「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2015年05月03日

デリーで爆発があり、ベルファストでもボム騒動が起きている。

現地時間で4月27日夜遅く、デリーでまた爆発があった。標的とされたのは住宅街の中にある保護監察官事務所で、一本の通りに沿って並ぶヴィクトリアンのテラスト・ハウス(要は「長屋」)の1軒。両隣は普通の民家で、学齢に達していない子供のいる家族が住んでいたりする。現場近くの建物に備え付けられている防犯カメラ(CCTV)の映像を見ると、爆発が起きた瞬間には、通りを歩いている人もいた(後に、その人は通りの突き当たりにあるメソジスト教会のミッションに所属する聖職者とわかった)。本当に普通に「住宅街」だ。

爆発事件発生当時、「デバイス(爆発物)はもう1つある」として当局が現場を入念にチェックしていたが、それが最終的に出てきたのかどうかは、私はちょっと確認しきれていない(UTVが「現場付近から不審物が見つかったが、それが爆発したボムの一部なのか、別の爆発物なのかははっきりしない」と報道したのを確認できただけ)。

この爆発、地元の「サマリタンズ」(日本でいう「いのちの電話」。IRAのボムの予告電話といえば、24時間誰かがいるベルファスト・テレグラフなど報道機関か、サマリタンズに入るのがお約束)に「予告電話」が入ったというが、そのタイミングはあまりに遅くて爆発前に人々を避難させることもできず、また、述べていた内容が実際に起きたこととは違っていたと警察の担当者が憤りもあらわにメディアに語っている。

アメリカのメディアは早々とIRA-Style Bomb Damages Londonderry Probation Officeなどと伝えていたが、爆発物のタイプが「IRA流」なのかどうかは、当局筋からはっきりと断言されてはいないはずだ(「パイプ・ボムと思われる」とメディアでは言われているし、警察もそう説明しているのかもしれない。私はチェックしきれていない)。ただ、「予告電話」云々は「IRA流」だし、デリーで彼ら「まだ戦い続けているIRA(ディシデンツ)」のほかにあんなことをする人たちがいるとはちょっと思えない。

その辺と、そして何より、事件発生を受けてのデリーの人たちの言葉(「爆発音、聞いた?」みたいな)を、NAVERまとめを利用して記録しておいた。

デリーでまた爆発。しかも「予告電話が予告になっていない」パターン(2015年4月27日)
http://matome.naver.jp/odai/2143022714842521801




「総選挙まであと数日」というタイミングである。何かあれば、いつも以上に人々の関心は集まるだろう。なのでまた続かなければよいのだが、と思っていたところに、続いた。ベルファストの北部、アードインだ。

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posted by nofrills at 06:00 | TrackBack(0) | todays news from uk/northern ireland | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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