「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2015年05月07日

英総選挙当日、ガーディアンを「UK版」にして見る方法。

先日、レイアウトを最新の流儀・流行に合わせてリニューアルしたガーディアンのサイトが、その後、International Edition(国際版)を立ち上げた(現在はまだベータ版)。トップページに並ぶニュースが、これまであったUK版、US版、オーストラリア版のいずれとも異なる。

UK国内ニュースについては、UK版(英国版)で見るのが最もよいことは言うまでもないだろう。特に今日は総選挙なので、注目しておきたい。が、日本から普通にアクセスすると、「国際版」で表示されてしまう。

本稿では以下、その切り替え方と、内容の違いについてメモする。


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ベルファストでの殺人事件(「IRAの大物」)の件。

デリーで爆発があって、数日後にベルファストでもボム騒動があったかと思えば、デリーでマーティン・マクギネスの家(ボグサイドにある)にペイント・ボム(ペンキと爆薬を何らかの容器に詰めて、壁に当たると爆発してペンキを飛散させるようにしたもの。コンビニで強盗などがあったときに使うカラーボールに似ているのかもしれない)が投げつけられたり、シン・フェインの人たちに重ねて「殺す」という脅迫があったりしていて、総選挙投票(5月7日)が迫る中、誰が何をやってるのかわけがわかりませんという状態でいたときに、今度はベルファストで、5月5日(ボビー・サンズの命日)の昼日中というか朝の9時に住宅街で人が撃ち殺されるということがあり、その殺された人が「ベルファストIRAの大物(だった)」ということで、いやもうちょっとあの、えー、と誰もが思っていたであろうところで警察が「そういう背景ではなさそう」と述べ……ということがあったのですが、いろいろと書くに書けない感じなので、断片を重ねる形でNAVERまとめを利用して記録しています。はい。

最新情報によると、男が1人逮捕され、「紛争」関連ではなく「個人的な恨み」が関係しているのではないかとのこと。
http://www.belfasttelegraph.co.uk/news/northern-ireland/man-arrested-over-murder-of-former-ira-leader-gerard-jock-davison-31200220.html

posted by nofrills at 16:30 | TrackBack(0) | todays news from uk/northern ireland | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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