引き渡し」をめぐる法廷闘争となり、1人は1996年にNIに引き渡し(1998年にGFAで釈放)。2000年、英国政府は正式に、残る3人に対する身柄引き渡し請求を取り下げた(根拠はGFA)。

1997年10月、1人がアイルランド共和国で逮捕されたが、法廷闘争の末、引き渡しは免れた。

その後2000年代にダーモット・フィヌケンら2人が特赦となり、「戻りたいときはNIに戻ってもよい」ことになるなど多少の動きがあるが、2003年9月の時点で、2人は脱獄後まったく足取りがわからないままになっている。

2003年9月、脱獄から20年の記念日に、アイルランド共和国ドニゴールのホテルに800人のリパブリカンが集まって、20周年記念パーティーを開催した。

このパーティに対するUUP所属(当時:後に離党しDUP入りした)のジェフリー・ドナルドソンのコメント。
"insensitive, inappropriate and totally unnecessary".

ははは。

というわけで、「デリカシーに欠けており、不適切であり、完全に不要な」ものであるところの「お祝いムード」は、25周年の今年も健在ですよ、というお話でした。

「大脱走」があったのが9月25日だから、いろいろ賑やかになるのは9月だな。あと3ヵ月。

これから25年後、つまり50周年のころには映画化されたりして。



※『プリズン・ブレイク』じゃないのよ、『大脱走』なのよ。それにしてもこの映画、1963年……ロング・ケッシュ大脱走の20年前か……。

※この記事は

2008年06月26日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 21:35 | Comment(1) | TrackBack(0) | todays news from uk/northern ireland | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
2008年9月22日に、BBC Northern Irelandで、この「大脱走」についてのドキュメンタリー、Breakoutが放送されるそうです。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/northern_ireland/7627280.stm

番組では、IRA脱獄チームの主要メンバーであるボビー・ストーリー、ブレンダン・マクファーレン、ジェリー・ケリー(現在はNI自治政府のジュニア・ミニスター)にインタビューし(もう笑うしかないんですけど。自治政府がpolice and justiceの英国からの権限移譲をめぐってガチガチやってるというこのタイミングですから)、IRA脱獄チームに脚を撃たれた看守のCampbell Courtneyさんにもインタビュー(彼がインタビューを受けるのは初めて)。

脱獄のずっと前から、獄中のIRAのメンバーが看守に接近するために心理戦を仕掛けていたこと(お茶をいれてあげたり、クロスワードを手伝ってあげたりして「仲良く」なっていた)なども出てくるそうです。

見たいなあこれは。

ドキュメンタリー制作者は、1983年のあれを「歴史」として扱っているようですが、25年で「歴史」として扱えるようになったのは、「北アイルランド紛争」は過去のものだという前提があってこそだと思います。
Posted by nofrills at 2008年09月22日 18:03

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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