「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2015年05月13日

「あの○○記者」というブランド化にこそ、懐疑の目を向けるべきではないのか。

毎日新聞の国際欄をチェックしたら、こんなふうになってた。例のシーモア・ハーシュ記事は、毎日新聞の国際欄のトップに来るようなものなのだろうか? ただし記事は「共同」だが。


※記事:
米国:「ビンラディン殺害にパキスタン協力」暴露記事(→ミラー

確かにシーモア・ハーシュは人々の耳目を集めることができる記者だ。下世話な言い方をすれば、この人の書いたものは「売れるコンテンツ」だ。それに「国際欄のトップに来ていること」は、単に共同通信記事の配信のタイミングもあったかもしれない。だが、この記事は……びっくりしたので、わざわざ手間かけてツイートしたくらいだ。

そもそも当該の記事を「暴露記事」と呼んでいいのかどうかも私にはわからない。ハーシュの記事は(がんばったけど全文を読むことができず、ざっと「目を通した」だけだが)、まとめると、「〜ということが関係者の話でわかった」という記事で、その「〜ということ」は他者による検証可能性が著しく低いのだ(ハーシュの情報源が匿名だったり、事実誤認が目立ったりしている)。その場合、「〜という可能性が高いと指摘する記事」ではあっても、「〜という事実を暴露する記事」ではなかろう。「問題提起」は「事実の指摘」ではない。

ともあれ、当該のシーモア(セイモア)・ハーシュの記事については、既に「Twitter上のジャーナリストらの反応や記事の抜粋のツイート」を中心に、まとめておいた。当該のハーシュの記事へのリンクも、下記「まとめ」にあるのでそれをご参照いただきたい(ここからリンクしたくない)。

「5年間軟禁の挙句に売られた」……? シーモア・ハーシュ、「オサマ・ビンラディン殺害」の“真相”とは
http://matome.naver.jp/odai/2143132879161241101


なお、当該の記事はアメリカのジャーナリズムの媒体にではなく、イギリスの言論誌(London Review of Books)に掲載されている(その点は共同記事にも書かれている)。こんなビッグネームが「暴露記事」を書くなら、LRBではなくNew Yorkerだろう。(ちなみに、ハーシュが「シリアの毒ガス」についてよくわからないことを憶測を積み重ねて書いていたのもLRBだった。あんときに指摘された疑問点、そのままになってるんじゃないっすかね。)

このハーシュの記事は、私が何かをしてもしなくても、いずれ日本語化されるだろう。なのでここでは、この記事についての「ツッコミ」を少し紹介しておこうと思う。

なお、「ツッコミ」以前に、翻訳する場合は必ず問題となると思われる部分についての指摘が出ているのでそれを。固有名詞の混同だ。

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posted by nofrills at 06:00 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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