「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2015年05月19日

「歴史」は、動くときは一気に動く。ついに、ジェリー・アダムズが英王室メンバーと直接顔を合わせる。

シン・フェインの警察支持とは異なり、これにはシンボリックな意味しかない。しかしそのシンボリックな意味は、とても大きい。だからたぶん、世界的に報じられるだろうし、おそらく日本語でも記事になるだろう。

ついにジェリー・アダムズが、英王室メンバーと直接対面する。

#Ireland: Sinn Fein leaders, incl. Gerry Adams, to meet Prince Charles
http://chirpstory.com/li/266968




May 18

Speaking tonight, Cathaoirleach Náisiúnta Sinn Féin, Declan Kearney said:

“On Saturday an Ard Chomhairle decided that representatives of Sinn Féin would attend events as part of the visit of Prince Charles to Ireland.

“This was agreed to promote the process of resolving past injustices and promoting reconciliation and healing.

“Sinn Féin representatives have received a number of invites including the Party President Gerry Adams and deputy First Minister Martin McGuiness. In line with the Ard Chomhairle decision both will meet with Prince Charles.”


このシン・フェインのリリースは、党幹事長(チェアマン)のデクラン・キアニーの言葉として、「土曜日(5月16日)、党幹事会 (Ard Chomhairle) が、シン・フェインの代表団が英チャールズ皇太子のアイルランド訪問で行われる行事に出席することを決定した。これは、過去の不正義を解決し、和解と癒しを促進するプロセスを促進する(言葉のダブリは原文ママ)ために決定された。党首ジェリー・アダムズ、(北部/北アイルランド自治政府の)副首相マーティン・マクギネスをはじめ、党の代表者たちは招待を受けている。党幹事会の決定に沿う形で、アダムズ、マクギネス両名はチャールズ皇太子と対面する」と党員および一般の人々に告知している。

これが可能になる筋道は、4年前の今頃からつけられ始めた(といっても、シン・フェイン目線を離れれば、今回のことより4年前の出来事のほうがずっと重要でずっと大きいのだが。つまり、今回の出来事は4年前の出来事の結果のひとつなのだが)。

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posted by nofrills at 14:11 | TrackBack(0) | todays news from uk/northern ireland | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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