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メール本文より:
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つまり、今年はロングケッシュ刑務所(メイズ刑務所)からの「大脱走」から25年だから、記念Tシャツ作りましたよ、という「お知らせ」だ。
記念Tシャツのお姿……ははは。
というわけで、1983年の「大脱走」について、ちょっと調べて書いてみよう。(このとき脱走した "POW ", つまり "prisoner of war" のひとりが、1998年のグッドフライデー合意のときに交渉担当として大きな役割を果たし、現在はシン・フェイン所属の政治家であるジェリー・ケリーなのだが、英国の言う「紛争解決/紛争転換のプロトタイプとしての北アイルランド和平」にはこういうことも含まれている。)
http://en.wikipedia.org/wiki/Maze_Prison_escape
以下、上記ウィキペディアによると:
メイズ刑務所は欧州で最も脱獄が難しい刑務所のはずだった。周囲を取り囲むフェンスの高さは15フィート、(リパブリカンの囚人が収容されている)H-ブロックは高さ18フィートのコンクリートの壁で囲まれ、その上には有刺鉄線、門は頑丈な鋼鉄製で、スイッチを入れないと開閉できないものだった。
この刑務所は、現在は一部を残して取り壊されてしまったのだけど、壊される前の一般公開のときに訪問した人たちがflickrに写真をアップしている。下記(私のブログの旧アドレス)からどうぞ。
http://ch00917.kitaguni.tv/e189142.html
特に、フェンス:
http://flickr.com/photos/stillburning/45852201/
H-ブロックの門:
http://flickr.com/photos/stillburning/46448457/
敷地を二重に取り囲む壁:
http://flickr.com/photos/stillburning/46547916/
この厳重な刑務所からの脱獄は数ヶ月間にわたって計画されていた。ジェリー・ケリーとボビー・ストーリーはH7棟の用務員の仕事を始めていたので、刑務所のセキュリティ上の弱点を突き止めた。そして、拳銃6丁が密かに持ち込まれた。
9月25日、午後2:30すぎ、囚人たちは刑務官らを銃で脅して人質にとり、2:50にはH7棟は囚人が完全制圧していたが、警報は作動しなかった。囚人たちは刑務官の制服を奪いそれに着替えて、車の鍵も奪った。
3:25に、食料を運んでくる業者のトラックがH7棟の前に到着。トラック運転手らに銃を突きつけて人質にとった囚人たちは、3:50に人質全員を連れてトラックに乗り込んだ。4:00少し前にはトラックは刑務所の正門に向かい、看守の制服を着て銃やノミを持った10人が門の脇の守衛詰所に乱入して守衛を人質にとった。4:05にひとりが警報装置のボタンを押したが、銃を突きつけられていたので、インターコムでは「うっかり間違って押してしまった」と言うほかはなかった。
一方で、守衛詰所には夜シフトで出勤してきた刑務所職員も続々と人質として加わり、相当なカオス。人数が増えすぎて囚人たちの目が行き届かなくなった隙を見て、職員1人が脱出、警報装置のスイッチを入れようと歩行者専用のゲートにダッシュで向かうが、その前に3度刺されていて、警報装置にたどり着かないうちに倒れてしまった。この職員を追いかけていた囚人は、歩行者ゲートの守衛詰所も制圧(守衛を刺し、出勤してきた2人も刺したらしい)、これを監視塔の兵士が発見して軍の作戦室に連絡。そこから刑務所の非常事態室に連絡が入るも、「さっきの警報はうっかり鳴らしたのだと連絡が入ったんで大丈夫っす」との応対……orz
これは「映画」だなあ。そりゃ後々の酒飲み話にもなりますわ。
4:12に正門の守衛詰所で人質となっていた1人の職員が警報を鳴らしたが、そのころには囚人たちは正門を開けることに成功しており、トラックは脱獄者全員が乗り込むのを待っていた。
このとき、2人の職員が車で出入り口をふさいでいたため、トラックは諦めて車を乗っ取ったりフェンスを越えたり、門から脱出したりということになった。何人かは取り押さえられたが、最終的には4:18に正門が閉められるまでの間に、35人が脱獄に成功した。この脱獄は英国史上最大、欧州でも第二次大戦後最大のものである。
刑務所の外には、IRAが車で迎えに来ている手はずだったが、時間の計算ミスがあって迎えがおらず、囚人たちは走って逃げたり、通りかかった車を乗っ取って逃げたりした。4:25には英軍とアルスター警察(RUC)が非常線を張って車両の通行を監視(非常線はこの時期のNIではたぶん日常茶飯事)、11:00には脱獄者1人を捕らえた。
この脱獄劇で刑務所職員20人が負傷した(13人は殴る蹴るの暴行を受け、4人が刺され、2人が撃たれ、歩行者専用ゲートのところで警報を鳴らそうとして失敗した職員は、心臓発作で死亡した)。
で、この大脱走の責任追及がどうなったのかはウィキペディアでご確認ください。(そこは飛ばします。)
その後、1日のうちに15人の脱獄者が捕らえられ(忍者の水遁の術のように水中に潜んでいた人が4人もいたとのこと)、次の2日のうちにさらに4人が捕らえられた。そして残った19人の脱獄囚のうち18人はサウス・アーマー(IRAの拠点)経由で安全なところに逃げ、IRAの武装闘争に戻るか、新たな仕事と名前などを得て渡米するかの選択肢を与えられた。
その後も、脱獄したIRAメンバーの追跡は続いた。
1984年12月、SASの襲撃を逃れようとした1人が川で溺死。(ほかに1人が射殺。)
1985年6月、1人がスコットランドで身柄確保。(このとき一緒に逮捕された中に、ブライトン爆弾事件のパトリック・マッギーがいる。)
1986年4月、1人がSASによって射殺。
1986年12月、オランダに潜伏していたところを逮捕されたジェリー・ケリーとブレンダン・マクファーレンが、英国に引き渡される。
この時点でまだ逃亡を続けていた脱獄囚は12人。
1987年5月、1人がSASによって射殺。(このときはほかに7人のIRAメンバーが一緒に射殺された。)
1987年11月、アイルランドに潜伏していたポール・ケインとダーモット・フィヌケン(脱獄計画の首班。89年にロイヤリストに射殺されたパトリック・フィヌケン弁護士とは兄弟)がアイルランド共和国で逮捕され、英国から引き渡し令状が出される。
1984年にダブリンで身柄を拘束されていた1人は、1988年4月にNIに身柄引き渡し。(うむー、80年代のアイルランド共和国と英国の関係ってのも、非常にやっかいですな。)
ポール・ケインも1989年4月に身柄引き渡し。
ただし1990年3月、アイルランド最高裁はダーモット・フィヌケンとジェイムズ・ピウス・クラークの引き渡しを拒否する決定を下した。その根拠は「NIに戻されれば刑務所で虐待 ill-treatmentを受けるおそれが高い」こと。
(ははは、英国が一面では「マグナカルタの国」でありつつ、一面では「人権人権とうるさいんじゃゴルア」な国家だというのは、むちゃくちゃにひねくれたユーモアでよくお題になるけどね――メジャーなところではジョン・レノンとか。なお、このときは保守党サッチャー政権だけど、サッチャー政権の前の保守党政権のときに、英国はアイルランドの提訴によって欧州人権裁判所でぎゅうぎゅう言わされている。)
1992年と1994年に、4人が米国で逮捕。以後長期にわたって「身柄引き渡し」をめぐる法廷闘争となり、1人は1996年にNIに引き渡し(1998年にGFAで釈放)。2000年、英国政府は正式に、残る3人に対する身柄引き渡し請求を取り下げた(根拠はGFA)。
1997年10月、1人がアイルランド共和国で逮捕されたが、法廷闘争の末、引き渡しは免れた。
その後2000年代にダーモット・フィヌケンら2人が特赦となり、「戻りたいときはNIに戻ってもよい」ことになるなど多少の動きがあるが、2003年9月の時点で、2人は脱獄後まったく足取りがわからないままになっている。
2003年9月、脱獄から20年の記念日に、アイルランド共和国ドニゴールのホテルに800人のリパブリカンが集まって、20周年記念パーティーを開催した。
このパーティに対するUUP所属(当時:後に離党しDUP入りした)のジェフリー・ドナルドソンのコメント。
"insensitive, inappropriate and totally unnecessary".
ははは。
というわけで、「デリカシーに欠けており、不適切であり、完全に不要な」ものであるところの「お祝いムード」は、25周年の今年も健在ですよ、というお話でした。
「大脱走」があったのが9月25日だから、いろいろ賑やかになるのは9月だな。あと3ヵ月。
これから25年後、つまり50周年のころには映画化されたりして。
※『プリズン・ブレイク』じゃないのよ、『大脱走』なのよ。それにしてもこの映画、1963年……ロング・ケッシュ大脱走の20年前か……。
※この記事は
2008年06月26日
にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。
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http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/northern_ireland/7627280.stm
番組では、IRA脱獄チームの主要メンバーであるボビー・ストーリー、ブレンダン・マクファーレン、ジェリー・ケリー(現在はNI自治政府のジュニア・ミニスター)にインタビューし(もう笑うしかないんですけど。自治政府がpolice and justiceの英国からの権限移譲をめぐってガチガチやってるというこのタイミングですから)、IRA脱獄チームに脚を撃たれた看守のCampbell Courtneyさんにもインタビュー(彼がインタビューを受けるのは初めて)。
脱獄のずっと前から、獄中のIRAのメンバーが看守に接近するために心理戦を仕掛けていたこと(お茶をいれてあげたり、クロスワードを手伝ってあげたりして「仲良く」なっていた)なども出てくるそうです。
見たいなあこれは。
ドキュメンタリー制作者は、1983年のあれを「歴史」として扱っているようですが、25年で「歴史」として扱えるようになったのは、「北アイルランド紛争」は過去のものだという前提があってこそだと思います。